春秋

 ある僧が、ある時、悟本大師と呼ばれる三十八祖の洞山良价に、「寒さや暑さが到来したら、どうしたら回避できますか?」と質問した。

 洞山良价は、「なぜ『寒さや暑さが無い所』へ行かないのか?」と言った。

 ある僧は、「『寒さや暑さが無い所』とは、どういった物でしょうか?」と言った。

 洞山良价は、「寒い時は、あなたを寒くさせるし、熱い時は、あなたを熱くさせる」と言った。



 この洞山良价の話をかつて多くの人が推測して来ている。

 今の多くの人も鍛錬するべきである。


 この洞山良价の話に、仏祖は必ず参入して来ている。

 この洞山良价の話に、参入して来ている者は仏祖なのである。


 西のインドから東の地の中国までの古今の仏祖の多くが、この洞山良价の話を形成されて現される「面目」、「有様ありよう」としている。

 この洞山良价の話の「面目」、「有様ありよう」が形成されて現されるのが、仏祖の「公案」、「修行者の手がかりとしての言動」なのである。



 ある僧の質問の「寒さや暑さが到来したら、どうしたら回避できますか?」に参入して詳しくるべきである。

 「寒さが到来した」時、「熱さが到来した」時に参入して詳しく看るのである。

 「寒さや暑さ」は、「寒さ」をふるって、「暑さ」をふるって、共に、「寒さや暑さ」自体による有様ありようなのである。

 「寒さや暑さ」自体による有様ありようなので、到来した時は、「寒さや暑さ」自体による有様ありようの「頭」から到来するのであるし、「寒さや暑さ」自体による有様ありようの「眼睛」、「見る眼」から目の前に現れるのである。

 「寒さや暑さ」自体による有様ありようの「頭」の上は、「寒さや暑さが無い所」なのである。

 「寒さや暑さ」自体による有様ありようの「眼睛」、「見る眼」の中は、「寒さや暑さが無い所」なのである。


 洞山良价の言葉の「寒い時は、あなたを寒くさせるし、熱い時は、あなたを熱くさせる」とは、「寒さや暑さが無い所」へ到達した時の有様ありようなのである。

 たとえ「寒い時」は「寒くさせる」と言っていても、「熱い時」は必ずしも「熱くさせる」道理ではない。

 「『寒さ』は『へた』まで徹して『寒い』」のであるし、「『熱さ』は『へた』まで徹して『熱い』」のである。(「甘い瓜は『へた』まで徹して甘い」という言葉が有る。)

 たとえ万、億の無数の回避に参入し得てもなお「頭と尾を換える」だけなのである。

 「寒さ」は、代々の祖師達の「活眼睛」、「活きている、見る眼」なのである。

 「暑さ」は、亡き師の「暖皮肉」、「暖かい生身」なのである。



 枯木禅師と呼ばれる浄因の法成は、四十五祖の芙蓉道楷の仏法をいだ。


 浄因の法成は、「人々の中の、ある人は、誤って推測して『ある僧の(、寒さや暑さが到来したら、どうしたら回避できますか? という)質問は既にかたよりにおちいっていた。

洞山良价の(、なぜ寒さや暑さが無い所へ行かないのか? という)答えは(、ある僧を)正しい位置に帰したのである。

ある僧は言葉の中の音(、調子)を知って逆に正しさに入って来た。

洞山良价は逆にかたよりに従ってったのである』と言ってしまっている。

このように誤って推測してしまう事は、洞山良价という先人の聖者を冒涜してしまうだけではなく、自己を屈折させてしまい沈ませてしまう。

言っている事を見ていないのか?

人々の解釈を聞くと、心中で脚色してしまっている。

目先では美しく見えても、長く積んでいると病と成ってしまう。

遍歴して修行している気高い人は、この事を究めたいならば、まず仏祖の『正法眼蔵』、『正しくものを見る眼』を理解して取るべきである。

その他の仏祖の言葉による教えは、熱い物を御椀おわんに注ぐと音が鳴るような物である。

けれども、あえて皆に質問する。

最終的に、『寒さや暑さが無い所』とは、どういった物であろうか?

理解できましたか?

宝玉で飾られた美しい建物にカワセミが巣くう。

黄金で飾られた美しい建物にオシドリの夫婦が巣くう」と言った。



 浄因の法成は、洞山良价の法の遠い子孫である。

 浄因の法成は、祖師達の中の英雄である。

 浄因の法成は、多くの人々が誤って、かたよっている、正しい、という巣窟にいて洞山良价を礼拝しようとする事を明らかに戒めているのである。

 もし仏法が、かたよっている、正しい、という誤りにとらわれて伝えられてしまえば、どうして今日にまで至るであろうか? いいえ!

