第9話 定時に帰ろう。なんなら繰り上げて帰ろう。

その日は子どもたちが帰った後に講習を受けた。


前に王様の横にいたトナカイさんだった。


彼によると、フツーに給料出るし、もう働いた分の給料は発生している。それも、元の世界の通貨に換算すると、倍くらいの月給になるらしい。奨学金の返済にも対応してもらえる。さらには、完全週休二日、祝日、年末年始は当然お休み、夏休みアリ、家賃補助、退職金などの福利厚生もバッチリだった。


「ふ、ふぉおおおお!」


わたしは思わず驚愕の叫び声を上げてしまった。


「な、なんですか、突然?」


トナカイさんのパッチさんが、片眼鏡を上げて驚く。


「い、いや、まさに人間らしい暮らし過ぎて、驚いてしまって」


「はぁ、そうですか?このくらいないと、やってられなくないですか?」


パッチさんが怪訝な顔をする。


「一体、どんな世界から来たんですか?」


「ぐふぅっ!」


クリティカルに心臓を抉るセリフを頂いた。


悪気は一切ない。純粋な疑問のようだった。


「えーと、あとはですね」


「まだ、あるんですか?」


わたしはあまりの好条件ぶりに世界観がグラつく感覚を覚えた。異世界に来て、最も大きな地殻変動が今、起きていた。


「ええ。これがもっとも重要だと思うんですが、いつでも辞められますよ。そして、元の世界にも戻れます」


「ええっ!」


「本当に、何も知らされてなかったんですねぇ」


しみじみと、パッチさんは言った。


「こちらで稼がれたお金も、まぁ、だいたいさっき言ったようなレートで換算可能ですよ。さすがに、辞める際には、最低限の引き継ぎくらいはして欲しいところですが」


「しますします!絶対します!」


わたしは思わず、パッチさんの両手をつかんだ。


「はい。それじゃあ、ここにサイン書いてください」


あくまで事務的に、冷静に対応するパッチさん。


「はいはい、わかりました~!」


「ストップ!」


パッチさんが片眼鏡をキランとさせながら言う。


「あなた、ちゃんと文面読みましたか?」


「え?いえ」


「わたしがウソをついていないと言えますか?」


「そんなー、信用してますよー」


陽気に言う。けど、パッチさんは相変わらず冷静だった。


「なるほど。確かに人を信じることは美しいことの一つです。ですが、それを悪意をもって利用する輩がいることもまた事実です」


真剣だった。その静謐さをたたえた瞳をまっすぐにこちらに向けて、パッチさんはわたしに語りかけた。


「読んでください。待ちます。わからないところがあれば、聞いてください」


なんというか、心打たれた。ただ冷静な人だとか、事務的な人ではない。パッチさんは、その中に青い炎のような誠実さを持っていた。


「はい」


わたしは、ついはしゃいでいた気持ちを落ち着かせ、座り直した。


「とはいえ、よく見たらもう遅いですね。定時です。家に帰って読んでください」


パッチさんは、言うが早いか席を立った。


「え?」


「わからないところはまた明日にでも質問してください。それでは」


片手で挨拶し、パッチさんは風のように去っていった。


取り残されたわたしは、「じゃ、わたしも帰るか……」と独りごちるしかなかった。

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