生のカンバス

月餠

ツクヨ先生

 薄い青硝子を透かしたような、晴天の空の下。

 賑やかなカルカザの街の市場を抜け、島と島を繋ぐ石造りの大きな橋を渡ったさらに先、緑が生い茂る森のその奥に、俺の会いたい人は住んでいる。

 森の木々に囲まれて、ひっそりと佇んでいる赤茶屋根の小屋。汗を拭いながら足早にその小屋に近づくと、扉は換気のためなのか開きっぱなしだった。それでも中に入ると、絵具や薬品などの独特の嗅ぎ慣れた刺激臭が俺の鼻をついた。

 「お邪魔します。ツクヨ先生、いらっしゃいますか?」

 挨拶をすると、ごちゃごちゃと何かの骨や毛皮や植物、そして画材が立ち並ぶ狭い部屋の真ん中で、大きなカンバスに向かう若い姿の男…ツクヨ先生がいた。筆を止めてこちらを見た先生の、結われた栗色の髪や体には色とりどりの顔料や花びらや粉がついていた。

 「やぁ、誰かと思ったら。君は…えーと、なんだっけ。ま、まー…」

 「ヒイラギです。おはようございます、先生」

 「そうそう、ヒイラギ君だ。おはよう」

 いつものやりとりをしながら俺は先生に近づく。先生は人の名前を覚えるのがなぜかとても苦手だった。10年以上の付き合いがある俺ですら、いまだに覚えられていない。

 「ちょっと待ってね、今お茶を出そう」

 「いえいいですよ。俺がやります」

 「そうかい?」

 俺が自分で茶を用意するのを見ると、先生はヨッコラショと上げかけた腰をまた下ろし、目の前のカンバスに向かった。

 「新作、順調ですか?」

 「ああ、いい感じだよ。特に君が持ってくれたキンジキの毛皮とグァスルの角と、あとこのヒイロヤマガネの花。どれもすごくぴったりだ。やっぱり生息地域が同じものはモチーフの組み合わせとしての相性がいいね。ありがとう」

 「…それはよかった。先生のお役に立てて何よりです」

 翡翠色の目を細め、楽しそうに押し花をカンバスに貼り付ける先生の横にお茶を置きながら、俺はにやけそうになる口元をきゅっと一文字に結んで、なるべく平静を装ってそう返した。

 先生の作品は「題材となる生き物を一度材料まで分解し、作品として組み上げる」のが特徴だ。

 植物だった場合は押し花や紙に加工してカンバスに使う。動物だった場合は毛や革を貼り付けたり、更には骨や血液の類も薬品と混ぜて絵の具に加工し余すことなく使う。

 入手困難な材料を先生はなんの遠慮もなく欲しがる時もあるので、こちらとしても困ることは多々あるが、先生のこの笑顔と作品のためになるなら、苦労した甲斐があったというものだ。

 俺は先生の隣に座って作品を作る様子を眺めた。先生の細く繊細な手で作られる、まだ途中ながらも版面の中にいる材料となった動物たちは、今にも動き出しそうな圧倒的な生の猛々しさと美しさを持って描かれている。

 未完成でこれなのだから完成したらどうなるのだろう。想像するだけでゾクゾクした。

 以前、材料がそれと知らなかった俺は先生に「なぜそこまでモチーフの生き物を材料にすることにこだわるのか」と聞いたことがあった。すると先生は

 「んー…まぁそうだなぁ。私は生き物が好きなんだけどね。ほら、生き物ってさ、すぐ死んじゃうじゃない?そんで形もそのうち風化しちゃってなくなっちゃうでしょ?でもこうやって加工して、作品として残せば、千年先でもこの子の命を忘れないし、まだここにいるって感じられる気がしない?死んでるけど、なくなってはないみたいなさ。わかるかな?」

 当時の先生のなんとも言えないその説明に俺は頭を捻るばかりだったが、今なら少しはわかる気がした。

 「…ふふ」

 突然、先生は俺を見てくすくす笑った。先生の髪についた押し花の花びらが無邪気に揺れる。

 「なにがおかしいんですか?」

 「ふふ、ふ…だって君、今すごい顔してこれを見ていたよ?本当に大好きだよねえ、私の作品のこと」

 先生は翡翠色の目を弓形に細めてゆるりと微笑む。俺はなんだか嬉しいやら気恥ずかしいやらで、思わず目を逸らした。

 「…まぁ…好きですよ…そこそこに」

 「ハハハ、素直じゃないなぁ」

 確かに俺はツクヨ先生の作品が好きだ。

 その昔、近所の寂れたギャラリーで初めて先生の作品と出会ったあの衝撃は忘れられない。

 まさしく心を奪われた。こんな綺麗なものがあるのかと。俺の中でのなにがが弾け飛んだような不思議な感覚だった。

 そして感化された当時の俺は芸術家を志したが、情けないことにそちらの才能も全くなく、やはり俺は凡人だった。

 専門の学舎まで行きはしたものの、そのことや、周りからはボンボンの享楽としか思われなかったこと、両親や兄とのこと…そういうことと俺は折り合いがつけられず、そちらは早々にやめて今は美術商をしている。

