アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅳ

「みゃー」


 タルトが半分ほど平らげると肩をちょんちょんと突っつくものがありました。振り返ると銀色の毛並みをわさわさと靡かせたペルシャ猫がカウンターの上に一匹座っていました。


「ふわぁぁ!! 何ですかこれ何ですかこれ!?」


 透火さんはものすごく大きな声で叫ぶと椅子の後ろに2メートル飛び下がりました。よほど驚いたのか、目を少女漫画のように大きく見開いています。


「ああ、これは白猫座の看板猫なのですよ。えっともしかして透火さん、猫苦手でしたか? ほら、あっちに行くのですよ、しっしっ」


 しかし、猫は頑として動きません。それどころか手を小虫のように払いのけやがりました。私を見る顔が小馬鹿にしたように見えるのはきっと気のせいではないでしょう。こんにゃろー、おやつをもらうまでは絶対に引き下がる気はないですね。


「か、可愛いいいいっっっっ!」


 その瞬間、少女が一陣の疾風に変わるのを見ました。


「かわいいかわいいかわいい、かわいいよぉー。すごいすごい、こんなきれいな銀色見たことがない! お母さんはペルシャ? サイベリアン? ねえどうしてきみはこんなきれいな毛をしているの? かんしょくももっふもっふだあっー」

「ふにゃー」


 いつの間にか少女の腕に抱かれた猫は全身をよじって逃げようとしますが離れられません。無理矢理抑えつけているのではなく、身体の気持ちのいいところをそれでいてさり気なく撫でているので快感で動けないのです。


「…………透火さん、猫がお好きなんですね?」

「はい、イエスです!」


 これ以上ない笑顔からようやく離れられた猫はよほど怖かったのか珍しく私の横にぴったり身体を密着させています。可笑しさを噛み殺しつつ、私は戸棚からチュールを取り出して小皿に出してあげます。その間透火さんは春の日向にいるような顔をしていました。


「かわいいですねえ。名前はなんていうのですか?」

「えっ、はく―――」

「ふにゃ!」


 身体を2回転半回してからのネコパンチが私の横っ面に叩き込まれました。


「え、えーと、そう! シロです! 白猫座の猫だからシロなのです!」

「銀色の毛なのに?」

「あー」「にゃー」


 しかし、透火さんはそれ以上深く言及することなく椅子に座り直しました。『シロ』もやれやれといった感じでチュールを舐めるのを再開します。


「あっ、そういえば白亜さんは? 一緒に食べないんですか?」

「う、ううん? は、白亜なら劇場のの奥に籠っていますよー。この時間は舞台スタッフさんたちと一緒に機材チェックや何やらですごく忙しそうにしてますからねー。いやあ、副館長さんは大変だなー」

「ふふ、仲がいいんですね」


 白(銀)猫は皿を舐め終わると用は済んだとばかりにカウンターをさっさと降りてしまいました。降り際に後ろ足で砂を蹴るのが何とも腹立たしいのですよ。

 透火さんは猫が消えた階段の奥をしばらく名残惜しそうに見つめていましたが、その後はずっと黙ってしまいました。ようやく口を開いたのは空になった透火さんのカップにおかわりを注いだときでした。


「…………お姉ちゃんは魔女、なんですよね?」

「はい、そうですよ」

「お姉ちゃんが魔女…………」

「びっくりしましたか?」


 透火さんは考え込むようにカップの水面を見つめていました。真っ赤な湖面から漂う湯気が少女の顔の横で踊るように立ち上っては消えていきます。


「…………腑に落ちたという感じ。子供の頃ずっと解けなかったパズルが大人になってあっさり解けたみたいです」

「パズル?」

「私、物心ついたのがすごく遅かったんです。親が言うには言葉を喋れるようになったのも遅くていつも一人でぼんやりしていました。そのせいか小学校に上がってからもずっと空想と現実がごちゃ混ぜで」


 透火さんは発達のスピードが人よりも緩やかだったのでしょう。人と世界の関わり方はそれぞれです。千の言葉より空や雲、地面や水たまりの方が多くのものを教えてくれることもあれば、人のスピードでは聴けない音楽もこの世界にはあるのです。


「そんな私にお姉ちゃんはいつだって海の向こうからやってきて外の世界のことを教えてくれたんです」

「海の向こう?」

「あっ、ごめんなさい。その当時の私の認識での話です。ええと、私たちはここよりもうちょっと海に近い場所に住んでいて、いつも遊んでいた児童公園からも海が見えたんです。幼稚園の帰りに仲のいいお母さんたちが子供を連れて遊ばせるんですけど、私はいつも独りで。そんなときに気がついたら私たちは出会っていたんです」


