#37 その二つ名は“聳え立つ巨塔”
革張りのソファに沈み込んだブラストは、熱の残るカップを指先で軽く揺らしていた。
表面に小さな波紋が走るたび、香ばしいコーヒーの匂いが空調に混じって広がっていく。
応接室の静けさは、分厚い扉の外から響いてくる足音や怒号と、どこか異世界のように隔たっていた。
「
喧騒に耳を傾けながら、ブラストはカップを口元に運ぶ。
喉を通る苦味と香りが、外の騒々しさと奇妙な対比を成していた。
「貴方は行かなくていいんですか?」
「俺はもう配備も終わって待機中。明日の朝まではやることねぇよ」
隣で手に持った端末の資料に目を通していたヒューズが、のんびりとした調子で問いかける。
ブラストも投げやりに応じ、ビスケットのようなものを齧りながら手元の端末を指でスライドさせていく。
テーブルには國の地図のホログラムが投影され、赤いピンが複数の都市にマーキングされている。
壁面のモニターに映る荒い記録映像には、黒い装甲に身を包んだ異様な兵士たち。常闇の抱擁者との戦闘記録が繰り返し再生されていた。
國で流通する半導体、電子技術のトップ企業である『イヅナ精密電子』。通称I.P.E.に、風邪薬からバイオ兵器に至るまで、“薬”と名のつくものなら何でも製造するバイオメーカー『キサラギ化成』が大規模な企業抗争の宣戦布告をしたのが、およそ三十九時間前。
キサラギ化成は、製薬に必要な特許権を秘匿・独占しているとして、I.P.E.の中枢である技術研究施設へと侵攻し技術の解放を行うと宣言してきていた。
当然のようにI.P.E.は反発し、技術研究施設を囲む巨大プラント『無限回廊』にて迎撃するため準備を進めていた。
I.P.E.所属のブラストもまた、キサラギ化成の迎撃のため無限回廊へと招集された一人だった。
「貴方のいる一課と違い、法務部二課は防衛の最前線に立つのが仕事ですからねぇ。ところで、先ほどから気になっていたのですが……」
「……何やってんのアンタ」
胡乱げに目を細めたブラストとヒューズの視線の先では、タロスがソファの裏を確認したり天井裏や壁を叩いて回っていた。
その仕草があまりにも洗練されていて、二人とも今まで気にもとめていなかった。と言った方が正しいかもしれない。
声をかけられたタロスは動きを止めて振り向き、手に付いた僅かな埃を払いながら口を開いた。
「盗聴器や監視の類がないかを確認している。職業病のようなものだから、気にするな」
「あぁ、はい」
その澱みない口調にヒューズは苦笑いを浮かべ、資料から視線を外して目を細める。
「お会いするのはこれが初めてですが、らしいといえば実にらしい方ですね。貴方は」
「そうか? バカみてぇな大太刀振り回してる姿を見てる俺からすると、隠密のスサノヲらしさのカケラもない奴に見えるぜ?」
「陛下より下賜された大太刀を罵倒したことは不問にしておこう。此度の情報提供の内容が内容ゆえ、慎重になっていることは容赦されたい」
「わかってンよ」と手を振りカップをテーブルに置くと、ブラストはモニターに映る【鎧の男】の映像へと顎をしゃくった。
その映像は、九龍貿易商会でタロスが確認しデータチップに保存したものと同じ。ツクヨミ本部へ護送中に紛失したはずのそれを、タロスは秘密裏に複製し確保していたのだった。
「んで……タロスから回ってきたこの情報、旦那はどう見る?」
問いかけられたヒューズは、映像の中で武器を背に佇む【鎧の男】をしばし見つめた後、緩やかに首を振った。
「【鎧の男】が組織的な活動を行っていることは確定しました。しかし、その目的は……?」
「貴公らの報告や、私の調査から【鎧の男】はいわゆる『強き國』論者共のリーダー、彼奴等から“
室内の安全を確認し終えたタロスが空いた席へとようやく腰を下ろし、コーヒーを口に含む。
ブラストは口の端を歪め、カップを再び手に取った。
「アンタの報告書は読んだぜ。『腐敗した“天帝”と“國”から民を解放し、強く新しき國として再生させる』だったか? お題目は立派だが、やってることはテロリストと変わんねぇよ」
「十年前、立て続けに発生した事件でも多数の犠牲者が出ました。本当に國の行く末を憂うならば、民間人の虐殺など有り得ませんよ」
ヒューズは穏やかな声で返し、だが空になった紙コップをくしゃりと握りつぶした。
横に座るタロスが、小さく息を吐いて言葉を補った。
「この動画の最初に出てくる赤い鎧武者姿の男は、姫巫女暗殺未遂事件の首謀者でオウゼンという。特務機関スサノヲとしても私個人の因縁としても、【鎧の男】を追うべき理由がある」
