パラサイト・ストレンジャー
ルドルフ
第1話 連休明けの学校
夜露が蒸発したじめっとした暑さが首筋へまとわりつく朝。私と妹のエレナは信号機が赤から青へ変わるのを待っていた。
信号が点滅した後、青が点灯する。
歩き出すと風が吹き抜けた。先週の金曜日も同じような天候だったが、今日の方が圧倒的に涼しく感じる。なぜなら衣替えの期間となり、ワイシャツとスカートだけの夏服が許可されたからだ。髪型も黒髪を以前までのストレートに流していたのから、後ろで縛ったポニーテールへと変え、首元が出るようにしてある。快適な服装になったことから、私の足取りも軽い。
…この暑さは今に始まったことではなく、2週間前ぐらいから続いている。衣替えはもう少し早くしてほしかった。
横断歩道を渡っている最中、横のエレナが急に大声を出した。
「あーっ、お姉ちゃんはみ出した!アウトー!」
「え?」
エレナはつぶらな瞳でこちらと目を合わせる。母譲りで、私とエレナはよく目元が似ている。
今日は彼女が急に私と同じようにポニーテールにしてほしいと言うものだから、出るのが少し遅れてしまった。強い要望で、縛るのもお揃いの赤い紐だ。それを気にする様子もなさそうなのが彼女らしい。
「お姉ちゃん、つま先がはみ出してたよ!」
上機嫌に微笑む彼女は体を揺らし、彼女の紺色のワンピースもそれにつられて揺れる。
彼女の言っていることを少し遅れて理解した。ああ、いつもの"横断歩道の白いところだけを歩くゲーム"か。
数日前から妹のクラスではやり始めたようで、朝の登校中と夕方の下校中、2人でいるときに変なタイミングで勝手に始められて、私はいつの間にか参加させられている。
…私も彼女と同じころ、10歳のときにやった記憶のある遊びで、やっている時は懐かしく感じる。
ただ、エレナの判定は少しシビアで、5cm程度でもはみ出していてもアウトだそうだ。細かい所をよく見ているものだ、と呆れ半分、感心半分。
さて、私は先ほどはみだしでペナルティを貰ってしまった。その後は無いよう、丁寧に渡ったが…渡り切った後、エレナは私と向き合い、結果が発表される。
「えー、さっきの勝負は、お姉ちゃんにはみ出しがありました!ということで、エレナの勝ち!」
「始まってるとは思わなくて…もう、いつ始めるか言ってくれないと不公平じゃない?」
「…んん、そうかも。じゃあ今度からは言うね!」
エレナは満面の笑みで大きくうなづいて答える。彼女はその後も勝ったことによりご機嫌でバス停までの道を行き、スクールバスに乗った後も大きく手を振ってくれていた。ちょっと嫌に感じる時もあるけれど、まったくもって可愛らしい妹だ。
私の学校はバス停からもう10分ほど歩いたところにある。
歩き続け、段々と日が昇り熱くなってきたアスファルトを踏みしめていると、ふいに肩を叩かれた。
「おはよミカ、旅行どうだった?」
「楽しかった、日本?ヤマガタってところに行ったんだっけ?」
振り返ると2人のクラスメイトがいた。1人はカレン、最初に声をかけてきた方だ。そのストレートなロングヘアの黒髪と、凛々しい顔立ちは実年齢より大人びた雰囲気を出している。
もう1人はリーナで、生まれついた茶髪は、髪染めを禁止されている私たちからするとちょっとうらやましい。短い髪型と、丸っこさのある小顔はとてもキュートだ。
「おはよう二人とも。あとリーナ、私が行ったのはヤマガタじゃなくてヤマナシって所だよ」
先日、月曜日までの3連休中、私と妹は父に連れられて一家そろっての日本旅行へと行っていた。ヤマナシでフジを見て、甘くて粉っぽいモチと硬いウドンを食べたのが印象に残っている旅行だった。
旅行の話題で談笑しながら歩いていると、あっという間に学校へ着いた。楽しい会話はその後も、教室に入ってホームルームが始まるまで続いていた。
昼休み、私たち3人は食堂へと来ていた。今日のメニューはミートソースパスタとコンソメの野菜スープ、牛乳が提供されている。
3人で窓際の席へ並んで座り、朝と同じく談笑しながら食事していると、カレンのスマホが鳴った。