 野良猫のような人や田舎者は未だ洞山良价の奥義に参入して究めていない。

 かつて仏法の道の敷居しきいを旅していない輩は、誤って「洞山良价には、偏っている、正しい、などの『五位』が有って人を接する」と言ってしまう。これは、でたらめな説であり、見聞きするべきではない。

 ただ、正に、仏祖の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」が有る事に参入して究めるべきである。



 慶元府の天童山の、宏智正覚は、丹霞子淳の仏法をいだ。


 宏智正覚は、「もし、この事を論じるならば、二人でを打つような物なのである。

あなたは私が打った手に応じない。

私は、あなたをだまして行く。

もし、このように体得すれば、初めて、洞山良价の意図が理解できる。

私、宏智正覚は、この脚注を下すのを免れる事ができなかった。

眼以外を袈裟で覆って、ると、寒さや暑さは無い。

即座に、青く広大な海がしたたって乾けば、私は『巨大な海亀を下を見てひろう事ができる』と言うであろうし、君が砂際で竿ざおろうしているのを笑うであろう」と言った。



 「を打つ」事は無いわけではないが、「二人でを打つ」とは、どういった事であろうか?

 もし「二人でを打っている」と言うならば、「傍目八目おかめはちもく」、「外から見ている傍観者が、打っている当事者達よりも、八手先まで先読みしやすい」であろう。

 もし「傍目八目おかめはちもく」、「外から見ている傍観者が、打っている当事者達よりも、八手先まで先読みしやすい」のであれば、「(二人で)を打っている」とは言えないのである。

 どうであろうか?

 言ってみれば、「(自分)一人でを打っていて、(自分という)好敵手に出会うのである」と言う事ができる。


 けれども、宏智正覚の「あなたは私が打った手に応じない」という言葉を心に留めて鍛錬するべきであるし、身をめぐらせて参入して究めるべきである。

 「あなたは私が打った手に応じない」とは、「あなたは私ではないと言える」と言っているのである。


 「私は、あなたをだまして行く」という言葉も見過ごす事なかれ。

 泥の中に泥が有るのである。泥を踏んだ者は足を洗い、また、「纓」、「かんむりひも」を洗う。

 宝玉の中に宝玉が有るのである。光明を放つと、人を照らし、自分を照らすのである。



 夾山の圜悟克勤は、五祖山の法演禅師の仏法をいだ。


 圜悟克勤は、「『碁盤ごばん』が『珠』、『碁石ごいし』を走るし、

『珠』、『碁石ごいし』が『碁盤ごばん』を走る。

(洞山良价の『五位』の、)『偏中正』、『かたよりの中の正しさ』であるし、

『正中偏』、『正しさの中のかたより』である。

カモシカは角を掛けて、跡が無い。

猟犬は林を巡って、むなしく踏み歩く」と言った。

 (角を木の枝に掛けて足を浮かせて眠るカモシカがいる、と言われている。)



 「『碁盤ごばん』が『珠』、『碁石ごいし』を走る」という言葉は、空前絶後なのであるし、古今でも聞く事はまれなのである。

 古くから、ただ「『碁盤ごばん』を走る『珠』、『碁石ごいし』は一か所に留まる事が無いような物である」とだけ言っていた。

 「カモシカは角を空に掛けている」(と言うような物である)。

 「林は猟犬を巡る」(と言うような物である)。



 慶元府の雪竇山の資聖寺の、明覚大師と呼ばれる雪竇重顕は、北塔の智門光祚の仏法をいだ。


 雪竇重顕は、「『垂手』、『両手を下にらす事』、『何もしない事』もまた万仭の高さの崖と同じである。

正しい、かたよっている、を必ずしも手配する事は無い!

瑠璃の古い宮殿は清く澄んでいる満月を照らす。

足音を忍ばせる俊足の『韓獹』、『名犬』は空しく階段を上る」と言った。

 (「韓獹」は、春秋戦国時代の中国の韓の国の名犬の名前であり、「名犬」の代名詞と成った。)



 雪竇重顕は、雲門文偃の法の子孫である。

 雪竇重顕は、仏法を十分に会得している皮袋である人と言える。

 雪竇重顕は、「『垂手』、『両手を下にらす事』、『何もしない事』もまた万仭の高さの崖と同じである」と言って、極めてまれな、目標にするべき高い品格を現したが、(洞山良价の話は、)必ずしも、そうではないのである。

 ある僧が質問して洞山良价が示した話は、必ずしも、「垂手」、「何もしない事」や「不垂手」、「何かする事」ではないし、この世に出現する事や、この世に出現しない事ではない。

 まして、「正しい」や「かたよっている」という言葉を用いない!