「あの事件、首謀者は死んだって聞いたけど? ま、大本営発表なんてアテに何ねぇか。俺としちゃ、理由はともかくアンタが協力してくれて助かってるよ、隊長さん。初対面の時はマジで死ぬかと思ったけどな」
ブラストが肩をすくめ、へらりと笑った。
そこへ、会議室の扉が開く音が響く。
「待たせたな、君たち。さて、会議を始めよう」
擬音さえ聞こえてくる芝居がかった声音と共に入ってきたのは、セイナだった。
ジャケットの裾を翻し、彼はまっすぐに歩み寄ってソファへと身体を預けた。
「……呼んでねぇ。いや、呼んでたな」
「お疲れ様です。そちらは滞りなく?」
ヒューズが問いかけると、セイナは僅かに口元を緩める。
「もちろんだよ。B.A.B.E.L.の半数は説得できた。社の決定に反しない範囲での協力……つまり、進軍を遅らせる形だ。僕たち異能力者の半数が実質的に不参戦となる。それだけでも、戦場は大きく変わる。こんな戦い、I.P.E.にもキサラギにも全く益がない」
「無駄な犠牲者が一人でも減らせたならば、貴公の行いは偉業であろう」
「後はこの大攻勢の裏で動いてる【鎧の男】の思惑をぶち壊せりゃ万々歳だわな。このタイミングでこんな筋の通らねぇ抗争、どう考えても裏があんだろ」
タロスが冷静に言葉を返し、ブラストもまた牙を研ぐ獣のような笑みを見せる。
ソファに座り顔を突き合わせる四人。そして、今この場には居ないハムドとファル。
所属企業も信条も異なる彼らだが、【鎧の男】を追う。その目的だけは共通していた。
「なぁセイナ。今回のアンタんトコの大攻勢、その真意はなんだ? まさか本気で特許権の侵害っつー理由で無限回廊を攻めんのか?」
「小隊長の僕如きでは、重役の真意なんて知る術もないな。だが確かに、特許権の侵害ではないだろうね。本社のマッドサイエンティストたちが特許なんて気にすると思うかい?」
「ははっ、間違いねぇわ。医療品を出し渋るぞって脅して来んのがいつものキサラギの手口。だろ?」
ブラストが椅子の背に身を預けながら、天井を見上げる。
その視線の先に何を見たのか、あ。と間の抜けた声を上げた。
「イヅナの本社で、
「……初耳ですね。ですがそんな真似をすれば、侵攻の準備をしているキサラギは集中砲火を浴びるだけではありませんか。正気の沙汰じゃありませんよ」
ヒューズが苦笑混じりに答える。
ブラストのその話にタロスもまた頷いた。
「私とブラストで秘密裏に事を進めていたのでな。知らぬのも無理はあるまい。私の独自ルートを用いて、天理機関ツクヨミの中でも信頼のおける人物に依頼してその者の派閥からも列席してもらっているはずだ。貴公はツクヨミを通すなとは言っていたが、これで良かったか?」
「マジか……。アンタ実はすげー権力者だったりする? てっきりスサノヲの誰かが来るのかと思ったわ。ま、ツクヨミは最近ちぃとばっかキナ臭ぇけどよ。アンタが信頼できるっつーなら、まぁ大丈夫だろ」
「ちなみに、その会議の議題とは……?」
首を傾げるヒューズにブラストは肩を竦めると、端末をトントンと指で叩き、口の端を吊り上げて呟いた。
「……これ、関係だよ」
応接室に一瞬の沈黙が落ちた。
ブラストの言葉の意味を、ヒューズとセイナは理解しきれず、すぐには口を開けなかった。
だがそれを見越していたかのように、ブラストは片手に持っていた端末を、ソファ前のテーブルにそっと置く。
そのまま無造作に人差し指で画面を示し、言った。
「俺の上司に、俺とは別口で【鎧の男】を追ってる人がいてな」
声は穏やかだったが、芯のある低さが室内に染み渡る。
「十年前の下層街区大虐殺を生き延びた俺を、イヅナにスカウトした人だ。俺は信頼してる。その人に……タロスが持ってきた資料を渡しておいたんだよ。もし本当に【鎧の男】が國の情報網にアクセスできるなら、その会議を狙ってる可能性は否定できねぇ」
返された言葉に、タロスの表情が明らかに曇った。
眉間に皺を寄せ、すっと視線を細める。
「会議前に情報漏洩か。……本当に信頼できるのか?」
苦い吐息とともに呟いたその問いに、ブラストは気まずげに肩を竦めると、両手を軽く広げてみせた。
「黙ってて悪かった。けど、これだけデケェことおっぱじめようとしてる奴のこと、いつまでも俺らだけでコソコソやるにゃ限界があるだろ。それに、ツクヨミが信じられねぇ今、そっちに情報を渡すわけにもいかねぇ。それはアンタ、タロスが一番分かってんだろ」
タロスは小さく舌打ちを呑み込み、立ち上がりかけていた腰をソファへ押し戻す。
その動作には苛立ちと戸惑いが滲んでいたが、感情を抑え込むように長く息を吐き、再び背もたれに身を預けた。
沈んだ視線が、静かに宙を彷徨う。
