第76話 「百万言費やすより一の死合」丹波が不敵に笑った
「あれはクリストフ殿? たった一騎で? 抜け駆けかしら?」
母上が呑気な声で首を傾げた。
「おい母上。抜け駆けの意味を分かって申しておるのか?」
「分かっていますよ! でもね、武士たる者はこうでなくちゃ。他人を出し抜き、踏みつけにしてでも
「間違ってはおらんが、軍法に反する行いはだな――――」
「ちょ……お、おい! シンクロー! 軍法に反すれば『イッセンギリ』になるのでは!?」
「うむ。左様だ。ミナも分かってきたな」
焦るミナを前に、辺境伯夫人とヨハンは事情が分からないらしく不思議そうな顔をしている。
「ヴィルヘルミナ、何をそんなに焦っているのです?」
「『イッセンギリ』とは初めて耳にする言葉ですが、危険なものなのでしょうか?」
「お母様! ヨハン! 大変だ! クリストフ殿が首を斬られてしまう! 死刑になってしまうんだ!」
「な、何ですって!?」
「死刑!?」
「落ち着かんか。九州衆の様子を見てみよ」
驚き焦る異界の者達に西軍の陣を見るよう促す。
抜け駆けが出たと申すのに、西軍には騒ぎ立てる者がない。
抜け駆けに続こうとする者もなく、陣形には一切乱れがない。
本陣周りも落ち着いたもので、西軍大将の
どころか、遠目には西軍奉行衆と談笑しているようにさえ見える。
しきりに前方――東軍の方向を指差して何事か話しておるが、軍法を破られて怒る様子は
「大将にも、奉行衆にも、クリストフを咎める様子がない。おそらくこの抜け駆け、大将の許しを得た上での事に相違あるまい。いや、許しを得たならば抜け駆けではないな。先陣の栄誉を授けられたと申すべきか」
「そ、それは本当でしょうか? クリストフ様は処罰されないのでしょうか!?」
「案ずるなヨハン。ほれ、始まるぞ?」
クリストフは東西両軍の真中あたりで馬の足を止め、だだっ広い河原全体に響けとばかり、大音声で呼ばわった。
「我が名はクリストフ・フォン・ブルームハルト!
クリストフの口上に西軍陣内から歓声が上がり、次いで
長井の奴めが扇を大きく振って「えい! えい!」とやっておるわ。
母上が「まあまあ! 源平合戦みたいね!」などと喜んでおる。
ミナ達はまだ落ち着かない様子で成り行きを見守っておるがな。
さて、東軍は誰が出てくるか――。
「――ならばこの爺めがお相手致しましょうぞ」
「どうしてお主がそこにおる!?」
思わず叫んでしまった。
『爺』と申す言葉で誰もが分かろう。
そうだ。
丹波のクソ爺めが、
「あのクソ爺は
「あら、良いじゃありませんか新九郎」
「母上!?」
「丹波様が御歳通りのご老人だなんて、家中じゃ誰も信じていませんよ」
「俺はせっかくの
「尊敬する御師匠様の身を案じる気持ちは分かりますけどね?」
「そうなのかシンクロー?」
「だ、誰があのクソ爺を案じてなど!」
「
「如何いう意味だ? 間違いなく良い意味ではなかろう――――」
そうこうする内に、丹波も東西両軍の真中辺りまで馬を進め、クリストフと
西軍同様、東軍からも
どこか熱気に当てられたような大音声だ。
「この様子……。斎藤家において、あなたは厚い信頼を得ておられるようですね?」
「ほっほっほ。お若い方は面映ゆい事を申される」
「御名を伺えますか?」
「丹波と申しまする」
「丹波? それだけですか?」
「おや? 不思議ですかな?」
「いえ、他の方々はもう少し長いお名前でしたので……」
「中には短き者もおりましょう。では、始めましょうかな?」
「はい…………もう一つ伺っても?」
「何なりと」
「
丹波が持参したのは、自身の身の丈と同じ五尺ばかり木棒一本。
それ以外は刀も脇差も差してはいない。
「
「いえいえ。木棒一本で十分にござります。爺故、得物をいくつも抱えるのは難儀でしてな」
「そうですか? 後悔しますよ?」
「ご心配なく。おお、そうだ。馬の揺れは腰に来る。爺めは馬から下りてお相手致しましょう。貴殿は馬のままで結構ですぞ」
「どこまでも舐められたものですね……」
「とんでもない! 我が身を顧みて最良の策を採ったまでにござります」
「どういうおつもりです?」
「
「…………分かりました」
クリストフは馬に乗って丹波から距離を取った。
おおよそ
クリストフが刃渡り二尺半ばかりの両刃の剣を抜く。
日ノ本のものではない。異界の剣だ。
さすがに十日では得物までを変えるには至らなかったか。
対して、丹波は木棒を斜め上段に構える。
クリストフが馬の腹を蹴った。
馬にて蹴り殺さんばかりの勢いで丹波に迫るクリストフ。
両者が正に
だがクリストフも負けてはおらぬ。
丹波の動きを予想していたに違いない。
身を躱した丹波を片手に持った剣で払おうと――――した瞬間、丹波の木棒が二、三尺ばかり伸びた。
いつもの仕込み杖は如何したのか思っておれば、何の事はない。
仕込み杖の代わりに仕込み棒を用意しておったのだ。
動揺したか、クリストフは剣を振る動きを止めてしまう。
丹波がその隙を見逃す事はない。
木棒を振るい、クリストフの左肩から右胸にかけて強かに打ち払い、勢いのままに落馬をさせてしまった。
主を失った馬は何が起きたか気付くこともなく、そのまま
「……今……一体……何を……?」
「ほっほっほ。爺めにとっての最良の策を採ったに過ぎませぬ」
東西両軍から大歓声が湧き起こる。
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