アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅷ

 私も慌ててノブを引きましたが、1ミリたりとも微動だにしません。施錠されているとか力で抑えつけられているというよりもまるで扉が書割にでもなったかのよう。

 悪戦苦闘する私たちを見かねたのか、猫がとことこと扉に近づくと小さな手でちょこんと扉に触れました。しかし、「みゃー」と一声鳴くと落ち込むように項垂れてしまいました。


「透火さん、ここは無理のようです。別の方法を考えましょう」

「でも、窓から外は見えていますよ。バールのようなものでガラスを割ってしまえば………」


 さらっとすごいことを言いますね、この中学生女子は。でも、それでもダメなのですよ。なぜならここは“魔女の劇場”なのですから


「―――キャンセル、ですか?」

「はい。この劇場には舞台の魔法が外に影響が出ないように魔法を無効化する機能キヤンセラーが備わっているのですよ。劇場の外に出ようとするあらゆる行為が“そもそも起こらなかったこと”にされてしまうのです。TVゲームに例えるなら『ボタンが押せない状態』ですね」


 逆に言えば、劇場内、舞台と二重三重に対象を限定することで魔法の効果を最大限高めているともいえます。世界を直接改変する魔法は影響力はあれど本来はそれぐらい力としては微弱なものなのです。


「そんな!? もうどうしようもないんですか!?」

「いえ、劇場に貯まった霊力マナが消費され尽くしてしまえば魔法は自ずと消えてしまいます。こんな無茶苦茶な使い方なら30分も持たないはず…………でも、どうやらそれも無理のようですね」


 大階段に目を向けるとロビーの奥から白い霧が立ち込め始めていました。霧の奥は電気が消え、場内のように真っ暗になっています。どうやら舞台の領域がどんどん拡大されているようです。「境界」を無くしてしまう魔法とは、いやはや何とも厄介な魔法ですね!


「他に助かる方法はないんですか?」


 そうですね……何か…………方法は……そのとき猫と目が合いました。

 そうだ、白亜なら! この劇場の隅から隅まで知り尽くしている白亜ならこの異変にいち早く気がつけたはずです。そして、あの偏屈で杓子定規なあの副館長が黙って相手の好き勝手にされたままでいるわけがありません!


「搬入口に行きましょう。今夜はこの大雨でギリギリまで搬入をしていたはすです。あそこだったら劇場の外に繋がっている、繋がっているですよ!」


 エントランスホールから搬入口に行くには事務室から楽屋エリアを通って舞台裏に回る必要があります。あの白い霧が舞台裏にどれだけ浸食しているかはわかりませんが、今の私たちが助かるにはこのルートしか残されていません。


「行きましょう、彼方さん!」

「ええ、そうですね! でも、透火さん。その前に1分間だけ息を整えましょう。ずっと緊張の連続で神経が張り詰め過ぎているのです。これからどんなことが起きるかわかりません。冷静な判断ができるように深呼吸をして、すーはー、ですよ」

「…………もうダメだ、もう終わりなんだあ」


 鼻から息を吸いかけたとき、足元から呻く声が聞こえてきました。忘れていたわけではありませんが、声の主はもちろん仙洞片理さんとあの赤ちゃんです。


「大丈夫です、お客様。私たちがお客様を必ず外までご案内さしあげます」


 しかし、片理さんは私の声が聞こえているのか聞こえていないのか頭をぶんぶん振りました。


「復讐だ…………これは彼女の復讐なんだ。僕はもう終わりだ。そうだ、そもそも終わっていたんだ。彼女から見捨てられた時点で僕はもう終わっていたんだ…………」


 そう言うなり糸が切れたパペットのようにガクンと項垂れてしまいます。


「お客様、急いでここから逃げ―――」

「お姉ちゃんはそんな人じゃない!」


 突然の叫び声に驚いて後ろを振り向くと透火さんが片理さんを睨みつけていました。見る見るうちにその眦からじんわりと涙が溢れてきます。


「お姉ちゃんが復讐なんてするわけがない! 碧海あみお姉ちゃんは透火にとって光なの! 許せない……みんなお姉ちゃんのことを悪く言って……」

「君は一体……」

「透火さん! お客様になんてことを!」

「許せない許せない許せない! だったら、私がっ‼」


 透火さんの足がゆらりと動きかけます。それを見て私は咄嗟に片理さんの前に出ようとしました。そのときです。片理さんの胸に抱かれた赤ちゃんが透火さんの叫びをかき消すようにもっと大きな声で泣いたのです。

