〈4〉後宮の最下位妃、花の名を知る


 ♢♢♢


梠玖成リョクセイ、入ってもいいかしら」


 控えめな女性の声が外から聞こえ、梠玖成が「どうぞ」と返すと、飾り気のない灰緑色の袍服を着た女性が現れた。


「洙仙様に言われて来たわ」


 梠玖成に微笑みかけるその顔立ちは幼顔で可愛らしさがあった。


「忙しいのにすまないね」


「それはお互い様でしょ」


 女性は苺凛の前に進み出ると頭を下げて言った。


「洙仙様からお世話をするようにと仰せつかりました。春霞シュンカと申します」


「春霞は私の妻です。どうぞよろしくお願いします」


 隣りで同じように頭を下げた梠玖成に、春霞は呆れ顔で言った。


「梠玖成ったら。それは私の台詞よ。ほら、ここは私に任せて。仕事に戻ってちょうだい」


「ああ、うん。そうだね。じゃあ春霞、頼んだよ」


 梠玖成は苺凛に頭を下げると部屋を出て行った。



「お妃様、まずは何か召し上がってください。洙仙様が食事の手配をしておくからと仰ってました。きっともうすぐこの宮殿に運ばれてきますよ」


「いりません、食べたくないです。それから、私はもうお妃でないから。呼び方は名前で。苺凛です」


「はい……。でも苺凛様、食べず飲まずで何日も眠っていたんですから。少しずつでもいいから召し上がってください。その前にお召し替えもしましょうか。衣装部屋を教えてください、用意しておきます」



 苺凛は首を振った。


「自分で着替えられるわ。言ったでしょ、私はもう着替えを手伝ってもらうような身分じゃないから」


 苺凛の返答に、春霞は僅かに戸惑いの表情を浮かべつつも頷きながら言った。



「わかりました。でも御髪くらいは整えさせてください。かなり乱れてますし、お花が咲いていては梳かしにくいでしょう?」



 春霞は苺凛に微笑みかけた。


 人懐こく嫌味のない雰囲気は梠玖成と通じるものがある。


 似たもの夫婦、という言葉が浮かんだ。



「……わかったわ、お願いします。でも驚かないのね、あなた。この花を見ても。なぜなの?」


「御髪を整えながらお話ししましょう。苺凛様の着替えが済んだら声をかけてください」


 春霞は部屋を出て行った。


 寝室は衣服の置いてある部屋と繋がっている。


 苺凛は仕方なく移動して着替えをはじめた。


 本当はどこかへ逃げてしまいたい。でも行くあてなどない身だ。


 こんな奇怪な姿ではあの男の言う通り、見せ物小屋行きだろう。


 貧相だとか不細工だとか。ひどい言われ様だったけど。


 この花のことが知りたい。


 自分の身体に何が起きたのかも。


 苺凛は身支度を整えると春霞を呼んだ。



 ♢♢♢



「苺凛様は『甘露』の言い伝えをご存知ですか?


 鏡台の前に座った苺凛の髪を優しく梳かしながら春霞が尋ねた。



「かんろ?」


「天地陰陽の気が調和するときに天から降るという霊液です。甘露は万病の薬、不老不死の霊薬と伝えられています。そしてその甘露が降りそそいだ後、地上に花が咲いたという言い伝えがあるんです。花の名は霊仙花。苺凛様に咲いた花の名前ですよ」


(この花が⁉)


 「れいせんか……」


 父親が最後まで母に告げることのなかった花の名前を知り、苺凛は驚きながらその名を呟いた。



 春霞は話を続けた。


「大昔、龍が支配する仙郷という地に甘露が降り、花が咲いたそうです。

 花には霊力があり仙郷の王だった龍はその花に霊仙花と名付け、護るようになりました。

 ある日、その仙郷に龍への生贄として人間の娘が捧げられたそうです。娘は怪我を負っていたのですが龍が与えた霊仙花で治り、霊力を授かったそうです。

 娘と龍王はやがて惹かれあい愛し合い、娘は龍王との間にできた子を産みました。その子供は立派に育ち、争いの絶えなかった大地を数多く治めていったそうです。

 釆雅国もその一つだという伝えがあり、王家の祖先が龍王の血を引いていたとも言われていますが、何百年もの間には幾度もいくさの歴史があり、龍王の血脈は薄れていったそうです。でも采雅国の現王は龍王家の血筋に執着していて……。

 遠い東の国に龍王の血筋を濃く継ぐ一族が存在していることを知った王は、その眷族から一人の姫を後宮に迎えたのです。それが洙仙さまの御母上、玲珠レイジュ様でした。玲珠様も霊仙花を咲かせる霊力があったそうです」


