02-5.「お前のせいで台無しだ」と言ってやりたい

 厳重に保管されている袋を開封すると、それを右手で摘み、左手でダニエルの首筋についているガーゼを遠慮なく引き剥がす。


「張り替えたぞ」


「おう、助かった。……消毒液は?」


「さすがに持ってねえよ」


「チッ、役に立たねえな」


「悪かったな。そのくらいの傷なら舐めとけばいいだろ。舐めてやろうか?」


「いらねえ。気色悪いことを言ってんじゃねえよ」


 ダニエルはフェリクスの顔を見上げる。


 冗談で言っているわけではないのは経験上知っていた。


 そういうことを人前だからと躊躇するような人間でもない。


「ユリウス様! 大丈夫ですか!?」


 クラリッサの声だった。


 ダニエルとフェリクスは思わず、声がした方向を見る。


 ……本当に来たのか。


 ユリウスの切り傷を心配しているような表情を浮かべていたアーデルハイトの表情が曇った。


 まるで、アーデルハイトの居場所を横取りするかのように表れたクラリッサだったが、ユリウスの手を優しく包み、それから涙を流す。


「よかったぁ。このくらいなら、あたしでも治せそう」


 言葉遣いが乱れているのは感情的になっているからだろうか。


 それを指摘する声は聞こえない。


「【癒しの光】」


 クラリッサは呪文を唱えた。


 それに応じるかのように眩い光がユリウスの掌を覆っていく。


 体の一部が光っているのは、先ほどの模擬戦で負傷をした箇所なのだろう。


 ……聖女覚醒イベントか。


 正確には、クラリッサは既に聖女としての力を覚醒させていたのだろう。


 ……嫌な予感がする。


 乙女ゲームとは少しずつではあるが展開が変わりつつある。


 ……手に負えなくなる前に何としても距離をとらねえと。


 しかし、クラリッサが誰からも愛されるヒロインであることは変わらないと訴えるかのようにも思えた。


 ユリウスの傷はあっという間に治ってしまった。


 大した傷ではなかったのだろう。


 しかし、短い呪文を唱えただけで治療するのは通常でありえないことだった。


「どうして、平民が?」


「あれが、噂の聖女候補ということですの?」


「冗談じゃないわ、だって、平民が……」


「見ただろ、本物だ!」


「殿下の傍にいることを許されたということは」


 様々な憶測が流れる。


 ダニエルたちの近くにいた同級生たちも戸惑いを隠せていなかった。


 ……厄介だな。


 この場にいる生徒の大半が貴族である。


 彼らが目にしたこの光景は親に伝えられることだろう。


 そうすれば、ベッセル公爵家の権力を疎む第二王子派や過激派は、ここぞとばかりにクラリッサをユリウスの婚約者候補として持ち上げようとする動きが現れることだろう。


 それを防ぐ為の力はダニエルにはない。


 呆然とした表情を浮かべたままのアーデルハイトの心境を思うと、心が痛んだ。


「候補とは聞いていたけれど、もう、覚醒をしていたんだね」


 ユリウスはかすり傷を負っていた個所を確認する。


 跡も残さず、綺麗に治っていることを確認すると笑顔を浮かべた。


「ありがとう、クラリッサ。君は素晴らしい才能の持ち主のようだね」


 裏のある笑顔であることには、クラリッサは気づいていないのだろう。


「え、あ、ありがとうございます」


「恥ずかしがる必要はないよ?」


「だって、みんなが見ているから……」


「稀代の聖女の力は注目を集めるというからね」


 慌ててユリウスの手を離したクラリッサは恥ずかしそうに笑っていた。


 その目にはもう涙は浮かんでいない。


「あ、あたし、他の人も治さないと!」


 まるでアーデルハイトの視線に怯えるような仕草を取り、大慌てでユリウスから距離をとる。


「あの。ユリウス様。誰か、けがをした人をいませんか……?」


 それから、ユリウスの表情を窺うような仕草をとった。


 慈悲深い聖女であるかのように、治療を続けようとする姿は大げさに伝わることだろう。それをクラリッサはわかっていない。


 だからこそ、ユリウスは指摘をしない。


 都合よく広がる噂を利用しない手はなかった。


「そういえば、ダニエルはまだ治療を受けていないはずだよ。彼も治療してもらえないかい?」


「殿下!! お兄様はそのようなことをしなくても大丈夫ですわ!」


 アーデルハイトの形相は恐ろしいものだった。


 その言葉を聞いたユリウスは疎ましそうな表情を浮かべていることにも、彼女は気づいていないのだろう。


「アーデルハイト。君が彼女に対して苦手意識を抱いていることは知っているけれど、それをダニエルにも強要するような真似はよくはないよ」


「そのようなつもりはございませんわ! お兄様の傷はたいしたことはありませんわ。なによりも、聖女候補とはいえ平民の手で殿下に触れるなど不敬に当たりますわ! それだけではなく、お兄様にもその手を触れようだなんて許される行為ではございませんのよ!」


 ……仲裁に入るべきなんだろう。


 そのやり取りを見守っていたダニエルが仲裁に入るべきだということは、頭の中では理解をしていた。


 しかし、クラリッサの治療が優れているものだとしても、彼女の手に触れられたくはないという感情もある。


 ……攻防は長くは続かない。


 クラリッサは怯えているような動作をとる。


 それは聖女候補の実力を目にした生徒たちには、アーデルハイトの我儘に怯えているかのように見えることだろう。


 露骨なまでに平民を差別するアーデルハイトが、ユリウスの婚約者であることに危機感を抱く者が出てきてもおかしくはない。


 ……敵前逃亡をするか?


 フェリクスに付き添いを頼み、医務室に向かえば、クラリッサから逃げられるだろうか。


 それは互いを守る為にもなるだろう。


「逃げるか?」


「はは、無理だろうな。目が合った」


「バカじゃねえの。なにをしてんだよ」


 ……いや、それは出来なそうだな。


 クラリッサはユリウスから距離をとっている。


 そして、彼女はダニエルを見つめていた。


「いや、本当に偶然なんだが」


 なぜ、クラリッサはダニエルを気にかけるのだろうか。


 ダニエルには心当たりがなかった。

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