 

 ―――音楽は鳴り響き、人々は踊り、花火が打ちあげられ、まるで真昼のよう。

 ―――けれどもお姫さまは王子をうっとりと見つめていました。

 ―――ああ、人はなんて美しいのだろう!

 

「―――“彼女”のことを知ったのは五年前。ネットにあげた歌にコメントをくれたんだ。あの頃は学校にも行かずに家に引き籠っていてひたすらネットで歌っていて……まあそれは今も大して変わらないけど。でも、あの頃は歌っても歌ってもなしのつぶてで。まるで海や川に向かって歌っているような感覚だった。そんなとき、“彼女”は海の向こうから突然やってきたんだ……」


 私たちは楽屋に続く地下の廊下を歩いています。片理さんが正面扉に逃げる際に足を挫いてしまっているのでスピードはひどくゆっくりです。でも、そのおかげでこの青年から碧海しんじゅさんのお話を聞くことができています。


「…………本当に嬉しかった。彼女は自分ですら知らない僕の魂を理解していた。すぐに僕は恋をした。モニターの向こうにはもう彼女しかいなかった。僕は彼女のために歌った。彼女は喜び、彼女の歌に今度は僕が喜びまた歌う。それだけだった。それだけで幸せだったんだ」

「碧海しんじゅさんの歌を聴いたことがあるのですか?」

「いや、彼女の声を聴いたのは今夜が初めてだ。彼女はいつも歌声合成ソフトを使っていたからね。でも、あの歌を聴いてすぐに彼女だと直感したよ」


 歌声合成ソフト。自分の歌声に魔力が宿ることを危惧してのことでしょうか?


「直接お会いしたことはないんですか?」


 肩を貸しているので息がかかるような距離で片理さんは首を振りました。ちなみにあの赤ちゃんは私たちの後ろで透火さんが抱いて歩いています。透火さんは赤ちゃんの泣き声ですぐに我に返り、今も優しい人肌が彼女の心の平衡を保っています。


「僕らの関係性は、魂すらも超越した根源的なものだった」


 そう言うと片理さんは小さく笑いました。それは彼が初めて見せる本当の笑顔でした。


「あなたはドン引きしないんだな。いかにも痛い感じなのに」

「笑いませんよ。私たち魔女はいつだって世界の向こう側を夢見ているのですから。魔法は魔女の明晰夢みたいなものなのです」

「そうか……。彼女も夢を見ていたのだろうか? すると僕は彼女の夢の住人というわけだ。本当に……夢をみているみたいだ。まさか自分に子供ができるなんて…………」


 その後の仙洞片理さんの成功はみなさんもご承知の通りです。小さな部屋でごくごく限られた人のために歌っていた少年の歌はたちまちネットの海に響き渡りました。それは偏に片理さんの才能と努力ゆえの必然だった、僭越ながら同じ歌い手としてそう思うのです。けれど、片理さんはそうは思っていませんでした。


「今も現実感が全くない。ふと目が覚めるとあの部屋のあのベッドに横たわっているんだ。それから朝昼兼用の何かを胃に流し込み、ぶらぶらとコンビニをふらつき、やがていつものようにモニターの前で曲を作っている。そんな変わらない日々を永遠に繰り返すんだ」

「でも、あなたはそうじゃない。世界中に星のような数のファンがいて毎晩煌びやかなステージで歌う。それがあなたの今生きている世界。そして、その世界にはあなたの家族がいる」

