黄泉路の旋律

綾木悠

夫を亡くした女の話(1)



 ちりん。



 誰の涙雨か。次第に激しくなる天候の中、大通りを進む葬列がある。先導するのは親類縁者の男たちだ。駕籠かきが籠と棺を担ぎ、提灯、花、放鳥、香炉を持った者が順に続く。位牌を持っている男が喪主だろう。沈痛な表情を浮かべている。



 ちりん。



 道の脇に立ち並ぶ人々が囁きあう。


「随分と人が多いねえ」

「棺ん中にいるのは米問屋の倅らしい。馬車に轢かれたんだとよ」

「米問屋の? というと、まだ二十ちょっとじゃあなかったか」

「嫁を娶って一年もたっていないそうで。あ、ほら、あそこの若いのが奥さんだ」


 静々と喪主の後ろを歩く女が二人ほど目に入る。年嵩のほうが喪主の妻で、もう一人が亡くなった倅の妻だろう。黒い着物に身を包み、虚ろな目つきで色白の顔を俯けていた。きちんと結ってあった黒髪は、雨に打たれやや乱れている。


 その様子を、人垣の間から眺めている者がいた。



 ちりん。



「へえ。それは可哀想に」





    ☩ ☩ ☩





 礼拝が終わっても、女はそこから動けなかった。もう随分な時間がたち、周りには人一人いない。気分転換に、と追い立てられるように家を出てきて数刻。久方ぶりに教会に足を運んでみたが、その表情は陰鬱なままだった。


 堂内には静謐な空気が流れている。ベンチに腰掛けたまま、正面のステンドグラスを見上げた。異国の救世主が描かれている。救世主は、膝をつきこうべれる人々に手を差し伸べていた。


(あの人は死んで、神様のもとへ行ったのかしら)


 女学校時代に習った異国の教えを思い出す。


(きっとそうだわ。あの人は悪いことをしていないもの。今頃は空の上で幸せになっているはず)


 自身の感情に折り合いをつけようとした時だった。


「ハロー、レディ」


 突然、後ろから声をかけられた。


 振り返って最初に目を引いたのは、青年の髪色だった。一目で異国の者とわかる薄茶色の髪、そのすぐ下に位置する琥珀色の瞳は、とんぼ玉のように輝いている。


 声をかけられたならば無視はできない。女は億劫な気持ちになりながら立ち上がり、声を絞り出した。


「私に何か御用でしょうか」


 青年の端正な顔に苦笑が浮かんだ。


「お休みのところ申し訳ない。私はこちらの教会で調律を担当している者です」


 異国の見た目に反して流暢な国語だった。聞けば、調律とは楽器の音を整える作業であり、青年は定期的に各地の教会を訪れては、パイプオルガンを整備しているらしい。本来、二人で作業するものだそうだが、ここのパイプオルガンは小さいので彼一人で問題ないという。


 女はほっと息を吐く。


「では、私はお邪魔ですね。お暇いたします」

「いえいえ。いてくださってかまいませんよ。ただ、仕事を始めると五月蝿くなりますので。そこだけはご了承ください」


 家に帰っても腫れ物扱いで息苦しいだけだ。女は再びベンチに座り、青年の仕事を眺めることにした。


 正面のステンドグラスよりやや横に、小型のオルガンが設置されている。鍵盤の上の扉を開けると内部のパイプが見えた。様々な形や長さのパイプが規則正しく並んでいる。青年は鍵盤を押して一つ一つ音を出しては、パイプの横から飛び出ている細い棒を上に引っ張ったり、下に押したりを繰り返していた。初秋とはいえ、まだ暑い。額の汗を細身の腕で拭っている。


 女は唯々ぼんやりと、その後ろ姿を眺めていた。





 作業を始めてから一刻ほどで、納得のいく出来になったらしい。数度頷いた頭が、ゆっくりと女のほうに向けられる。


「ずっと、悲しい顔をされていましたね」

「あ……」

「実は声をかける前から気になっていたのです。よかったら、あなたのお話を聞かせてくれませんか? 多少は気がまぎれるかもしれませんよ」


 温和な声に誘われるように、ゆっくりと近づく。女は、ぽつりぽつりと自身に起きた出来事を掻い摘んで話した。その間、青年は静かに相槌を打つのみだった。


「……それは不幸な出来事でしたね。何か慰めになることでもあれば……そうだ。友人には変わっていると言われるのですが……私はね、この規則正しく並んだパイプたちを見ていると心が落ち着くのです」