「【鎧の男】については、十年追い続けてきた貴公らの方が詳しい。私が意見をするのは、些か不躾であったな。謝罪する。あぁ、なるほど。ファルとハムドがここにおらぬのは、そういう理由か」
「ご名答。そっちは俺が手配させてもらったからな。話が早くて助かりまくるわ。アイツらは、対【鎧の男】重役会議の護衛に就いてもらってる」
タロスの問いに、ブラストはソファの背に身を預けたまま、天井を仰ぐ。
灯りの落ちた照明の反射が、彼の瞳にぼんやりと映り込む。
「考えたくはないが……」
短く呟き、タロスは脚を組み直すと、言葉を慎重に選ぶようにして続けた。
「本人、もしくは側近筆頭クラスが、ツクヨミの中枢に潜り込んでいる。私はそう見ている」
空気が再び張り詰める。
誰も驚きの声はあげない。ただ、全員が何かを思い出すように、わずかに目を伏せた。
「理由は三つある」
タロスは右手を胸の前で折り、左の指で数え始めた。
「企業動向の把握精度が異様に高いこと。オウゼンと旧知である可能性。そして、情報の隠蔽工作の緻密さ。……これは、國の裏側を知る者のやり口だ」
ヒューズは肩越しに静かに相槌を打つ。
その横でセイナも、唇を結び、小さく頷いていた。
やがて、静寂の中でセイナの声がぽつりと落ちた。
「準備が……整った、ってこと……か?」
三人の視線が一斉にセイナへと向けられる。
セイナは怯むことなく、しかしどこか遠くを見つめるような目で言葉を紡いだ。
「國のあちこちで、同時に【鎧の男】の手先が動き始めてる。常闇の抱擁者を含めて。それってつまり……何か大きなことをしようとしてるってことだよな。準備が整ったから、もう隠す必要がない。そう見るべきじゃないか?」
思考の糸をたぐり寄せるように、ヒューズが小さく呟いた。
「大きなこと……」
その言葉を、タロスが静かに引き取る。
「……クーデター、か」
その瞬間、誰もが言葉を失った。
重力が増したかのような、冷たい沈黙が部屋を満たす。
わずかに揺れていたカーテンさえも、いつの間にかその動きを止めていた。
四人の背に、見えない何かが静かに、だが確かに、のしかかっていた。
沈黙が、音もなく応接室を覆っていた。
誰もが言葉を失っていた。
先ほどまで交わしていた熱のある推論が嘘のように、空気はひやりと冷え込んでいる。
その時。俯いていたブラストが何かを思いついたようにフッと顔を上げた。
「っつーか。腹減らねぇ?」
椅子の背に思いきりもたれかかり、ブラストがため息交じりに呟く。
不意に、口元だけが緩んだ。
「こんなバカみてぇな陰謀……グツグツ煮込んでもシチューにもならねぇだろ」
肩を竦めて、指先でテーブルを二度、コツコツと叩く。
続けて腹をさすり、壁にかけられた時計を指差した。
「ちょっと早いけどよ、メシ行こうぜメシ。ヒューズの旦那は来るだろ? セイナとタロスもどうだ? 無限回廊の食堂名物、無限回廊カレーでも食おうぜ」
そのあまりにも場違いな言い草に、ヒューズがふっと目を細めて頬を緩めた。
「いいですね。胃に何か入れなければ、脳も働きませんし」
少し間を置いて、セイナがぽそりと呟く。
「……無限回廊カレー……?」
その一言に、全員の視線がゆっくりとセイナに向いた。
タロスもまた、困惑したように眉をひそめる。
「身体の都合上、食べられるものに限りがあるが……まぁ、今ここで気を張っていても致し方あるまい」
「そうだね。【鎧の男】の大いなる陰謀と戦う前から気を張り詰めていたら、食べ物も喉を通らなくなる。ここは一つ、同じフードプロセッサの飯でも食べて親睦を深めるとしようか」
どこか素直すぎるセイナのその反応に、ブラストとヒューズが同時に笑った。
タロスは顎を指でかきながら視線を泳がせ、何も言えず口を引き結ぶ。
まるで、重く沈んだ水面に一滴の泡が浮かんだかのような、奇妙な間。
それが、徐々に日常のリズムを取り戻すきっかけになる。
「行こうぜ。どうせ答えなんて、今すぐ出ねぇんだからさ」
「そうしましょう。というか、まだあるんですね無限回廊カレー。激辛は今もあるのでしょうか」
ブラストが立ち上がる。無造作に背伸びをして、肩を回す。
ヒューズも静かに席を立った。
「ブラストの奢りでいいか? 大盛りとトッピング全部盛りにするけど構わないな」
「おい止めろセイナ! 構わないな? じゃねぇよ構うわ!」
セイナの声は、どこか嬉しげで、けれど妙に真剣で。
タロスは一瞬だけ目を伏せ、諦めるように立ち上がった。
「まったく……貴公らは……」
そうぼやきながらも、彼の足もまた、三人のあとを追っていた。
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