 「正しい」や「かたよっている」を「見る眼」を用いなければ、洞山良价の話に手を下す場所が無いような物である。

 「参請」、「参禅請益」、「仏祖の所へ行って重ねて教えを請う」、「巴鼻」、「とらえ所」が無いようでは、洞山良价の辺りの域にまで至る事ができない。仏法の大家を「見ていない」、「理解していない」事による物である。

 さらに、履物をひねって来て「参請」、「参禅請益」、「仏祖の所へ行って重ねて教えを請う」べきである。

 みだりに誤って「洞山良价の仏法は、正しい、かたよっている、などの『五位』なのである」と言ってしまう事をやめなさい。



 東京トンキンの天寧寺の長霊守卓は、「かたよりの中に正しさが有るし、

正しさの中にかたよりが有る。

千百年、人の間に流れ落ちている。

幾度か帰ろうと欲して、未だ帰る事ができ得ていない。

門前は依然として古いままで草が茂っている」と言った。



 長霊守卓も強引に「かたよっている」や「正しい」と言っているが、ひねって来ている。

 ひねって来ている事が無いわけではないが、「かたよりの中に正しさが有る」とは、どういった物であろうか?



 潭州の大潙山の仏性法泰は、圜悟克勤の仏法をいだ。


 仏性法泰は、「『寒さや暑さが無い所』は君のために道が通じている。

枯木にまた華が一重咲きに咲く。

船に印を刻んで剣を探し求めるのは笑いをこらえる。

今に至ってもなお、火が消えて冷えた灰の中に在る」と言った。



 この言葉には少し「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」をいただく力量が有る。



 泐潭の湛堂文準は、「寒い時は寒くさせるし、

熱い時は熱くさせる。

寒さや暑さの由来は全て無関係である。

天空の果てを行き尽くして、世俗の事を暗記する。

老君は頭にイノシシの皮の冠をいただく」と言った。



 質問するべきである。

「奥底まで(寒さや暑さの由来は全て)無関係である道理とは、どういった事であるのか? すみやかに言いなさい。すみやかに言いなさい」



 湖州の仏燈禅師と呼ばれる何山守珣は、仏鑑禅師と呼ばれる太平慧懃の仏法をいだ。


 何山守珣は、「『寒さや暑さが無い所』とは洞山良价の言葉である。

多少の禅の人々が所々で迷っている。

寒い時は火にあたるし、

熱い時は冷たい物をつける。

一生、寒さや暑さを回避して免れる事ができ得てきた」と言った。



 何山守珣は、五祖山の法演禅師の法の子孫であるが、幼子が言っているような事を言っている。

 けれども、「一生、寒さや暑さを回避して免れる事ができ得てきた」という言葉は、後に老成する、大成する風格が有る。

 「一生」とは「生のことごとく」なのである。

 「寒さや暑さを回避する」とは「(古い)身心を脱ぎ落とす事」なのである。



 諸方の諸々の世代の僧達は、このように、上下の両唇を打ち鳴らす事をもっぱらにして、古代の「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」の詩による説明を供給して通達しているが、洞山良价の辺りの事が未だ「見えていない」、「理解できていない」。

 仏祖の日常では、寒さや暑さが、どういった物であるか知らないので、いたずらに無駄に、「寒い時は火にあたるし、熱い時は冷たい物をつける」などと言ってしまう。

 特に、憐れむべきである。

 あなた達は、高徳の長老の僧の近くにいて、何を「寒さや暑さ」と言うと聞いて理解して取ってきたのか?

 祖師の仏道がすたれている事を悲しむべきである。


 「寒さや暑さ」の有様ありようを知り、「寒い時や熱い時」を経歴し、「寒さや暑さ」を使い得るように成って来てから、さらに、洞山良价が人々のために示した言葉を詩で説明するべきであるし、ひねるべきである。

 未だ、そうではない者は、非を知るに越した事は無いだろう。


 俗人ですらなお月日を知っているし万物を保持し任せられているが、聖者や賢者では色々な違いが有るし、聖者や賢者と愚者では色々な違いが有る。

 仏道の「寒さや暑さ」を「愚者の寒さや暑さと同じであろう」と誤解する事なかれ。

 すぐにじきに、当然に必然的に、学ぶ事に勤めるべきである。



 正法眼蔵 春秋


 その時、千二百四十四年、越宇の山奥にいて再び僧達に示した。



 仏事に出会って「仏麟経」を転じた。

 祖師は「衆角雖多一麟足矣」、「角を持つ動物は多いが、唯一の麒麟キリンで足りる」と言った。

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