 先生の作品はあまり有名ではない…なんなら見てもらえても不評気味な方だったが、最近になってようやく先生の作品のファンが増えてきていた。

 その事を過去の俺は喜びながら先生に話したが、当の本人はあまりピンときてない様子で「へぇーそうなんだ」という返答だけだった。

 …辛い時に俺の心を慰めてくれたのはいつも先生の作品だった。なので、俺が先生の作品の美しさを多くの人に知ってもらいたいと思っているのは、これからも変わりない。


 そろそろ昼時という頃、他愛のない話を俺としつつ作品作りをしていた先生は筆を置いて伸びをした。

 「んー…っ、はぁ…そろそろ休憩しようかな。長時間作業すると体がやばいねぇ」

 「…あの、もしかして昨日から今日にかけてずっと作品を作っていたんですか?」

 「あー…うんまぁ、そうだね。結果的にはね」

 「やっぱり…ちゃんと休んでくださいよ。」

 「いやぁ、すまないね。作ってる時はどうも時間を忘れがちで。」

 全くもってすまなくなさそうな顔で先生は俺に向かってそう言った。

 「あまり無理するとお体に障りますよ」

 「無理はしてないさ。今だってこんなに元気…」

 先生がそこまで言った時、遮るようにグゥウウウッと獣の唸り声のような大きな音が聞こえた。2人して音の出所である先生の腹に目を落とす。

 「ほら、こっちも元気だよ」

 「…それは元気とは違うと思います…はぁ、市場で食材を買ってくればよかったな…」

 俺はため息をついて立ち上がる。

 「待っててください、すぐにご飯、作りますから」

 先生は俺のその言葉を聞いてパァァっと面を輝かせた。

 「本当かい?いやぁ助かるなぁ。実は5日前の夜から何も食べてなかったんだ」

 「5日前の夜…って、あの日俺が帰ってからずっと食べてなかったんですか!?」

思わず出た俺の素っ頓狂な声が森中に響き渡った。



 「んー、美味し。カール君、やっぱり君料理が上手いねえ」

 風呂上がりでまだ濡れた髪を団子にした先生は、机の向かい側に座り俺が作ったスープを美味しそうに食べている。

 「ヒイラギです。ありがとうございます…でも、なんで5日前から何も食べてなかったんですか?干し肉とか保存食の類もまだあったのに…」

 俺が柘榴酒をグラスに注いで先生に渡しながら質問すると、先生は苦笑しながらポリポリと頭をかいた。

 「いやーご飯作るのが…というか作品作ってる間は食べるのが面倒でさ」

 「貴方本当にいつか餓死しますよ…」

 「ハハ。しないさ、餓死なんて」

 ケラケラ笑いながら悪気なくそう答える先生を見て、俺は深いため息をついた。

 確かに先生は餓死などしなさそうなくらい元気に見えるが…ここまで制作一筋とは…本当にこの人、今までよく生きてこれたな…という一周回って謎の感心すら湧いてしまう。 

 「君も呑むかい?」

 先生は笑いながら、酒の入った瓶をチャプチャプと揺らして見せた。

 「…いただきます」

 先生は出会った時から何一つ変わらない。

 見た目だって20代前半に見える姿形だが、先生は初めて出会った時からそれなので、10年は経った今も20代ということはおそらくないだろう。

 しかしそもそも年齢をいまだに教えてもらえていないので、あの時点でこの人が何歳なのかすらもわからないままだが。

 なんにせよ、白い肌も、結えられた艶やかな栗色の髪も、この笑顔も…きっと先生は、この先も何一つ変わらずにいるのだろう。そんな気がした。


 「…先生、やっぱりウチに来てくださいよ。そうしたら生活も、勿論作品制作だって不自由させませんし…街の中にはなりますけど、その分展示や作品の売り出しだって今以上にしやすくなりますから…」

 「んー、君のそのお誘いは嬉しいけども…私は枕が変わると寝られないタイプというかだね…まぁここが一番落ち着くし都合がいいんだ。だから、ごめんね」

 「…」

 穏やかに、しかしキッパリと断られてしまった。先生はこういうところはなかなか頑固だ。

 「…今回の作品、そろそろ完成ですか?」

 「そうだねぇー…今7割くらいだから…10日後には終わるかな?」

 「そうですか。ではその頃にまた運ぶ手配をしておきますね」

 「んー。ジュート君に任せるよ。」

 先生はあまり興味なさげに、どこか寂しそうに窓の外を眺めながら、柘榴酒のグラスを口元へ運んだ。

 なんとなく、その柘榴の赤が絵具になった動物の血を思い出させた。

 「…ヒイラギです。そういえば、次の作品の題材はどんなものにするか、決まってますか?」

 「次の作品、かぁ…」

 先生はグラスを置いて天を仰ぎ、しばし沈黙した。俺は黙ってその様子を見守った。

 「…私はね、昔からやりたいものがあるんだ」

 「なにをやりたいんですか?」

 「んー…」

 ざわざわと森が揺れている。傾き始めた陽が部屋に差し込み、照らされた先生の髪や肌が輝いている。

 「まるで昔見た本の挿絵の神様みたいだ」…と、そんなバカな事を俺は思った。

 先生は天井から俺に目線を下ろし、そして真っ直ぐ俺の目を見つめながら微笑んだ。



 「人間をね、やりたいんだ」



 「……人間…ですか…?」



 予想だにしなかった言葉で混乱した頭と乾いた口を必死に動かしたが、口から出た言葉はそれだけだった。


 「そう、人間。私はね、人間も好きなんだ。次は人で描きたいんだ」


 そう言いながら先生は、俺のそばに寄り、肩に腕を回してきた。酒で少し赤くなった顔で、じぃっとこちらを見つめて、そしていつも作品を作っているしなやかなその手で、俺の頬にそっと触れた。

 その先生の熱と、絵具の匂いと、柘榴酒の匂いが混じって、くらりと目眩が起こり、じわじわと思考が甘く痺れて支配される心地がした。


「だからさ、頼むよ」


 先生はいつものように俺に「お願い」をする。まるで悪意のない、子供が親におもちゃをおねだりするような、甘えた笑顔だった。

 

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