第85.6話 過保護な守役は精霊と約定を交わす

「カジタぁ!!!!!」


 突如として大樹から現れたカヤノ様は手前の胸倉を掴んで前後左右、さらには上下にと「ガクガクガクガクッ!」と激しく揺らし始めた。


「何とかしなさいっ!! 何とかぁ!!!」


「カ、カ、カヤノ様……あだっ!」


 宥めようとしたら舌を噛んでしまった。


 碌に話す事も出来ない。


「し、しばらく! 暫くお待ち下され!」


「どうかお怒りをお鎮め下さい!」


 雑賀殿と杉ノ介がカヤノ様の腕を掴んで必死に懇願する。


 一方、クリス殿とハンナ殿は――――、


「わぁ……カヤノ様ってすっごい力持ちねぇ……」


「やっぱり精霊だからですかね? でもあんな細腕で……」


「あれって異世界のグソクって鎧でしょ? 装備した人間はぁ、百キロぐらいになるって聞いたよォ?」


「百!? 乙女には到底無理ですね」


――――などと呑気に話している。


 見物などしていないで加勢して下され! と頼みたい所だが、まともに話す事が出来ない。


 結局、カヤノさまは一頻ひとしきり揺らし回した後、唐突に手前を地面へ落とした。


 それも腰を強かに直撃するように……。


「あつつつ……こ、腰が……」


「か、加治田殿!?」


「大事ござりませぬか!?」


「腰なんてどうっ……………………っでもいいのよ!」


 憤怒の形相を血より濃き唐紅からくれないに染めたカヤノ様は、仁王立ちで手前を見下ろす。


 始めの内はあまりの唐突さと、神仏の類であらせられるカヤノ様への遠慮から、怒りの念など毛ほども浮かばなかったが、だんだんと憤懣ふんまんが込み上げてきた。


「さ、さすがに御無体にござりますぞ! 何故なにゆえ斯様かような仕打ちを……!?」


「仕打ち? 違うわ。これはお仕置きよ!」


「手前は罰されるような真似はしておりませぬ!」


 左様に申すと、雑賀殿と杉ノ介が「何かの間違いでは?」と申し添える。


 クリス殿とハンナ殿も「冷静に、冷静に……」とカヤノ様を宥める役に回ってくれた。


 だが、カヤノ様の怒りは冷める気配がない。


「冷静に? あんなザマを見せられて冷静に何ていられないわ!」


と、町の外を指差した。


 全員がその方向へと目を向ける。


 そこには敵の本陣があった。


「あの……敵の本陣が何か?」


「そうじゃない! その隣!」


「隣? …………おや? あれは……」


 敵本陣では、遠目にも人の出入りが激しくなりつつあった。


 敵軍二千がネッカー川を渡り始めて一刻ばかり。


 船の備えが無かったのか、大半の敵兵が徒渉かちわたりを余儀なくされている。


 秋が深まりつつあるこの時期、水はさぞかし冷たかろう。


 ネッカー川の流れは穏やかだが、中には足を取られて流される者も出ているようだ。


 渡河は遅々として進まず、未だに道半ばと言った所。


 苦しむ味方を見かねて手助けに入ろうとでも言うのであろうか?


 いや、それにしては敵の動きがおかしい。


 人の流れが向かうのは、川とはまったく反対側だ。


「ふむ……。川の味方の元へ向かうでもなければ、かと言ってビーナウへ攻め寄せるための備えとも思えませぬな」


「どっちでもないわよ! よく見なさい! あいつら木を切り始めたのよ!」


「木でござりますか。そうか、成程……」


「成程ってぇ、カジタ様は何か分かったのぉ?」


「はい。恐らくでござりますが――――」


 皆に手前の考えを披露した。


 敵は陣の構築に使う材木や、まきを得る為に周囲の森林に手を出したに違いない。


 昨日は日暮れまで時が無く、とてもそこまで手が回らなかったのだ。


 日が昇ってようやく動き出したと言う事であろうな。


「待てよ? では敵には手持ちの材木は少なく、昨日の敵陣は無防備に近かったか? おのれ……そうと知っておれば夜討ちの一つも仕掛けたものを……!」


 我らに異界の軍勢と戦った経験は少ない。


 ゲルトめを迎え撃った先の合戦が唯一の経験だ。


 異界には魔法もある。


 如何なる備えが施されておるか分からぬと、慎重に事を構え過ぎたか……。


 雑賀殿と杉ノ介も悔しそうに歯ぎしりしている。


 クリス殿とハンナ殿は「夜ぅ? 真っ暗な中で戦うのぉ?」とか、「危ないですね。あんまりお勧めしませんよ?」などと申されておる。


 確かに危なくはあろうが、そもそも夜討ちとは――――いや、今はそんな話を悠長にしておる時ではないな。


「御礼を申し上げますぞ、カヤノ様。手前共の油断を戒めに――――」


「戒め? 違うわよ! 夜討ちとかそんな事はどうでもいいから連中を止めて!」


「止める、でござりますか?」


「そうよ!」


「御言葉を返すようですが、残る敵は五千、我らは六百。日が昇り切った今となりましては、十倍近くの敵に不用意な手出しは――――」


「ダメよ! ダメダメダメッ! 私の可愛い子達を許しも無くるなんて許せない!」


「は? 子……でござりますか?」


「私はこの通りこの地に根を張ったわ!」


 カヤノ様が御自身の分身たる大樹を「ビシリッ!」と指差した。


「もはやこの地の草木は我が子も同然! それを……それを! 森の新陳代謝も考えずに無秩序に片っ端からっているのよ!? おのれ許すまじ! この恨み晴らさでおくべきか!?」


 翡翠ひすいの如き輝きを放つ長い髪を振り乱し、唇が破けんばかりに葉を立てるカヤノ様。


 その御姿は悪鬼あっき羅刹らせつか、はたまた修羅しゅら夜叉やしゃか。


 見目麗しい娘御むすめごが怒り狂う様は、くも凄絶せいぜつなるものか――――。


 とは申せ、凄絶なる様に肝を冷やしておるようでは武士なぞ務まらぬ。


「お話は分かり申した。この一件、若は何と申されましたか?」


「『不用意に手は出せん。しばし耐えよ』って言ったわ!」


「他には?」


「知らない! すぐにこっちへ来たんだから!」


「では手前の答えも若に同じ。しばし耐えて下され」


「なんですって!?」


「お待ちを。続きがござります。若が申すはずであった御言葉、手前が代弁致しまする」


「申す……はず?」


「左様。若は斯様かように申そうとなさったはず。『只で耐えろとは申さぬ。あの奴原やつばらには十二分に償いをさせようぞ』と……」


「償い? ……それは何?」


「はてさて……。良き肥やしは腐る程手に入りましょうが……」


「良き肥やし……ね……。分かったわ。今は引いてあげる」


「有り難し――――」


「まだ早いわ。精霊との約束は必ず果たしなさい。いい? 必ずよ? 破った時は……」


「承知の上にござります。手前も武士。己の結んだ約定を果たせぬとあらば恥辱この上なし。斯くなる上は我が腹をさばき、己が肥やしとなりましょうぞ」


「そう……。じゃあ、任せたわよ?」


 いつの間にかカヤノ様の御顔からは憤怒の相が消えていた。


 代わりに現れたのは、大将首を目に入れた武者の如き顔であった。

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