第14話
金曜日、放課後。この日は三者面談週間の最終日であった。
週末しか都合のつかなかった共働きの家庭が殺到し、担任を持っている教師たちは膨大な走り書きや記憶をデータに残した上で、慌ただしい週末を終える。整理整頓が来週の宿題になった彼らはどんよりと気力を根こそぎ奪われて帰宅した。
一方で生徒たちはここぞとばかりに早く帰ることができた週末を楽しんでいるはずなのだが、例外という名の規則破りを犯す集団が居た。
「よし。行くぞ」
大藪が尖った顎をクイ、と動かして部員たちに合図する。それを受けた残りの男子部員二人はスパイよろしく壁に沿いながら下校時刻後の廊下を忍び足で走った。
新聞部は自分たちの部室を利用して学校に居残り、またしてもスクープを狙っていた。鯉ヶ谷高校はさほど人口密度の多くない田舎に位置するだけあって、巡回警備はかなりザルであった。
「まだ出るのかな。エックス新聞」
部員の一人が掠れた声を出した。
「いつも月曜日の朝には更新されていたんだ。最近は号外続きだったけど、そろそろ平常運転に戻るだろう。まあ、それも錦野くんの言っていた乗っ取りの噂次第だけどね」
「そもそもどうやって乗っ取るんだろう」
「弱みを握られているとか、ね。目的を果たすまで犯人にエックス新聞を使わせないと正体をバラすと言われた……こんな推理もできてしまう。あるいは……」
大藪が別の意見も示そうとした時、「あなたたち」と呼び止める声があった。新聞部は揃ってあたふたと焦り出して廊下の暗がりを見遣る。そこへ現れた一つ結びで仁王立ちする女性教師の姿に、大藪は同じクラスの学級委員の姿を重ねていた。
「お、乙部先生? どうしてまだ残って……?」
「それはこっちの台詞よ。たまに進路指導室に来てくれる女の子から、新聞部の人たちが無断で夜の学校に居残ってるって教えてくれたのよ」
バツが悪いどころか部活動を停止させられてもおかしくない状況で、新聞部の面々は額に汗を浮かべる。
外気に晒される場所ゆえにカーディガンの前を閉めた乙部は、早々に話を切り上げるべくいつもよりもキツめの言い方をする。
「犯人探しも良いけど、こんなことをしていたら逆に新聞部が疑われてしまうわ。今日のことは学校には内緒にしておいてあげるから、ちゃんと帰りなさい」
「……はい」
スクープのチャンスと部の危機を天秤にかければ、彼らが選ぶべき道は明白だった。部室へ荷物を取りに戻り、彼らが学校から出て行くまでを乙部は見守った。生徒が帰り、静寂を取り戻した掲示板前で悪態のように呟く。
「まったく」
「――学校に言わないのは新聞部のためではなくて、偽物の発行者が露呈してしまうからではありませんか」
「誰?」
驚き、跳ねた乙部の前に少女はゆっくりと歩み出た。
ブロンズの瞳が窓から入る月明かりを僅かに反射し、少女に妖精じみた雰囲気を纏わせる。しかし美しい顔の下は、もったいないくらいにごく平凡なセーラー服だ。
現代日本人らしくスマートフォンを『通話中』の表示のままバレないようにポケットに突っ込み、丁寧なお辞儀をする。
「こんばんは、乙部先生……オオエヤマ・リミです」
「オオエヤマ、さん? 新聞部の子?」
里巳は乙部が自分の存在に気が付かなかったことに安堵した。これで平常心を保つことができる。予定通り正面から向き合った。
「いいえ。ですが私は訳あって偽物のエックス新聞の発行者を探しています」
「じゃああなたも新聞部たちの子と同じで、掲示板を見張っていたのね。彼らも帰ったみたいだし、先生方も、私と鍵を閉める職員さんしか残ってない。今日はもう誰も現れないわよ」
「そうですよね。そういうタイミングじゃないと次の手は打てないですから……三者面談が終わって保護者がくることもなくなった。今日にでも宮路先生ではなく、美術部に……いいえ。大伴美羽に再び噂の矛先が向かうように仕向けるための『エックス新聞』を発行するつもりだったんじゃないですか」
里巳が意味深に言うと、乙部が怪訝な顔をする。作りものではない不機嫌さに更なる確信を得て、とうとう里巳は言った。
「乙部先生。あなたが一枚目のフェイクニュースの犯人ですね。そして二枚目の嘘に対抗するための三枚目を用意している犯人。そうですね?」
眼前の女の顔が驚きに満ち、そして露骨に不機嫌さを表した。しかし乙部は教師として生徒の間違いを正そうとする。
「いきなり、どうしたの。まさか今日、私が学校に残っているから犯人だって言いたいの? さすがにそれは先生も良い気がしないかな」
