第17話 迫り来る影

アルマは自室に戻ると制服を脱ぎ、ドレスに着替えた。ペンダントは付けたままにして、必要なものをいくつかポケットに詰めると部屋を出る。


「あら、ルマ様。どちらへ?」


廊下に出てすぐにチェルシーと鉢合わせる。アルマは「ちょっと外に」とだけ答えた。


「また庭園ですか? ルマ様は本当にお花が好きなんですね。……あ、髪が乱れてますよ」


チェルシーは花の飾りの付いたヘアピンを取り出すと、さっとアルマの髪に留めた。

チェルシーは「これでさらに可愛くなりましたね!」と笑っている。だけどその明るい笑顔にも、今だけは応えられそうになかった。

アルマはぎこちなく笑ってチェルシーの脇を通り抜けていった。


屋敷を出ると自然と早足になっていって、アルマは庭園を駆け足で横切っていく。

誰もいないガゼボを通り過ぎたとき、遠くでアルマに気付いたセオが立ち上がった。


「あっ、ルマさん……」


ルマはセオに気付くことなく走り去っていく。セオはサングラスを外すと、首を傾げた。


「あんなに急いでどこ行くんだろ」


不安から逃げるようにひたすらに走る。そのうちに涙がぼろぼろと落ちていき、うまく呼吸ができなくなった。

それでも懸命に走り続け、アルマは屋敷を囲う塀まで辿り着いた。


アルマはそこで足を止めると、ごしごしと涙を拭う。


「……あった。ここだ」


ここにやってきた日に使った秘密の抜け穴だ。アルマはそこに身体を捩じ込み、通り抜けていく。

そのときに外れたヘアピンが地面に落ちる。

それに気付かぬまま、アルマは塀の外へと出ていった。


敷地の外に出たアルマは一度だけ背後を振り返った。

本当はまだここに残っていたかったけれど、これ以上見つめていると決心が揺らぎそうで怖かった。


(……じゃあね、エイベル)


アルマは未練を断ち切るように屋敷に背を向け、歩き出したのだった。


***


「あの、ミルネール侯爵邸に向かってますよね?」

「ええ。そうですよ?」

「道が違うんじゃ……」

「ああ。近道してるんですよ」


(……本当に?)


レリュード侯爵邸を出たアルマは適当な馬車を拾って自邸に帰ることにした。

しかしこの御者、先ほどから妙に言動がおかしい。アルマは徐々に不信感を募らせていった。


「止まってください」


そう告げると、見知らぬ小さな街のはずれで馬車は止まった。


「もうここで下ろしてください」

「まだ目的地は先ですよ?」

「ここでいいです」


この男はこの辺りの地理に詳しくないのかもしれない。それならば別の馬車を探した方が早い。

扉が開き、アルマは馬車を降りる。そのとき、御者の男はしれっとした顔でこう告げた。


「お代は金貨五十枚ね」

「五十!? 馬車ってそんなに高いんですか?」


出かけるときはいつも家の馬車を利用しているから相場を知らなかった。

目を丸くしたアルマを見て、男はわざとらしく呆れ顔を作った。


「そりゃそうだよ。馬の世話も大変だし、いしいろいろとかかるんだよ。お嬢ちゃんみたいな貴族の方にはわらかないかもしれないけどさ」


男はちらりとアルマの身なりを確認した。身につけたドレスも靴も高そうだ。髪や肌もきちんと手入れされている。世間知らずのお嬢様に違いない。

そう値踏みしてニヤリと笑った。


「でっ、でも……」

「俺にも養わなければいけない家族がいるんだよ。妻は病気で苦しんでて、子供達もまだ小さい。俺が稼がなきゃ家族はどうなる? お嬢ちゃんには高いと思っても、俺には必要なお金なんだ。愛する家族のためなら何でもしたい。そう思うのは当然だろ?」


