第42話 「お主の香りは心地よい」新九郎はミナを抱き寄せた

「若っ! 勝鬨かちどきにござる!」


 左馬助がやぐらの上から叫んだ。


 返事の代わりに大太刀おおだちを大きく掲げ、


「エイ! エイ!」


「応――――ッ!」


「エイ! エイ!」


「「応――――――――ッ!」」


「エイ! エイ!」


「「「応――――――――――――ッ!」」」


「エイ! エイ!」


「「「「「オオオオオオオオオオオオオオオオオオ」」」」」


 最初の内は門の周囲だけに響いた勝鬨は、繰り返すうちに町の中へ広がる。


 やがて南の伏兵、次いで東の援軍にも及び、ネッカーの町の周囲は斎藤家の兵が上げる大喊声だいかんせいに包まれた。


 異界の者共には勝鬨の意味など分かるまい。


 だが、ゲルトとカスパルを討ち取ったという俺の声、応じるように続いた勝鬨は、敗北を実感させたらしい。


 門前の敵兵は膝を落としてその場にへたり込み、呆然としている。


 そうでない者は、背を向けて逃げ出し始めた。


 もはや、戦おうとする気概のある者はほとんど残っていない。


「戦う気のない者は降れ! 降った者は命を助ける!」


 叫ぶと武器を捨てる者も出始めた。


 まだ魔法が掛かっているから戦場の隅々まで聞こえたのだろう。


 戦いの音は瞬く間に消えて行く。


 ふう……。これで一段落――――。


「シンクロー!」


「ミナ? おおお!?」


 ミナが櫓の上から飛び降りる。


 慌てて空いた左手を大きく広げ、抱き止めた。


「何をやっとる! 危ないではないか!」


「貴様に言われたくない! 貴様は総指揮官だぞ!」


「うっ……いや、しかしだな。あれはまたとない好機で……」


「なら弓や鉄砲で良かったのだ! 私の魔法でも!」 


「そうかもしれんが、目立つように討ち取ってこそ敵の戦意をくじいてだな……」


「もしも……もしも殺されていたらどうするつもりだった!?」


「左馬助や忍び衆がおるから援護の心配は――――」


「この馬鹿者!」


 抱き止めたままの格好でミナから責められてしまう。


 こんなところでミナに言い負かされるとは思いもせなんだな……。


「戦場の真ん中で逢引きとは、若はお盛んでござりますな」


 笑い交じりに言いながら、左馬助が涼しい顔で櫓から飛び降りた。


 ミナは「モチヅキ殿!?」と抗議するが、からかうように笑っている。


 左馬助に続いて十名ばかりの者達が飛び降り、あるいは縄を伝って櫓を下り、俺の周囲に集まる。


 全員が赤備えの甲冑姿をしているが、中には忍び衆も混じっていよう。


 門の中からも数十人の兵が出て来て俺達を取り巻き、櫓の上では十数人が弓や鉄砲を構えている。


「すまんな左馬助」


「何のこれしき。若がなさることは大体想像がつきまする」


「ふん。元守役には敵わんな」


「当然にござる。では、この後にござりますが……」


「ああ。降った者は武器を取り上げ、町の外に集めて見張れ。同時に、南と東の兵と合流する」


「逃げ散った者は如何いかがなさいますか?」


「追い討ちするにしても全軍合流してからでよい。慌てて追い討ちし、返り討ちになっても面倒よ。近隣の村々には民もおらぬしな」


「ゲルトめが時間を与えてくれたおかげで村の衆を逃がすことが出来ましたからな」


「敵の落ち武者共が逃げ散っても迷惑を被る民がいない。ならば、我が軍の体勢を整えた上で追い討ちに掛かるが賢明よ」


「では、御下知おげち通りに……」


 話し終えると、左馬助は使番つかいばんを呼び寄せて指示を出し始めた。


「……おい」


「ん? どうしたミナ?」


「いつまでこうしているつもりだ?」


「こう? こうとは何だ?」


「くっ……! 分かっているくせに! いつまで抱き締めるつもりかと聞いているんだ!」


 ミナの大声に家臣達だけでなく、武器を捨てた敵兵までもが目を丸くし……ニヤニヤと笑いながら目を逸らした。


「カスパルを挑発した時の話……信じておる者が多いようだな? どうする? お主を抱く姿を見られてしまったぞ? 話に真実味が増すな?」


「くうっ……!」


「はっはっは! 墓穴を掘ったな! まあ少しくらい良いではないか!」


「よ、良くない!」


「俺は良いのだ。こうしておると、お主の香りが楽しめる」


「なっ……! 止めろ! 嗅ぐな!」


「ん? 良い香りだぞ?」


「そうじゃなくて……」


「実に心地よい。心が落ち着く」


「…………!」


 ミナは下を向いて黙ってしまった。


 ただ、耳は赤備えのごとく赤く染まっている。


