アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅵ



 時間は刻一刻と過ぎていきます。カウンターに置かれたカップの底はすっかり乾き、お客様の視線は時計の針に吸い寄せられていきます。

 白亜からの連絡はまだありません。

 降りしきる雨は弱まるどころかますます強くなってきます。窓の外は幾筋もの白い直線で書きなぐったかのよう。そして、その先は吸い込まれるような闇がぽっかりと開いていました。


「開演準備が整い次第始まりますのでもう少々お待ちくださいませ」


 もう何度目かわからない問答。思わず心の中でため息をつきます。同じフロアで透火さんがやはり同じ受け答えをされていました。


「透火さん、もういいですよ。上に行って着替えてきてください」


 透火さんのチケットは結局見つかりませんでした。厳密には開演直後に空席確認をしなければなりませんが、その時刻はとっくに過ぎていますので透火さんの権利はまず回復されたといってよいでしょう。しかし、透火さんは首を横に振りました。


「大丈夫です。開演するまではやらせてください」

「でも……」


 微笑む透火さんにまた別のお客様が質問をされました。終演予定時刻とタクシーのこと、教えたわけではないのに透火さんは耳にしたであろう私の言葉を丁寧に繰り返していました。

 …………さて、どうしてものか。

 支配人代理兼館長代理として決断を下すときが刻一刻と迫っています。もちろん私だって公演中止の判断など絶対にしたくありませんし、今までしたこともありません。けれど、お客様の安全が脅かされることは絶対の絶対にあってはならないことです。

 ―――現実的なタイムリミットは20時。

 公演時間が休憩込みの2時間程度ですから終演は22時になります。駅前の市民ホール、ましてや都内の劇場では考えられないような時間ですが、白猫座は駅から遠いのでこのあたりを超えると横浜や東京に帰れなくなるのです。タクシーを呼ぶこともできますが、それだけでは輸送力がまるで足りません。

 胃がギリギリと痛み出します。

 少し前から何度も内線で呼びかけているのですが、開場以来白亜とは連絡が全く取れません。こんなことも初めてです。

 白猫座は外観こそ古めかしいヴィクトリアン・ゴシック様式ですが、災害の多いこの国でも安全に運営できるよう当時最新の耐震技術と不世出の魔女たちによる魔法の加護が施されています。震災や戦争でもビクともしなかったような建物なのです、だから、白猫座のことに限って心配はしていないのですが…………。


「なあ、本当に開演するんだろうな!?」


 ロビー内の空気が帯電したかのようにビリビリと震えます。そして、会場のお客様たちの目と耳が私とその男性のお客様に集まるのを肌で感じました。


「申し訳ございませんが、開演が不可能と判断された場合は公演中止となります」

「…………それはいつ判断されるんだ?」

「…………20時を予定しております」


 今更隠せることでもありませんのでありのままお伝えするとお客様の目がぴくぴくと引き攣り、口からは声にならない声が吐息となって漏れていきます。膨張した風船が破裂寸前のような緊張感。


「―――もうあとちょっとじゃないか!? 早い、早すぎるよ! なあ、この大雨で役者かスタッフの誰かが遅れているだけだろう? まだまだ全然待てるよ。頼む、頼むからもう少し待ってくれよ!」


 予想していた反応とは少々違いやや面食らいました。でも、今度は別の意味で驚いてしまったのです。


「そんな、お客様!? お客様はお待ちになれるかもしれませんが、赤ちゃんはどうされるのですか!?」


 思わず分をわきまえず口を出してしまったのはそのお客様の胸ですやすやと眠るもう一つの顔があったからです。小さなお子様を連れての観劇自体はそこまで珍しいことはないのですが、それにしたって小さい子でした―――まるで退院された病院から直接来られたかのような。

 近くにお母さまがいるような感じはありません。思わず探してしまうぐらいそのお客様と赤ちゃんの組み合わせはちくはぐな印象を与えました。

 海外ブランドのジャケットとTシャツにジーンズ、緩くパーマをかけた髪は少し長めで首にはシルバーネックレス、右手にはスマートウォッチ。トイレに行ったお姉さんの赤ちゃんを預けられた大学生、と言われればしっくりくるのですが。