 最初の記憶は―――歌。

 魚や亀が空を飛び、大樹のような海草が風に揺れている青くきらきら輝く世界にどこからともなく響く歌声。幼い少女は顔を上げると青い天井を見上げます。


「たぶんお姉ちゃんはそういう私にうまく合わせてくれたんでしょうね」

 おかしそうに透火さんは笑います。


 ―――『大丈夫だよ透火、海の中から出てきなよ』

 ―――『うん。だから、外の世界はこんなにもきれいだ』


「お姉ちゃんは物語を教えてくれた。言葉もたくさん教えてくれた。でも、結局私がよくわからないから最後は歌を一緒に歌って終わるんです。歌はきれいで楽しいから」


 空想の海の中に漂う小さな少女に歌を教える小さな魔女。

 やがて、歌は言葉になり、言葉は少女の世界になる。

 おとぎ話めいた美しい情景ですが、ところどころに「境界」の魔女としての片鱗は窺えます。推測ですが、現実と非現実の境を行き来する才能タレント(あるいはその萌芽)を持っていたからこそ当時の透火さんに何かをしてあげたかったのかもしれません。


「お姉ちゃんのおかけで私は“人間”になることができた。学校の教室に行って勉強をして、同級生と友達になることができました。人魚姫の魔女は悪い魔女だったけど、お姉ちゃんは良い魔女だった。でも……」

「でも?」

「私はお姉ちゃんのことをずっと忘れてしまっていた。あんなに一緒にいて楽しかったのに…………私、人としての感情が薄いんでしょうか?」

「あー、もしかしたら魔女だから記憶が無くなる魔法を使ったのかもしれませんよ―――って、あーっそんな涙目にならないでください!?」


 気持ちを軽くしてあげようと冗談めかしたのが見事に逆効果でした…………。でも、そういう透火さんを見ているとやはり彼女が嘘や虚言を言っているようにはどうしても思えません。


「…………小さかった頃の人間関係なんてそんなものですよ。むしろ透火さんは大事な思い出として心の宝箱に大切にしまわれていたんです。素敵なことだと私は思いますよ」

「そう、なのかな……」


 透火さんはワンピースの胸ポケットから何かを取り出して天に透かしました。それはチケットに同封されていたあの手紙でした。


「“ここに来たら、あなたは私に会える”」


 おとぎ話の終わりはいつだって唐突です。「それからしあわせに暮らしました」の「しあわせ」がはたして何なのか描かれることはありません。


「…………お姉ちゃんはどうしてチケットを送ったのかな?」


 でも、物語に続きがあったとしたら?


「それはお姉さんの舞台を見れば全部わかりますよ。きっと素敵な魔法があなたを待っています」

「そう、ですよね。うん、そのために私はここまで来たんだ。そういえば彼方さんも魔女、なんですよね? 彼方さんも魔法が使えるんですか?」


 突然、私の話になったのでカップを持つ手が一瞬止まってしまいました。魔女としての私はとある事情で開店休業状態なのですが、さて、どう話したものでしょう?


「使えますよ、魔法」

「すごい!? どんな魔法が使えるんですか?」

「その前に魔女が使える魔法は魔女一人につき一つだけなんです。だから、世間によくあるような箒で空を飛んだりとか魔法の粉でカエルに変えちゃうとか、指から火とか水を出すとかとはちょっと違いますね。そういう魔女もいないわけじゃないですが、こういうのは大抵機械で代用できるものばかりですしね」


 こんなことを話していると見習い時代の頃がちょっと懐かしくなってきちゃいます。魔女見習いというものは自分の力がいかに世界に対してちっぽけで取るに足らないものかを知る機会であったともいえます。


「―――透火さん……本当に…………私の魔法が知りたいですか……?」


 少女はごくりと生唾を呑み込みました。彼女もようやく気づいたのでしょう。自分が目の前にいる白髪の女のことを実は何一つ知らないということに―――!


「私の魔法はですね―――」

「…………!」

「―――それは見知らぬ誰かとお友達になる魔法なんですよ!?」


 そう言って私は透火さんの身体をぎゅうっと抱きしめました。絹のように柔らかい肌と髪が私の副交感神経を蕩けさせます。少女の柔肌の方がよほど魔法めいていますね!

 しばらくはキョトンとされるがままだった透火さんでしたが、ようやく一杯食わされたことに気がつきました。


「ひどい! テリブルです、透火さん!」

「あはは、じゃあ今度こそ本当のことを教えましょう。私の本当の魔法はですね―――」

「はあ、もういいです。透火さんの魔法はオーブンの外でもケーキの美味しい焼き加減がわかる魔法なんですね!」

「そんな!? すごい雑な設定!?」


 ―――開場まであと一時間。

 いつもは白亜と二人だけの静かな空間は今日に限っては明るい笑い声が響きます。

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