僕と後輩

@maitakemaitakem

プロローグ

「分からないんです。どうすべるきなのか」

 とある夏の午後、唐突に彼女が言った。

 僕らはその時、いつものように部室にいた。開いた窓からは優しい夏風がそよいでいて、それに運ばれた緑の香りが部屋に充満していて、空は文句の付けようもない快晴で。陰鬱とした梅雨が抜け去った後の、夏の始まりに相応しい青だった。

 僕は本を読んでいた。椅子の背もたれに深く腰をかけ、両手で包むようにして文庫本を開いていた。

 その文庫本にはタイトルが無かった。表紙も背表紙も真っ黒で、タイトルはもちろん、作者もあらすじも、情報が何も無い。傍目には異質なものに映るだろう。例えこれが図書室の棚に並んでいても、多分誰も手に取らない。

「それは、独り言?」

「独り言なのに敬語を使うと思いますか」

「分からないから訊いたんだよ」

 この分かりにくい後輩は、どうやら僕に何か話があるらしい。本に栞を挟み、少し前傾姿勢を取って話を聴く態度を作る。

 その時の彼女はと言えば珍しくスマホを操作していた。いつもなら僕と同じように、何かしらの本を読んでいるのに。たったそれだけの事で、僕は少し緊張感を持ってしまった。

 彼女はスマホをスカートのポケットにしまい、机の上でもじもじと手を交差させる。そして少し言いづらそうに口を噤みながらも、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。

「私、先輩が好きです」

 後輩の唐突な告白に、思考が一瞬停止する。数十秒に思えるコンマ数秒を置き、何か言わねばと思って口を開いた瞬間、また続けざまに彼女が言葉を発した。

「でも私、先輩が嫌いなんです」

「は?」

 条件反射のように、言葉ですらない音が口から漏れ出る。

 いよいよ何と言っていいか分からず、僕は続く彼女の言葉を待った。分かりにくい彼女なりに、何かを遠回しに伝えたいのだと思った。

「どっちの気持ちも、取り繕う事ない私の純真です。先輩がそのどちらに目を向けるかはもちろん先輩の自由ですし、どちらにしても私は先輩の選択を尊重します。……いえ、正確には尊重したいという願望ですが」

「……つまり?」

「つまり、えっと、どっちにしても、私を見捨てないでくれると嬉しいというのが本音です。先輩が『自分を好くような人間』を好かない事も、なのに自分を嫌っている人間を当然好くはずがない事も、私はよく知っていますから。私にとって先輩はただ一人です。それだけは、どちらにしても変わりません」

 彼女は僕の方を真っ直ぐに見て、何を考えているのかよく分からない表情で言い切った。でも、その澄んだ瞳が「これが答えです」と伝えたがっている事だけは何となく分かる。だからと言って、僕がその言葉の意味を正確に受け取ったわけでもないのだけど。

「ごめん、よく分からないんだけど、具体的にどうすればいいの?」

「どうもしないでいいです。むしろ何もしないでください。先輩が先輩でいてくれたら、私はそれだけでいいです」

 これはあくまで僕の考えだけど、つまるところ彼女は二人いるのではないかと、そういう風に思ってしまった。そしてそのどちらの彼女に対しても、僕が僕のままであり続ける事を彼女は望んでいる。

「何て言うか、君は我儘だね」

「ええ、私もそう思います」

 表情を崩さぬまま、射貫くような視線を向けて小さく呟く。まあ別にどっちでもいいかと思った。どちらかを選ぶ、という言い方は少し傲慢過ぎるが、彼女が僕を好こうと嫌おうと僕は僕だし、彼女は彼女だ。何も変わらない。

「ところで、ずっと気になってたんですが」

 そう言って彼女は机の上に視線を落とす。正確には、机の上にある表紙も背表紙も真っ黒な文庫本に。

「それ何の本ですか」

「これは別に、ただの『本』だよ」

 僕の言葉に彼女は少し眉をひそめる。何か考えるような表情を見せた後で、違う角度からの質問を投げかけた。

「先輩はその本を、どこで手に入れたんですか?」

 彼女の言葉に、僕はとある人を思い出した。

 その人はついさっきまでここにいたような気もするし、ずっと昔に会っただけのような気もする。ただ一つ、確信している事があるとすれば、結局僕もあの人も変われなかったという事だけだ。別に変わりたいだなんて思った事はないけれど。

 あの日、僕はあの人にとっての「後輩」で、あの人は僕にとっての「先輩」で。そういう過去があっただけだ。誰も知らない、僕とあの人だけの過去が。

「これは、ある人から譲ってもらったんだ」

 僕の言葉に、彼女は「そうですか」とさして興味も無さそうに呟いた。多分、彼女の真意はそこに無いからだろう。

「面白いんですかそれ」

「どうだろうね。内容は人によって変わるだろうから」

「……まあ、結局そういうのって主観ですしね」

 僕が差し出した本を、少し怪訝な表情をしながら彼女が受け取る。

 彼女が言いたいのは、「面白さは人によって違う」と、そういう事だろう。僕の言葉を、そういう解釈で受け取った。

 でも違う。僕の言葉はそのままの意味だ。この本はきっと、読み手によって内容が変わる本なのだと思う。

 けれどそれを上手く伝えられる気はしないし、それで彼女がその意味を理解するとも思わない。僕は「そうだね」とだけ曖昧に微笑んだ。

「この物語に、タイトルはあるんですか」

 彼女の問いに、僕は何も考えず答えを口にしようとした。でも、それでは少しつまらないと思って、代わりにこう言ってみたのだ。

「タイトルは、これから君が付ければいい。君の想うがままのタイトルを」

 僕の言葉に、彼女は殊更に眉を寄せながら、やがてゆっくりと本を開く。

 今の彼女がはたして「どちら」なのか。僕には分からない。でも、やっぱりそれはどうでもいい話だ。僕は彼女にとっての「先輩」で、彼女は僕にとっての「後輩」で。どこに行こうと何になろうと、どうしようもないその事実が小さくあるだけだから。

 生暖かい夏風が部室を吹き抜ける。文字を追いかける彼女の黒髪を、夏草のように優しく揺らせる。僕は何もせず、ただそれを眺めていた。あの人もこんな気持ちだったのだろうかと、あの日々を何となく思い出しながら。

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