「別にこいつのことは今はどうでもいいだろう」


 頭にカーッと血が上るのがわかりました。白亜がいたら頭を小突いてでも私を止めたに違いありません。しかし、いないので私は止まりません。


「彼方さん」


 足を踏み出した私のケープコートが逆方向に引っ張られました。


「ストップです。お客様とケンカしちゃだめですよ」


 ………今日来たばかりの中学生に怒られる館長代理兼支配人代理。ああ、情けない。白亜が見ていたらきっと頭を抱えて緞帳の束で殴りつけていたでしょう。


「そうだ! 公演が中止になるなら主演の“彼女”にせめて会わせてくれないか? いや、変な意味じゃなくて僕は“彼女”の関係者なんだ。ほら、この券に書いてある『仙洞せんどう片理へんり』と伝えてくれれば必ずわかるはずだから」


 …………仙洞せんどう片理へんりさん? あれ? どこかで聞いたような? そういえば赤ちゃんに気を取られていましたが、顔もなんとなく見覚えがあるような気がします。


「彼方さん、歌手の方ですよ。知りませんか? ほら、オリンピックの主題歌の『バニラ』を歌った―――」


 ああ、あの仙洞せんどう片理へんりさんですか! 知ってますよく存知あげています。動画サイトに投稿した自作曲が口コミで人気を集めて一躍スターダムに躍り出たシンガーソングライター。物語のような繊細な歌詞と切なく美しいメロディーがとても素晴らしく、才能に溢れた歌い手の方です。めったに人前に顔を出さないことで有名ですが、まさかこんなに若い方だったとは。


「僕のことを知ってくれている? だったら……」


 知っているも何もあなたの歌を耳にしたことのない人の方が少ないのですよ。うーん、赤ちゃんがいますのでできたらご希望を叶えてあげたい。でも、そうすると先ほどの香凜さんと対応に差をつけてしまいます。はあ、どうしたものでしょう?


「どうかお願いします! 僕を彼女と会わせてください!」

「え? ええっ―――!?」


 深々と下げられた頭。急に暗くなったのがわかったのか片理さんの顔の下で赤ちゃんがぱっちりと目を開けました。硝子のような瞳に苦渋に満ちた片理さんの顔が映ります。


「お、お客様、顔を上げてください! 困ります、そんな―――」


 ファンが憧れ続けてきたアイドルを希うようなその姿。これではまるであべこべなのです。本来は係員がお客様に触れることはあってはならないのですが、それでも片理さんの肩に触れると細かく震えていらっしゃいました。


「僕は―――」

「お客、様……?」


 ぽたり。

 床の上に何かきらきら輝くようなものが落ちるのを目にしました。まるで梅雨の訪れを知らせるにわか雨の始まりのようなそれは―――お客様の涙でした。


「―――僕は、僕は“彼女”にどうしても会わないといけないんだ! 謝らないと、僕は“彼女”に謝らなきゃ。僕は裏切り者だ。今の僕があるのは全部“彼女”のおかげなのに。、僕は裏切ったんだ!―――」


 視界がぐりゃりと曲がるとやがて白い霧に覆われていきます。方向感覚もなく、上下すらもわからない。意識を集中しようにも鈍い頭痛が脳のメモリを奪っていく。


 ―――『大丈夫だよ片理。あなたの音楽は美しい』

 ―――『うん。だからもっと聴かせて。あなたの物語を奏でて』


 困惑が、刹那の幻覚となって私の思考に流れ込み、そして、一つの名を浮かび上がらせるのです。


 ―――碧海しんじゅ。

 

 「境界」の才能タレントを持つという魔女。

 “彼女”のことを語る言葉が硝子の欠片となって、万華鏡のように軽やかにイメージを変えていきます。それはとてもきれいなのにひどく危うい。

 …………あなたは、誰?


「彼方さん!」


 足がふらついた私を透火さんが抱きかかえます。そのとき眩暈でぐらぐらになった視界の端で機械時計が見えました。

 針はまもなく20時を指そうとしていました。

 公演中止をお客様に伝えなければ。そう思うのに時間が粘土のように引き延ばされて纏わりついていく。

 私が公演を止めないと―――今夜は何かがよくない。

 しかし、引き延ばされた時間のなかで唯一歩むことを許された時計の針はカチリと20時を指しました。


 beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep-beep

 

 白猫座に鳴り響く、鳴るはずのない開演ベル。


 そして、魔女の舞台は始まったのです。



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