「…………」

「あなたの世界は“永遠”じゃない」


 片理さんはふと立ち止まると透火さんの腕に抱かれている自分の息子を見つめました。その瞳には愛おしさが溢れ、またひどく遠いものを憧れているようでもありました。まるで自分には不相応の宝物を手にしてしまったかのような。

 それから彼は母親の名前をポツリと呟きました。きっとその名を知ったら世界中が祝福するであろう人の名前を。


「―――あのチケットが届いたのは三日前だ。ごくごく限られた人間しか知らないはずの病棟に妻ではなく僕宛で届いた。最初はステージの仲間の悪戯だと思った。でも、すぐに“彼女”だとわかった。そして、すっかり忘れていた“彼女”の記憶が鮮明に蘇ったんだ!」


 …………この奇妙なシンメトリーはやはり偶然ではないのでしょう。そこには作為があり、明らかな意思を感じます。しかし、透火さんとは異なることもあったのです。


 ―――ねえ、私のことを忘れないで

 

「ああっ! これは彼女の復讐だ! 僕は彼女のおかげで輝けたのに僕は忘れてしまった! 彼女のために愛を歌ったのに僕は、僕は、僕は……っ! でも、伝えないと―――!」

「どうしたんですか、片理さん!? 落ち着いてください!」


 片理さんは突然私の手を振り切ると透火さんから赤ちゃんを奪ってしまったのです。無機質な白いリノリウムの空間に片理さんの声が響きます。


「なあ、見ているんだろ! もう僕は“あのとき”の僕とは違うんだ!」


 ―――けれども王子はお姫さまに命を助けてもらったことを知らないのです。

 ―――だから、そのほほえみがお姫さまに向けられることはありません。。

 ―――人魚のお姫さまは、悲しみの水の中へ沈んでいきます。


「君は決して年を取ることもなければ、魂が劣化することもない。不滅の存在だ。君からみれば毎日死に向かって腐っていくことは愚かとしか思えないだろう。僕もそう思っていた。でもね、そうじゃない。そうじゃないんだよ」


 照明の光に照らされたリノリウムの壁がより白く滲んでいくとたちまち白い霧が立ち込めていきます。辺りはもう白い世界に様変わりし、何も見えません。


―――La-La-La-LAAAA


 魂の輪郭が世界と溶け合うような歌声。

 美しい旋律は完璧な調和となって身体の中に響き渡り、その調和を乱す“余分なもの”は全て溶けてなくなってきます。そして、私たちは旋律の一部となるのです。


「……お姉ちゃん…………そこにいるの………………?」


 その言葉にハッと気がつくと口の中に激しい痛みとともに鉄の味が広がりました。どうやら咄嗟に頬の裏側を噛み切っていたようです。

 魔女の魔法は存在そのものを書き換えるので耳を塞ぐことはできません。唯一対抗する術があるとすれば、自らの音で逆に世界を染め返すことのみ―――たとえそれがどんな不協和音であろうとも。私は鉄の味を唇で舐めながら霧の中に手を伸ばします。


「…………彼方、さん?」

「透火さん、私の手を掴んで!」


 冷たくなった細い指が伸ばした掌を僅かに握り返してきます。


「透火さん、今から足を動かしますよ。はい、それでいいです。そのまま目の前の扉に入るのです…………」


 片理さんを探すと既に彼の全身は泡に包まれ、輪郭を失っていました。


「片理さん! 早く私たちと一緒に!」


 しかし、永遠の恋を詠った青年は静かにかぶりを振ると小さくて愛しい存在をもう一度優しく抱きしめたのです。


「―――僕はもうそんなものはいらない。たとえ全てが泡となって消えていったとしても、その一瞬がとても愛しいんだ」


 なんとか滑り込むように部屋の中に入り、扉を閉めかけたとき、霧に包まれた通路の様子が一瞬目に入りました。片理さんとお子さんの姿は既になく、抱っこ紐の残像が海中で泡立つ波の花のように消えていくばかりでした。

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