「頭に咲かせていたというの?」


「そういうときもあったようです」


「ずいぶん詳しいようだけど、あなたも釆雅国でこれと同じ花を見たの?」


 春霞は「いいえ」と言って少し悲しげな顔になった。


「私は釆雅国の宮女でしたが後宮のある内廷ではなく外廷で働いていたので。話は姉から聞いていました。姉は後宮の宮女で玲珠さまの宮殿で働いていたんです。花はときどき身体に咲かせているときもあったようですが、玲珠様は霊仙花を宮殿の庭でも栽培していたそうです」


 ───花を育てていた⁉


 苺凛はとても驚いた。


 父親が何度試みても土から咲かなかった花が釆雅国で咲いていたというのだ。


 しかも後宮で。


「玲珠妃の宮殿では美しくて芳しい霊仙花が数多く咲いていて、花の香りは後宮の外にまで漂っていましたから。それだけは私も覚えています。苺凛様の花と同じでとても良い香りでした」


「たくさん咲いていたということは種がとれたのよね?」


 どうやって咲かせたのだろう。


 春霞は首を振った。


「そこまでは私も判らなくて。霊仙花の管理は玲珠様が秘密裏に行っていたようで。栽培方法は侍女も女官たちも、もちろん姉も知らなかったようです。───さぁ、御髪が整いましたよ」



 丁寧に結われた髪と同様に、霊仙花にも艶が増していた。


「霊仙花が綺麗に咲いているので髪飾りは必要ありませんね。花についてもっと詳しいお話は今宵、洙仙様からお聞きになってくださいませ」



「え……あの、今宵って?」


「今夜、改めてこの宮殿を訪ねるからと。苺凛様にそう伝えて準備もするようにと言われました」


「準備……って?」


「そうですね、湯浴みの準備でしょうか」


「まさかここに泊まるなんてことないわよね?」


「それは洙仙様がお決めになること。私たちはそれに従うだけです」


 春霞の言う「私たち」の中には自分も含まれているのだろうかと一瞬思ったが。


 戦に敗れた国で生き残ってしまった妃など虜囚も同然。


 意見など言える身分ではなかった。



 ♢♢♢


 昼食をほんの少し食べてから、苺凛は何もすることがなかった。


 春霞は宮殿内の掃除に集中していた。


 考えることはたくさんあったが、気持ちが憂鬱になるばかりなので苺凛は考えることをやめた。


 ぼんやりと窓の外を眺めていると、ときどき木陰の向こうで忙しそうに動く者たちの姿が見えた。


 その姿は兵士のほかに春霞と同じ色の衣服を着た宮女と思われる娘たちもいた。


 何をしていたのか不思議に思い夕食の席で春霞に聞いてみると、宮殿に残された備品整理に追われているのだという。


 後宮の宮殿内には豪華な調度品や宝物がたくさん残され、それらは貴重な資金源になるのだと春霞は言った。


「戦はお金がかかります。働く臣下たちへの褒美も必要です。洙仙様は後宮に限らず、王城内においても生活に必要最低限のものだけあればいいというお考えなのです。洙仙様は贅沢を好まない性格ですから」


 確かに、昼食も夕食も豪華ではなかったが、優しい味の料理は美味しかった。


 献立は消化の良いものが多く、長く眠っていた苺凛の身体のことを考えて調理されていた。


「あなたもそうだけど、釆雅国から来た宮女が大勢いるのね。まだ戦が終わったばかりなのに」


「宮女だけではありません。兵士はもちろん、官吏も女官も采雅国の民も、ここへ集まっています。



「えっ。采雅の民が?どういうことなの?」



「皆、洙仙様と行動を共にすることを志願して一緒に来た者たちが多いんですよ」



「わざわざ戦場まで同行して来たというの⁉……なぜ?」



「それは洙仙様が私たちの王に相応しい方だと思ったからです」



「相応しい?冷酷無比だと聞いてるわ」



 それなのに皆、あの男を慕っているというのだろうか。



「宗葵国の王家も皆殺しにしたくせに」



「いいえ、それは違います」



 春霞は首を振って否定した。



「あの国で残虐行為を行ったのは采雅国の第一王子でもある羅苑ラエン様です。洙仙様とは異母兄弟になりますが、狡猾者で昔から洙仙様の評判が悪くなることを望んでいる方です。そのせいで間違った噂ばかりが広まって……。洙仙さまは冷たく見えますけど心根はお優しい方ですよ。ちょっとだけ我が儘なところはありますけどね」


 こう言って春霞は微笑んだ。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る