「ん、メールだ……えっと、リズ、まだ病院かかるって」
リズとは私たちのクラスメイトで、今日は体調が悪いため病院に行ってから来ると聞いていた。カレンのメールを見せてもらうと、「なんかめっちゃ病院混んでる。今日いけんかも」とのメールだった。
連休明けなので混むタイミングだったのだろう、彼女は災難だ。とはいえ、サボりたがりの彼女のことだから明日会ったら「休めてラッキーだったわ」とか言いそうではあるけど。
「それにしても、今日ちょっと休んでる人多くない?」と同じくカレンのスマホを覗いていたリーナ。その意見には私も「うんうん」と同調する。
朝のホームルームの時点で教室には4席ほどの空きがあったのだ。私たちのクラスはそれほど出席率が低いわけではなく、休んだ人の中にはこれまで一日も休んだことのない人まで含まれていた。
「集団食中毒とか?ほら、10年くらい前にもあったってこの間の授業で言ってたでしょ」
リーナが言うのは、先週の生物の授業で取り扱われた、10年ほど前にこのリントン市で起こった水を原因とする集団食中毒のことだ。浄水場に問題があったとかで消毒の不十分な水が上水道を通ってしまい、それを飲んだ人たちのほとんどが食中毒を発症。死亡者も出ていた大きな事件だと習った。
今回のケースもそれに似ている…と、先週聞いた授業内容を振り返るとそう思えなくもない。
「だとしたらヤバいよね。水道の水、飲まないようにした方がいいかなあ」
「ミーカ、早とちりよくない。悪い癖よ」
「えーでも怖くないカレン?いちお避けといた方がいんじゃね?」
「そうはいっても、じゃあシャワーとかも浴びないつもり?」
「そこはほら、買った水とかで!」
「…リーナ、今月小遣いヤバいって言ってたよね」
「シャワーのたびに水を買ってたんじゃ、すぐお小遣いなくなっちゃうね…」
「…忘れてたわ!」
そう言うと、リーナは大きく笑う。私たちも「忘れちゃダメでしょ!」とツッコんで笑った。
非日常的な出来事も、私たちにとっては笑って話し合う話題の一つに過ぎなかった。
昼休憩後は生物の時間だ。今日は実験等はなく座学のため、教室にて受けることとなる。担当の先生はもう57歳になるというのに元気に授業を行っていて、しゃがれ気味の声が響いている。
昼食後の授業はただでさえ眠いのに、話を聞くのがメインの生物は手を動かすのも最小限で、もっと眠くなる。
授業開始から30分、左隣の窓際席のリーナはすでに夢の中、右のカレンはさすが優等生なだけあって、真剣に先生の話を聞いてノートをとっている。私は何もしていないと寝てしまうから、ノートの端っこに落書きしている。
「さて、諸君!」
先生が急に大声を出すと同時に手をパンと叩いた。少々驚いて眠気はどこかへ飛んでいく、リーナも慌てて起きた。
「先週、"リントン市浄水センター事件"による水を原因とした集団食中毒について話したが…水は菌やウイルスのほか、寄生虫を媒介することでも知られている。では、教科書76ページを開いてくれ」
先生の指示でページを開く。ページ内は寄生虫について書かれており、テキストだけでなく複数枚の画像もあった。
先生は寄生虫とは何かについて基礎を説明した後、プロジェクターを取り出し、黒板へ映像を表示して、代表的なものについて紹介を始めた。
複数種を紹介した後、プロジェクターは一旦何も表示されていない白い画面を映す。
「寄生虫は、時に宿主の行動などに干渉し、繁殖のために利用する種も存在する。代表的なのものと言えば、カタツムリの触手に寄生し、宿主が捕食されやすいよう触手を鳥類から目立つ形状に作り替える"ロイコクロリディウム"、カマキリ等に寄生し、繁殖の時期になると宿主を繁殖地となる水辺へと近づくよう誘導する"ハリガネムシ"などが有名だ」
宿主の行動に干渉する、か。これまでの話を聞くと、寄生虫は宿主より圧倒的に小さいのにもかかわらず…いつの間にか自分の行動を乗っ取られてしまうなんて。正直なところ、怖いなと感じた。
「この2つはちょっとグロテスクというか、見た目の刺激が強いので、画像は出さないが。では、何か質問がある者は?」