 ふむふむ。俯いた顔はどんな可愛い表情をしておることやら――――。


「若ッ!」


 東の方から俺を呼ぶ叫び声が聞こえた。


 顔を上げると、降った敵兵を弾き飛ばさんばかりの勢いで馬を飛ばす藤佐とうざの姿が見えた。


 勢いのままに俺の元へと駆け寄ると、落馬と見紛う体勢で馬から下りた。


「ご、ご無事なのでござりますか!?」


「何を言っておる。この通り怪我一つないぞ」


「櫓の上から飛び降りたと伺いましたぞ!」


「ん? ああ、うん。飛び降りた」


「危ないことはお止めください! この藤佐とうざ、心の臓が止まるかと思いましたぞ!」


「悪かった悪かった。ほれ、この通りだ」


 拝むように頭を下げると、藤佐は「若~!」と弱ったように情けない顔をした。


「かっかっか。新九郎も立派になったのう。戦場で女子おなごを腕に抱くとは思いもせなんだわ」


「おお! 伯父上!」


 藤佐に続いて馬を進めて来たのは利暁りぎょうの伯父上。


 白い行人包ぎょうにんづつみを被り、袈裟けさの下に甲冑を着込んだ、これ以上ない見事な僧兵姿だ。


「苦労をかけたな伯父上。民百姓をよく率いてくれた」


「何のこれしき朝飯前よ。還俗げんぞくして侍に戻ろうかと思ったわ」


「伏龍寺の住職が居なくなるから止めてくれ」


「坊主などおらずとも、仏像を置いておけば寺なぞどうとでもなるわ」


「坊主の言うセリフか?」


「かっかっか! ああ、ところで加治田のぼんよ。新九郎とミナ様に報告する事があったのではないか?」


「あっ! そ、そうでござった!」


 藤佐とうざが俺とミナの前に膝を突いた。


「大坂屋敷からの知らせにござります」


「申せ」


「はっ! 昨晩、辺境伯が目をお覚ましになられたとのこと!」


「お父様が!?」


 ミナが驚きの声を上げる。


「い、命は助かったのですか!?」


曲直瀬まなせ先生は峠を越えたと申されております! 心配はないものと!」


「お父様……!」


 ミナの瞳に涙が浮かんだ。


 少しだけ、ミナを抱く腕に力を込めた。


 戦の間中、ずっと耐えていたに違いないのだ。


 俺達もあえて話題に出さぬようにと努めていたが、戦に勝ち、辺境伯の無事を聞き、感極まるものがあったのだろう。


「若にもご伝言が」


「俺に? 誰からだ?」


「カヤノ様にござります。『人間の毒抜きを手伝ってやったのよ? 酒樽百個は寄越しなさい』と仰せです!」


 辺境伯をお救いするにはカヤノの力を借りるしかないと、一縷いちるの望みを賭けて大坂屋敷へ送ったのだが……。


「百個……また大きく出たな。辺境伯のお命には代えられんが」


「ちなみに丹波様からもご伝言が」


「……申せ」


「『若様はまだまだ甘うござります』と……」


「分かった……」


 どうせそんなことだろうと思った。


 丹波に言わせれば、今回の一件は辺境伯家乗っ盗りのまたとない機会。


 辺境伯のお命を救えば乗っ盗りが頓挫とんざするかもしれぬ。


 千載一遇の好機をふいにするとは何事か。


 そう言いたいのであろう。


 腹は立つが、返す言葉もないな……。


 ミナは何の話だと不思議そうにしているが、詳しく話してやる気にはならん。


 これはさっさと話を逸らすに限る。


「藤佐よ、町や村の民を率いて避難なされた奥方のご様子は?」


「あっ! そ、そうだ! お母様はどうなさっておられますか!?」


「率先して民の不安を払拭することに努めておいでです。そうでした。奥方様からもミナ様へご伝言が」


「お母様からも?」


「はっ。『もはや父母の心配は無用。思う通りに戦いなさい』とのお言葉にござります」


「……分かりました。伝えてくれてありがとう」


「はっ」


 藤佐の報告が終わるとミナは涙をぬぐい、俺の目を見た。


「シンクロー――――」


「領都を落とすか」


「――――えっ!? ど、どうして分かったんだ!?」


「今の流れで答えはそれしかあるまい? ゲルトとカスパルは兵を根こそぎ連れて来た。領都はもぬけの殻よ。好機だ」


「……なんだか悔しい。一発殴らせろ!」


「はっはっは! 俺に勝てたことなどなかろうに!」


「うるさい!」


 ミナとの戯れは心躍る。


 だが、続きはまた今度、だな。


 その日の夜半、兵を率いて領都へ攻め入った。


 辺境伯令嬢ヴィルヘルミナを先頭に押し立ててな。


 もぬけの殻となった領都は抵抗らしい抵抗もなく落城した。


 俺が異界へ飛ばされて、十三日目の出来事だった。

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