1滴

昼食が終わって、私はお手洗いのために教室を出て、少し歩いていると中庭のベンチに山辺先生が座って居るのが見えた。

心なしか憔悴しているようだ。

私は周囲に生徒がほとんどいないのを確認して先生の所に向かった。

「先生」

「あ、鈴村か。どうした」

「どうしたじゃ無くって・・・何かとばっちりでしたね」

「いや、自分のまいた種だ」

まいた種・・・

その時、驚きのあまり忘れていた・・・いや、忘れようとしていた考えに突然意識が向かった。

そうだ。私が見たあの日とは異なる写真の撮られた日。あなたは清水先生と部屋で何してたの?

私が見たあの日もだけど。

あの夜、ドアの前で聞いたやり取りがまた耳の奥に響く。うるさいくらいに。

そしてシャボン玉のように色んなものが浮かんでははじける。

汚れた檸檬の扇子。

吐瀉物の匂い。

清水先生と話していたときの先生の笑顔。

楽しそうな・・・

その笑顔を掴んだらなぜかグニャリと歪んだ。

清水先生。

あなたはもう充分持ってるでしょ?

色んな物を。

先生ができなくなったって他にもどうせ一杯。

なのになんで私から先生まで奪うの。

あなたには沢山の物がある。

私にはこの世界で先生しかいない。

この人がいなくなったらまた・・・

先生、約束してくれたよね?

一緒に居てくれるって。一緒に頑張ってくれるって。

私、ちゃんと覚えてるよ。

心の奥に暗い感情が滲んでくる。

まるで水に垂らした一滴の墨汁のようなそれは、すぐに周囲の水を黒く濁らせた。

その途端、私の中にある考えが浮かんだ。

それはどす黒くとてもネバネバしている、でもとても抗えないほどの魅力があった。

その考えに胃がギュッとなるような恐怖を覚えたけど、それを追い出すことは出来なかった。私はわざと間を置いてゆっくりと言った。

「そうかも知れません。クラスでも二人の話で持ちきりです。特に山辺先生があんな人と・・・って」

話しながら、語尾が少し震えた。

また、嘘つきになった。そんな事誰も言ってないのに。

「そうか・・・」

山辺先生は何か痛みでも受けたのかと思うように表情を歪めた。

この人は今、苦しんでいる。

私の言葉で。

ごめんなさい。

「さっきもその話が出てました。『清水先生なんかと嘘だよね』『そんな人のはずがないよね』って。私、否定しようとしたけど出来なくて・・・ごめんなさい」

先生は深くため息をつく。

私はそんな先生の顔をじっと見る。

「これが他の人だったらみんな何も言わなかったと思います。でも、イメージは怖いです。清水先生に引っ張られるように山辺先生のイメージもかなり悪くなっています。みんな声には出さないけど、裏ではかなり・・・」

「放課後のホームルームで本当の事を話すよ。黙っていることは逃げてるのと同じだ。そんな卑怯な自分で生徒の前には出れない」

「そんな事言ったら却ってみんな先生を見限りますよ『そんな見え透いた事言って。そんなにフォローするなら先生もそんな人間だったんだ』って」

「そうだけど・・・なら僕はどうすればいい?いっそ教師を退いて・・・」

「いえ。そんな事しても清水先生は喜びません。それにもうあの人はいないんですよ?居ない人のためになぜ先生が苦しむんです?あの人のアルバイトの事は事実なんです。あの人が辞表を出したのはそのため。あの人が自分で勝手にやったことの清算をしただけ」

私の言葉に山辺先生は私の顔をじっと見つめる。

その瞳の奥に今までに見たことの無い色が見える。

それは期待と渇望。

自分の望む物を目の前の人が与えてくれるんじゃ無いか。

そんな色。

そう、これが欲しかった。

私は先生の顔を・・・いや、目をじっと見つめて言った。

「先生には私が居ます。私は絶対に裏切りません。絶対にあなたの事を悪く思わない。私にとって先生はずっと正しいです」

「鈴村」

先生は安堵の色を目の奥に浮かべながら言った。

「有り難う。そう言ってもらえて本当に嬉しい・・・だが、今の僕は生徒から信頼されていない。そんな自分がみんなの前に立てるんだろうか」

私は先生の言葉を信じられない気持ちで聞いていた。

背筋に鳥肌が立つのを感じた。

先生が弱みを見せている。私にこんな惨めな姿を見せている。

私に依存してるんだ。

もっと。もっと縋って欲しい。

私無しでは生きられないくらい。

その言葉が浮かんだとき、クラクラするような気持ちよさを脳の奥に感じた。

私は周囲に誰も居ないことを確認し、先生の頬に手を当てやさしく撫でた。

驚く先生に向かってありったけの優しさを込めた笑顔で言う。

「一緒に乗り越えましょう。私たちなら大丈夫です」

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