「あ、はい、はいはい!」
珍しくリーナが積極的に手を上げている。他にはいないので、先生はリーナを指名した。
「えっと、そーいう寄生虫って…人間にくっついてくる奴とかもいたりします!?」
質問する彼女は切羽詰まった様子だった。おそらく、私と同じように「いつの間にか乗っ取られてしまう」ことを想像して恐ろしくなってしまったのだろう。
そんな彼女の様子に反して、先生は大きくかぶりを振って答える。
「一応、人に寄生して行動を操作する寄生虫というのは確認されているが…これも性格にある程度の変化がみられる程度で、さっき上げた例みたいに行動を操作されるとかの寄生虫はほとんど確認されていない」
リーナは「あ、そうなんだ」と納得したようだった。私もその話を聞いて安心する。
「そもそも現代の生活というのは高度に清潔になっているから、普段の生活をしていれば、基本的に寄生虫とは無縁だ。まあ、心配することはない」
先生はそう付け加えた後、教科書に目を落とす。
「では進めるぞ、次のページを―」
めくろうとしたタイミングで教室のドアが短くノックされ、わずかに開かれる。訪ねてきたのは数学の先生だ。
「授業中失礼します。教育主任、少しお話が…緊急の要件です」
数学の先生は、いつもは飄々とした感じをまとわせている人で、たまによくわからないギャグや「それ古いよ」って一昔前に流行った言葉を使う、典型的なおじさんという感じの人だったが、先生はいつになく真剣な表情だった。
「わかった、すぐ行く」
生物の先生はそう答えると、こちらに向き直り「悪いが戻るまで自習していてくれ」と言って、早足で教室の外へと出ていった。
先生に自習を命じられてから10分ぐらい経った。アタシは暇なので席を近づけてミカとチェスをやっているけど、カレンは真面目で明後日提出の課題をこなしている。
「あ、リーナ、チェックメイト」
「はァ!?」
慌ててカレンから盤上に目を戻すと、確かに…キングがどーやってもトドメを刺される配置になっている。うーわ、マジか。一応部で週2回チェスやってんだけどな。
「強いねミカ……ボドゲ部来ない?」
「うーん、体動かす方が好きだからなあ」
そう言ってミカはニッコリとほほ笑む。
まったくよくできた奴。身長なんか167cmもあってアタシより10cmもデカいし、チェスまでうまいと来たか。
ため息をつきながら盤面を見返し、試合の流れを思い返す。そうして見えてくるけど、ミカの手はなんというか、思い切りがいい。
大胆な動かし方をバッサバッサやってくるので、今回はそれに翻弄されてしまった。対局が決したのは中盤、ミカのクイーンがヤバい動きをかましたのに対応するのに手いっぱいで、キングに迫る駒に気が付けていなかった…
ミカの強さは判断力かあ。そういえば、バスケ部でも次期キャプテンじゃないのって話を聞いたような。
「いやーやられた。リベンジしていい?」
「いいよー。やろっか」
盤上に散らばった駒の位置を互いに戻していると、電灯の光を誰かの影が遮る。
いつの間にかカレンが席を立ち、すぐ隣に来ていた。
「こらー?今は自習の時間ですけどお二人ー?」
「えへへ、ちょっとだけね」
「カレンもやりたい?あでもちょっと待ってて、もう一回ミカとやらせてほしいの」
「そういうわけじゃなくって…この間バレかけてたでしょ、見つかったら没収されるよ」
「大丈夫大丈夫、撤収スピードは上げるから」
カレンは大きくため息をつくと苦笑した。
「もう、しょうがない。バレないようにね」
「あいよー」
「わかったよ」
試合開始から5分程度が経過した。
「はい、次リーナね」
ミカのターンが終わり、私に回ってくる。ミカは今のところ堅実な手を打っており、アタシも序盤は守り気味で、中盤以降の本格的な取り合いを想定して打っていたので、双方ともに序盤は動きが少ない。先ほどと同じく、序盤からかましてくるかと思ったけど、読みが外れてしまった。
どういう流れで行くにせよ、ミカの強みは明らかなんだから、それを対策すれば…
「ん…」