「そんな短絡的な思考で導き出した答えじゃありません。それに、私の推論は昨日の内に入院している宮路先生へ伝えました。先生は驚いていましたよ。まさか犯人に気づく生徒が居るなんて、と。そして観念して教えてくれました。階段から落ちたのではなく、突き落とされたことも」
宮路への接触には美術部である筧の存在が役に立った。大伴や芦間同様、関係者としてお見舞いに行き、里巳と錦野もそれに同行する形で病院を訪れたのだ。
そこで里巳は自身が考える全てを宮路に披露した。結果、全ての推測は真実として繋がった。
事実を突き止めたことで宮路は観念した。乙部と宮路は、大伴の今後を巡り度々口論となっていたこと。それこそが今回の事件の発端だった。
「あなたが宮路先生を学校にこれなくしてまで偽物のエックス新聞を発行した理由は、大伴美羽の作品をコンクールに応募させるため。そしてもっと言えば……大伴美羽の過去を世間に気づかせるため、ですね」
その推測に、乙部は深い溜息を吐きながら肩を沈ませた。
「凄いのね、オオエヤマさん。そんなことにまで気づくなんて」
目の前の先生が認めたところで里巳はきゅっと胸が締め付けられる。確証はあっても、本心はどこかで外れていること願っていた。
しかし認めてしまったからには彼女をバツ新聞の発行者であることを自供させなければならない。依然として錦野の立場は危うい。里巳は悪事を働いていない者が罪を被るなんて見過ごせない人間だからだ。
「まずあなたにたどり着いた時、正直言って私は信じられませんでした。あなたは多くの生徒から信頼されているし、相談事も熱心に聞いてくれる。だから私は、あなたの行動に『悪意のない可能性』を考えました」
「悪意のない可能性……」
「あなたは昔、デザイナー志望だったんですよね。そして大伴美羽も、ジャンルは違っても同じ絵の道に進もうとしていた生徒だった。だから応援しようと……いえ、今もしている。だって生徒の進む道を考えるのがあなたという先生だから」
今まで見てきた乙部の教師としての行動を信じたかった。その末にたどり着いたのは、大伴が画家として大成するためのプランだった。
「クリエイターには知名度が必要。つまりブランディング。もしも大伴美羽に教師との援交疑惑が上がれば、自ずと
「そうよ」
大伴が過去に性的虐待を受けていたという噂。芦間によって裏打ちされた事実であったが、多くの人間は仔細を知らない。しかし調べればこうも容易く見つかってしまう。
実際、学生の里巳たちでさえ彼女の過去にたどり着くことができた。大伴美羽が吹聴していなくても狭いコミュニティの中では軽い噂が立つくらい珍しくない。そして火の粉を浴びない限り、火のない所では火事にはならないものだ。
虐待を乗り越え、画家としての才能を開花させたうら若き女子高生――なんというサクセスストーリーだろうか。世間やメディアが食いつくには十分過ぎた。
「大伴さんは過去を乗り越えて、画家になりたいと私に相談してくれたわ。だけど良い絵が描けるだけの人はたくさん居る。評価される作品を創れることは前提で、現実として食べていくには注目を浴びなければ難しい。飛び抜けた才能が必要なの」
「あなたの言うその才能が、性的虐待の過去、ですか」
里巳は押し潰したような声で聞いた。乙部は見えない月を眺めるかのように恍惚な表情を浮かべ、記憶の中にある『美』を思い出す。
「大伴さんの応募予定だった作品、見せてもらったわ。とても……とても素晴らしい絵だった。人の手で描かれたとは思えないほど神秘的で、だけど人にしかわからない艶めかしさや穢れがある。あの絵だけで、見た人たちは彼女のことを知りたくなるわ。そして噂を聞き、真実を知った大人たちは気づくのよ。『ああ。大伴美羽には誰にも真似できない唯一の才能があるんだ』って」
「ふざけないで!」
怒りが溢れていた。錦野に向けた毒舌の数々なんてただのリンゴだったかのごとく、血の味がするくらい鋭く上擦った怒りだった。
「辛い過去が“才能”な訳がない。それを乗り越えた心は、その人だけのものなの。誰かに詮索されたり、ましてや才能だなんて言い換えられて良いものじゃない!」
「あなた、もしかして……天立、さん?」
里巳は口では答えを示さず、代わりに結い上げた髪を解いた。いつも通り目を隠すまで落ちてきた前髪を見て、乙部は腑に落ちたような表情をした。
「そっか。あなただったから、真実にたどり着けたのね」