……愛。


そのワードはアルマにはよく効いた。


病で苦しむエイベル、まだ幼いエイベルとの子供達……。そんな状況ならば、アルマは鉱夫の仕事でも何でもするだろう。

決死の覚悟で宝石を掘り当てる己の姿と、家で子供達と帰りを待つエイベルの姿に思いを馳せる。

そのうち想像に感情移入しすぎてしまい、アルマはぶわっと泣き出した。


「お、お嬢ちゃん……?」

「わかります、その気持ち……」

「え」


アルマは涙を浮かべたまま、優しい笑顔を浮かべた。純粋で混じり気のない、天使のような笑顔を。


「おじさん、家族思いのとってもいい人なんですね。きっと奥さんもお子さんもおじさんのこと愛してるはずです!」


男は顔を引き攣らせた。

カモになりそうな相手を選んで乗せては、敢えて遠回りをして「これだけの時間乗せたんだから」と高額の請求をする。男はそんなあくどい商売をしてきた。

しかしあまりに純粋な笑顔を向けられ、さすがの男にも罪悪感というものが芽生えた。


「あ……。あー、お嬢ちゃん。今気付いたけど、料金の計算を間違えてたみたいだ。料金は銅貨三枚で……」

「いえ。おじさんは何も間違ってません!」


アルマはポケットから金貨の詰まった巾着を取り出すと、男に押し付けた。

本当に金貨が五十枚あることに気付くと、男はぎょっと目を見開いた。


「いや、やっぱり受け取る訳には……」

「それだけあれば奥さんも元気になって、お子さんもお腹いっぱい食べられますよね。よかったですね!」


男の心にますます罪悪感が募っていく。


「あー、だけど、その……」

「ここまで運んでくださってありがとうございました! それでは」


ぺこりとお辞儀をして、少女はあっという間に立ち去る。

金貨の詰まった袋が急にずしりと重くなったような気がした。


(俺はこんないい子になんてことを……!)


自分は卑劣な人間だ。そのくらい自覚している。それでも、スプーンひと匙ぶんの良心くらいは残っているはずだ。

やはりあの子を置いてはいけない。男は御者台に登ると馬車を走らせた。


少しすると遠方に少女の姿が見えて、男は再び馬車を止めた。

それと同時に、少女の傍に立派な馬車が止まり、中から身なりのいい男が降りてきた。


(もしかしてあの子の家族か?)


だとすれば、彼女が無事に帰れそうでよかった。そんなことを考えていると、少女は無理やり馬車に引きずり込まれ、馬車はあっという間に走り去っていった。


「…………え?」



――時は少し遡る。

御者と別れたアルマは、ひと気のない道を一人歩いていた。

ポケットの中は随分と軽くなってしまった。


「はあ、一文無しだわ」


あの金貨は『お世話係』のお給料だと言ってロシュから渡された大切なお金だった。

でも、後悔はしていない。


「やっぱり、愛し合う人たちが幸せでいられるのが一番ね」


そんなことを呟いていると、近くに一台の馬車が止まった。そして、中から黒髪の紳士が降りてきた。

貴族の――それも上位貴族の出だろうと、一目でわかる。男は黒い瞳でアルマを捉えると、にこり、と微笑んだ。


「レディー、少々お話を伺っても?」

「なんでしょう」

「貴女、魔女ですよね?」

「……え?」


アルマは意味がわからず男の顔を見つめ返す。男は表情を変えずに視線を返した。


「まあ、貴女が認めずとも関係ありません」


男がそう言うと、馬車の中から伸びてきた腕がアルマを引きずり込む。


「きゃっ!?」


すぐに口元にハンカチが押し当てられる。ハンカチに薬でも塗られていたのか、次第に頭がぼんやりとしてくる。


(なに、これ……)


抗うこともできず、意識が遠のいていく。

……やがてアルマは気を失った。


***


エイベルはいつでも人の居なくなった応接室に残っていた。ソファーに座ったまま宙を眺めていたが、やがて顔を覆う。


「……はあ」


彼女の言葉が蘇る。


『私、アルマなの。ルマなんかじゃないわ。事故の後小さくなって、この姿になったの』


もしそうならどれだけいいか。

そんな都合のいい想像はもう何度もした。

ルマが実はアルマで、自分のところに来てくれたんじゃないかと。


(だけど、そんな奇跡なんてありえない)


