ヴォーパルソードなんかで君は殺せない
名をジャバウォックと言う。けれど、その怪物に名は無い。
「『昂揚した議論の賜物』。それが怪物の名です」
部室に彼女の声が反響した。どんな声かと訊ねられれば、少し迷いながらも僕は敢えてこう答えるだろう。つまり、「怪物のような声」と。
「私に意味をもたらしてくれるのは、きっと先輩なんです」
「僕なんかが何かに意味をあげられるとは思えない」
「それでいいんです。付け加えるなら、意味が無い事に意味がありますから」
「さっぱり分からない」
何も無い虚空に向かって言葉を放る。数メートル先の壁にぶつかり、僕の体にぶつかる。そのくらい、部室には静寂しか満たされていない。
僕も最近になってようやく理解したが、どうやら彼女は存在しないらしい。だから僕が彼女を足らしめてくれと。そういう意味だろう。
「どうすれば君に意味をあげられる?」
「どうもしなくていい。強いて言えば、存在しないものについて沢山考えてください。それを言葉にして、私に伝えてください。それが私になる」
「同じ事の繰り返しだ」
「それがいいんです」
「だって、先輩だから」。彼女は控えめに笑いながら言った。
ジャバウォック。「鏡の国のアリス」に登場する詩で謳われている怪物の名。でも、その名前に意味は無い。jabberが淀みない昂揚した議論、wocerが子孫とか果実とか、そういう意味だ。要はその怪物について議論した結果、産み出されたものが怪物そのものになるという事らしい。あるいは、議論そのものが怪物かもしれない。
「存在しない自分に『ジャバウォック』なんて名前を付けるのは、なんていうか、君らしいセンスだ」
「私らしいかどうかは分かりませんが、ルイス・キャロルのセンスはたまらないですね」
その怪物はどこにだってありふれている。二人以上の人間が言葉を交わせば、いや、一人で自問自答を繰り返す事だって。きっとその瞬間、そこに怪物は産み落とされるのだろう。
「でも君はここにしかいないだろ。僕にとっての後輩で、その声で僕を『先輩』と呼んで。それ以上にも以下にもならない。だからこそ、それだけで君は君だと思うよ」
僕が言うと、彼女は大きな溜め息を吐いた。まるで「だからこいつは」とでも言いたげな、諦めの色が滲んだ溜め息だ。僕はその音に、どうも人間味らしいものを感じた。
「先輩はセンスはあるのかもしれませんが、人として大切なものが無いですよね」
そんな言い方、最早僕も怪物みたいじゃないか。口にしようとしてやっぱりやめた。代わりに彼女が続けざまに「いいですか」と言葉を重ねる。
「確かに、怪物はどこにだっています。先輩は正しい。でも、正しさだけが人を救うとは思わないでください。正しい事だけが正しいわけではない」
「……それは、少し分かる気がする」
正しいはずの事を、ある程度は疑ったまま生きていく。それが本来の人間らしい姿だ。正しい事を正しいと妄信したまま生きていく姿は、とても美しいかもしれない。でも、人間らしくはない。どこまでも美しい怪物の背中だ。
そこまで考えて、僕はふと思った事があった。それを口にしようとした瞬間。
「そして、先輩とこうやって存在しない答えを探し続ける今この瞬間だって、きっとジャバウォックなんです」
僕はふと笑って「そうだね」と言った。「同じ事を思ったよ」とも言った。
正しさは、つまり真理は。無自覚に何かを傷付けてしまうかもしれない。人間だって簡単に殺せるだろう。人は時に、間違いに救われてしまうようなどうしようもなく救いの無い生き物だから。
「逆に言えば、君は『ジャバウォック』だ。人間じゃない。昂揚した議論は、正しさっていう答えで終わってしまう」
僕が言うと、彼女は「だからですよ」と言った。
「だから私は私なんだと思います。どこにでもいる怪物なら、真理で殺せます。でも私はそうじゃない。先輩の言葉が、先輩の想像が、先輩の思い描く『私』が、全部私になるんです」
怪物はどこにだっている。でも少なくとも、この部室にいる怪物はここにしかいない。あるいはこういう言い方もできる。ここにいるのは怪物でもなく人間でもなく、ただ彼女なのだと。ただ後輩なのだと。そうかもしれない。
「真理なんかじゃ私は殺せません。だって、先輩の想う真理すら私ですから」
僕は彼女について、沢山の事を考えるだろう。それを口にするだろう。全くもって意味の無い事だ。そして、どうもそれが彼女の願いらしい。意味は分かる。でも納得はできない。どうして僕なのだろうか。その『議論』についてだけは、答えを見つけられる気がしない。
「だから、私とたくさんの言葉を交わしましょう。先輩との昂揚した議論の賜物が私になる」
その怪物には名も意味も無い。でもきっと、意味が無い事に意味がある。
「それが私という恋の怪物、ジャバウォックですから」
どうやら怪物を生み出したのは、この僕らしい。
そしてきっと、僕にはこの怪物を殺せないのだ。
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