 青年に促され、女が扉の中を覗きこむ。しかし、心が落ち着くという感覚はない。むしろ、パイプの群れに吸い込まれそうで不安になってきた。そんな女の様子に気づいていないのか、青年が静かに、しかし確かな熱量を持って語り始める。


「パイプは温度や湿度に影響を受けやすい繊細な素材です。調律してもすぐに狂ってしまうことがあります。そこはこちらの力が試されますね。調律を丁寧に行えば行うほど、オルガンの寿命は長くなります」


 にわかに青年の声色が変わったように聞こえた。


「不具合があるなら正せばよいのです。このパイプたちのように」

「え?」


 横を見上げると、青年は女のほうを向いていた。ゆっくりと口角が上がるのが、何故か印象に残った。


「死者と再び会えるとしたら、あなたはどうしますか?」





 心の奥底を覗きこまれたような気がした。


(どんなに納得しようと努めても、あの人の死を未だに信じられない。だって、あまりにも突然だったもの。幼い頃から慕っていた人と結婚できて、毎日が幸せだった。子どもはなかなかできなかったけれど、自分たちはまだ若い。焦る必要はないと思っていた。日常がこんなにも脆いものだとは、思ってもいなかった)


 青年の言葉はまさに女が求めているものだった。


「そのようなことが……本当に可能なのですか?」


 おずおずと尋ねると、青年は大きく頷いた。


「ええ! これはある方から聞いた確かな情報ですよ。郊外にある大きな森。その最奥に、洋館が建っていましてね。そこの住人に言えば、死者のもとへ連れて行ってくれるのです」


 聞いた話という割に、自分でも訪ねたことがあるような口ぶりだった。一瞬疑問が頭をかすめたものの、それはすぐに消え失せる。それだけ信憑性がある話ということなのだろう。


「それは……私も死ぬということですか?」


 青年は笑みを深めるだけだった。


(……生きていても、この胸の空洞は埋まらない。ならば、神でも死神でも構わない)


 久方ぶりに、女の瞳に光が灯る。正面の顔を真っすぐに見返した。


「わかりました。私、そこへ行ってみます」

「道中お気をつけて。あなたの心に平穏が訪れることを、願っていますよ」





 決行の日の前夜、女はなかなか寝付けなかった。布団に潜り込んで瞼を下げる。しかし、頭の中は計画のことでいっぱいだった。


 明日は遠出をすると、義父母には伝えてある。彼らは女が自発的に外出することに喜んでいた。二人の安堵した顔を思い出すと少し胸が痛む。


(事前の準備はすべて終わったわ。みんな宛ての手紙は机の引き出しに入れたし、道順や馬車の乗り方も調べた。持っていく物は最小限に。行きの馬車代と、あの人の形見だけでいい。ここにはもう、戻ってこないのだから)


 女は決意を新たにする。


 とっぷりと夜が更ける頃、ようやっと眠りについた。





 郊外までは乗合馬車が出ている。最寄りの馬宿に何とか辿り着いた女は、慌てて料金を支払い、馬車に飛び乗った。席について一息つく。軽くなった財布を鞄に入れ、膝の上に置いた。


(なんとか乗れたわ)


 しばらくは馬車の揺れに身を任せる。一人二人と降りてゆき、既にほかの乗客は一人もいない。女は最終の馬宿で降りた。周りには田園と数軒の家らしきものが見えるだけである。


 幸い、森までの道は一本道のようだ。女は鞄を持ち直し、道なりに歩き出す。収穫しているのか、田園で屈み込む人影をぽつりぽつりと見かけた。途中、休憩をはさみながらも、決して足は止めない。


 森の入り口まであと少しというところで、田園のほうから作業着姿の男が大声で話しかけてきた。女も精一杯声を張って答える。


「待ちなせえ、お嬢さん。そっちは森しかねえぞ」

「ええ。森に用があるのです」

「地元のもんでも近寄らん気味悪いだけの森だあ。森へ行って帰ってこなかった者もおる。やめておきなせえ」


 気遣いに感謝の言葉を返しつつ、女は男の言葉に期待を膨らませずにはいられなかった。





 森に足を踏み入れた途端、ひんやりとした空気に変わった。木漏れ日さえ入らぬほどの闇に、女は青年と会った日のことを思い出す。


(あの日、オルガンの中を覗いた時。あの時のほうがよほど恐ろしかった)