期待するほど、期待を裏切られたときの痛みが大きくなるだけだ。

もうあの子にアルマを重ねて見たりしない。そう誓ったばかりじゃないか。


「ルマ……」


彼女はいつも一生懸命だった。よく失敗もするけれど、その行動一つ一つは真っ直ぐで、優しさに満ちていた。

そんな彼女が人を傷付けるような真似をするはずがない。


(だとすれば、あの言葉は俺を励まそうとしてくれてたのか……?)


アルマの話を聞いて、心を痛めた彼女が元気づけようとして吐いた嘘だったのかもしれない。そう思うと納得がいく。

何せまだ子供なのだ。悪気があったとは思えない。


「……キツく言い過ぎたかも……」


アルマの話をしたばかりだったせいか、少し敏感になりすぎていた。

窓の外はもう暗くなっていた。

今頃ルマは何をしているだろう。泣いていたらどうしようか。


「ちゃんと謝って……甘いものも用意したら許してくれるかな」


お菓子と、いちごも沢山用意させよう。紅茶に角砂糖を入れすぎても小言を言わないよう、ロシュにも釘を刺しておこう。

そうすれば……また、笑いかけてくれるだろうか。


エイベルは頭をくしゃくしゃと掻いた。


「……ルマに会わないと」


そのとき応接室の扉が開く。薄暗い室内にエイベルの姿を見つけ、ロシュは驚いた顔をした。


「エイベル様、ここにいらっしゃったんですか。お客様がお帰りになってから随分経ってもお姿が見えないので、ルマ様とお出かけでもされたのかと……」

「ルマが何だって?」

「え? ……いえ。先ほどからルマ様の姿も見当たらないので、エイベル様と居るのではないかと、てっきり……」


その言葉ではっとして立ち上がる。


「ロシュ。他の使用人にも言ってルマを探させろ」

「は、はい。かしこまりました」


エイベルとロシュは屋敷中を探し回った。それでもルマの姿を見つけることはできなかった。


「……ここにもいませんね、エイベル様」

「ああ」


ロシュは不安げな顔で辺りを見渡した。もうほとんどの場所を調べたはずだ。

途中で合流したチェルシーはオロオロとした様子を見せた。


「どうしましょう。まさか行方不明になるだなんて……!」


そのとき、近くを園芸用品を抱えたセオが通りかかる。


「あの、何かあったんですか?」

「ルマ様が行方不明なんです。セオさんは見かけませんでしたか?」

「そういえば数時間前に向こうに走っていくのを見ましたよ」


セオはそう言って塀の方を指さす。エイベルはぴくりと反応した。


「それは本当?」

「エイベル様?」

「……まさか」


そう呟くとエイベルはすぐに走り出す。ロシュは「そんなに急に走って大丈夫なんですか!?」と慌てて後を負った。

ようやくロシュとチェルシーが追いついたとき、エイベルは塀の前で、手のひらをじっと見つめていた。

エイベルの手の中にあるものが花飾りの付いたヘアピンだと気付くと、チェルシーは「あっ!」と声を上げた。


「それ、ルマ様が身に付けていたものです!」

「……ねえロシュ。ルマは門からは出てないんだよね?」

「はい。門兵にも確認済みです」

「そうか。……恐らく、ルマはここから外に出たみたいだ」

「えっ! こんな穴があったんですか!?」

「……うん」


この通り道はアルマにしか教えていない、二人だけの秘密だった。どうしてあの子が知っていたのだろう。


(まさか彼女は本当に……)


何かを想像しかけて、首を振る。今はあの子を探すのが先だ。


「ロシュ。外に捜査範囲を広げろ。ルマの行方を探すんだ。絶対に見つけ出せ」

「はい!」

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