その瞬間、乙部から半ば諦めたような呼吸が漏れた。
「ねえ、天立さん。考えてみて。あなたに進みたい道があったとして、もしそれが普通に大学へ進学するだけではどうにもならない道だったとしたら? あなたは夢と過去、どっちを選ぶ?」
問いかけられたのは実感の湧かない質問だった。幼い頃に誰かを持て囃す人間の恐ろしさを、もっと言えば手のひらを返す人間の薄情さを知っているから、里巳はアニメのプリンセスにだって憧れたことがない。
押し黙る生徒を見て、乙部は続けた。
「選ぶのは難しいわよね。だけど私にはその選択肢すらなかった。平穏な暮らしで手に入ったのは、芸術とは無縁の生活だけ。私は今でも夢を叶えられなかったことをずっと後悔している。辛い過去が無い代わりに、辛い未来が待っているだけなの」
「道のためなら心を捨てなきゃいけないんですか」
「傷ついて欲しい、なんて思っている訳ではないわ。ただ、必要なの」
二人は思想が平行線をたどることを察した。お互いに言葉が見つからないでいると、走ってくるような新しい足音が廊下に響いた。
足音の主は息を切らし、慌てた様子で走って来た。日本人女性の中ではやや大きめの体格。荒れ気味の長髪がさらにぼさぼさになるのも気にしないでスカートを揺らす。大伴は温和に見える顔を怪訝な面持ちに変えて、信じ難い光景をどうにか飲み込もうとしていた。
「……乙部先生」
「大伴さん……!?」
驚いたのは乙部だけでなく里巳もだった。なぜなら彼女が学校に残っている理由は、彼女は真実を知る立場にあると判断し、錦野との通話越しに話を聞かせるためだけだったからである。詰まるところ、本来は『開かずの間』で待機しているはずだったのだ。
動揺する後輩を落ち着かせるために、大伴は下手くそに微笑みかける。
「ごめんね、オオエヤマさん……じゃなくて、天立さん。約束だったのに」
「……いいえ、構いません。あなたも言いたいことがたくさんあるでしょうから」
里巳と大伴は互いに頷いた。そして今回の事件において最も根深く巻き込まれる結果となった少女が犯人と向き合う。
「乙部先生。私は確かに画家になりたいです。だけど過去に注目された結果なんて嫌です。私は、ちゃんと私の絵を評価して欲しいんです。宮路先生や、乙部先生が認めてくれたように」
「……世の中は綺麗事じゃどうにもならないのよ。芸術は、知名度も含めて芸術なの。誰にも知られない作品になんて、何の価値もない。私がそうだったように」
「私は画家になります。自分自身の作品の力だけで。絶対に」
言い切る若者の希望に満ちた表情に、乙部はかつての自分の面影を見ていた。大伴をとても哀れにも思ったし、絵の中に居た女性のような美しさも感じた。あまりにも綺麗なものに心打たれた時、人は言葉を紡ぐことを忘れるのだ。
「乙部先生。宮路先生にしたことを償ってください。そうしなければ彼は教師を続けられなくなる。大伴先輩には、守ってくれる頼れる大人が必要なはずです」
「頼れる大人……そうね。それが大伴さんの選ぶ道なら、私は邪魔者になってしまうものね」
「念のため言っておきますが、この会話はちゃんと録音していますし、別の協力者たちもリアルタイムで聞いています。逃げ場はありませんよ」
里巳は警告としてスマートフォンを取り出し、通話画面を見せた。乙部は大人がよく使う苦笑いをする。
「今更そんなことしないわ。もう少し人を信じてくれても良いのよ、天立さん」
土台、無理な話だと里巳は思った。今日で人を信頼することの脆さを改めて痛感した。否、乙部が『里巳だけの教師』だったなら、どこまでも信じることができただろう。「ずるい」という言葉は誰にも聞こえない喉の奥だけで響いた。
「……大伴さん。陰ながら応援しているわ」
正面から向き合うも、二人の視線は交わらなかった。大伴は大きな体を丸めるようにお辞儀する。お役御免であることを自覚した教師は、罪を償うために立ち去ろうとした。
そのすれ違いざま、里巳はカーディガンの背に聞いた。
「もし私が女優になりたいと言ったら、私の生い立ちを世間に公表しましたか?」
「ええ。当然よ」
迷いのない返答を聞いて、やはり彼女に悪意はないことを悟る。ただそこには大伴美羽の夢を応援する乙部という教師が居た。
鼻を突くような寒さが里巳の目頭を熱くさせていた。
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