 何故あんなに不安になったのか、今でもわからない。ただ、この森からは恐ろしさと同時に包み込まれるような優しさを感じる。


(目的の洋館は最奥にあると言っていたわね。……ここまで来れば、後は進むだけよ)






 未舗装の道を歩き続ける。昼とも夜とも分からぬ森の中を進むうちに、時間の感覚もなくなっていく。






 それは月明かりに照らされ、突然現れたように感じた。


 女の目に木々以外のものが映るのは久方ぶりである。ゆっくりと目前の門扉を開け、敷地内に入っていった。白い花が咲き誇る庭園を抜けると、正面に黒い煉瓦造りの建物が見えてくる。女は玄関扉の前に立ち、円状の金具を打ち付けた。中から、かすかに「どうぞ」という声が聞こえる。


「……失礼いたします」


 重厚な扉を開けると、玄関ホールには一人の少年が立っていた。


「こんばんは、お姉さん」

「ええ、こ、こんばんは」


 少年は人懐こそうに可愛らしく笑いかける。


「遠路はるばるようこそ。歓迎しますよ」


 まずは食事をどうぞ、という少年の言葉に、自分が空腹であることを自覚する。歩き出す少年に慌ててついて行った。


(外から見た時は暗くて分からなかったけれど、とても広いお邸だわ)


 いくつもの扉の前を通りすぎ、少年が足を止める。どうやらここが食堂らしい。中に入ると、既に机の上に料理が置かれていた。椅子に座るよう促される。女はワインで口を湿らせた後、カトラリーを手に取った。小分けにした白身魚を口に運ぶ。その手は微かに震えていた。


 少年は正面の席に座り、優雅にワイングラスを傾けている。後ろで一つに束ねている灰色の髪が、少年の動きに合わせて僅かに揺れた。改めて見ると、とても美しい少年だった。年頃は、少年と青年の間くらいだろうか。見た目といい、言動といい、浮世離れした印象を受ける。


(まるでお人形のよう)


 ふと少年と視線がぶつかる。藍色の瞳の上で、長い睫毛が揺れた。


「何か?」

「い、いえ」

「ふふ、ゆっくりでいいですよ」


 食事を終えた女を伴い、少年はまた歩き出した。玄関ホールに戻り、階段のほうへ進む。


「今度はどこへ行くの」

「着いてからのお楽しみです。あなたの願いをかなえるためにはそこに行かなければならないのです」


 思わず女の顔が強張る。


「あ、何で分かったか、ですか? ここに辿り着く方は皆、同じ願いを持っているのです。逆に言えば、その願いを持っていない方は永遠にこの邸には辿り着けません」


 広く長い廊下を進んでいくと、一際大きな扉の前に着く。


「この先です」




 そこは礼拝堂だった。正面には吹き抜けになった広い空間に相応しい、豪壮なパイプオルガンがあった。


 少年は迷いない足取りでパイプオルガンのほうに歩き出す。女も恐る恐るといった様子でベンチの間をぬっていった。


 鍵盤の前まで来ると、少年が振り向いた。


「会いたい方の形見はお持ちですか?」

「え、ええ」


 胸元から針が止まった懐中時計を取り出す。街の教会で会った青年から、死者に関する物が必要だと聞いていた。本人が大切にしていた物ならばなお良いとも。


 少年は満足そうに頷く。


「うん、大丈夫ですね。では、これから僕が演奏しますので、あなたは形見を持ちながら死者を思い、音色に身を任せてください」

「それだけ?」

「それだけです」


 息を詰めて聞いていた女は少々拍子抜けした。


「ただし、注意していただくことがいくつか。まず、死者に会いに行けば、基本こちらには帰ってこられません。それから死者に会えるといっても」

「あ、あの」


 逸る気持ちを抑えられず、少年の説明を遮った。


「ここの規則は聞き及んでいるわ。大丈夫、何もかも覚悟の上で来たのよ」

「……本当に、説明はいりませんか?」

「ええ」


 少年は小首を傾げ、一瞬訝しむような表情を見せる。しかし、女の頑なな様子に自身を納得させたようだった。


「わかりました」


 少年がゆっくりと椅子に座る。その細い指を鍵盤に置いた。







 哀しくも美しい旋律が響き渡る。






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