考えていると、なんだかトイレに行きたくなってきた。
「ごめん、ちょっとトイレ…」
そう言って席を立ち、カレンにも伝えて教室を出る。
外では雨が降っていて廊下は薄暗く、少し不気味だ。人の話し声は教室の中から漏れ聞こえてくるものしかなく、雨音がよく聞こえる。
2-Cの教室から、トイレまではそこそこ歩く。途中で2-Bと2-Aの教室を通り過ぎるけど、授業時間にしては今日はいつもより中の話し声が大きい。みんな自習になってるのかもしれない。
教室を過ぎてトイレの入り口に付く。ちょっと重たい押戸を開けて入ると、中はひんやりとした空気で満たされている。うちのトイレは駅とかコンビニみたいに綺麗なものではなく、昔ながらのタイルの床、一応洋式ではあるけどあったかくはならない便座とか、古い学校あるあるのトイレだ。
電気は付いていないので誰もいないのだろう。…けど、酷い匂いがして鼻を抑えた。誰か流さないで出て行ったな。
室内は暗いので、電気を付けようと入ってすぐ左手のスイッチに手を伸ばすと―張り紙がしてある。そうだった、ここの電気は修理中で付かないんだった。
…下の階のを使おう。そう思って振り返った矢先、外の雨音とは違う、明らかにこの中のどこかで、水滴が落ちる音が聞こえた。
よく耳を澄ませてみる、換気扇の回る音、外の雨音、そして、ピチャンという水滴の音…うん、やっぱり違う。
どこかで水漏れしてる?確認だけはしてみるか、と引き返すのをやめ、外から見えないようにするための通路を抜けて、個室と洗面所のある中へ入って行くと…
中に1人、立っている人がいた。
その人は俯いて、一言も発さず立ち尽くしているものだから、アタシはとてもビックリした。何この人…ただ立ってるだけで何もしてる様子はないし、さっきからピクリとも動かない。スカートをしているので、女子というのは間違いないけど…
「あ、あのー…?何してるんすか…?」
恐る恐る尋ねてみるが…返答はない。そして水音はその人の方からしているようで、ゆっくりとその人の足元へ目を向ける。
足元には―血だまりができていた。そこに赤い水滴、おそらくその人の血が落ち、波紋を立てている。
「っ…!うわっ…!」
慌てて顔を上げると、俯いていたその人の顔はこっちを向いていた。
半開きの口からは血が滴り落ちており、両目は瞳孔が開ききっていて、右目は上を、左目は下を、互い違いに向いており、明らかに普通の人の顔ではなかった。
目がぎょろぎょろと数秒ほどあちこちを回ると、やがて真っ直ぐとこちらを見据えた。
そして、目の前の"何か"は、まるで映画のゾンビやパントマイムかのようにカクカクとした動きで右足を踏み出し、次に左足を。こちらに向けて歩き出した。
「いやいやいや…」
逃げなきゃ。明らかにこれはヤバい状況だと確信した。
出口に向かうべく足を一歩後ろに踏み出したが―運悪く、着いた先は水の溜まっている一部くぼんだ床で、かかとは床を踏みしめることなく滑った。
そのまま転んでしまうが、途中で頭を洗面台に打ってしまう。
「うぅっ……」
打ち付けた臀部の痛みをかき消すぐらいにぶつけた右耳の下あたりが痛い。手をやってさすると少し和らぐが、痛みで思考がまとまらない。目もチカチカとして、数秒間動けないでいる。
少しだけ痛みが安らぐと、何やってるんだ、逃げなきゃと自分に言い聞かせ、必死に立ち上がろうとする。洗面台を支えにしようと右手を上へやるが、どうしたことか手は宙を切り、何もつかめない。
右へ左へとあちこち動かしてようやく手に冷たい陶器の感覚が伝わるが―
もう、遅かった。
目の前に仁王立ちになったソイツは、アタシの顔を見ながら両ひざをガクンと折って膝立の姿勢になると、ゆっくりと肩に手を伸ばし、両肩が掴まれた。かなりの力で押さえつけられ、ほどこうともがくけど通じない。
そして、その状態でゆっくりと顔が近づいてくる。
何。何をする気なの。やだ、やめて、来ないで。
助けて、ミカ
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