8-4 渡邊円香について
結局、円香がその顔合わせに間に合うことはなかった。
今回の顔合わせで責任を握る奥平も目立った動きをすることはなく、なんの問題もなく挨拶は完了した。
本社ビルの前で合流した奥平は随分と不機嫌そうな態度だった(理由は大方想像できる)が、いざ先方の上役と顔を合わせると、さすがは営業部の部長という笑顔を浮かべて挨拶をしていた。
契約がここまでまとまった以上、奥平はもう部長として当たり前の責務を果たすことしかできなかった。
「ちっ、まさかこの俺がいいように使われるなんてな」
奥平の舌打ちは、東京開発不動産のオフィスビルを出るとほとんど同時だった。
「いいじゃないですか。契約が取れれば、部長の評価にもつながるんですから」
「バカか。全部『さすが渡邊だ』で終わりだよ」
奥平はそう吐き捨てる。きっと奥平にもそんな時代があったはずだったことを思うと、智章はなんだか彼を憎めなかった。
「にしても、お前ってそんな生意気なタイプだったんだな。もっと冴えないタイプかと思ってたんだが、俺もちょっと眼力が落ちたかな」
「いえ、たぶん間違ってないです。今だけちょっと、やる気を出してみたくなったんです」
今も別に仕事にやる気があるわけでもない。ましてや、仕事で誰かに勝ちたいなんて少しも思わない。
どうしてだろう。今はただ邪魔するものを壊したかった。
道を塞ぐものを全部壊したら、きっとあのゲームが完成できるんじゃないかと、そんな気がしていた。
「俺の負けだ。完全にキャスティングをミスったよ」
ずっと疑問だった。どうして奥平がこの大事な案件の担当に冴えない自分を選んだのか。優秀な円香とのバランス調整かと考えたこともあったが、そうではない。
「部長は、私が相方になれば、渡邉さんもきっと失注すると思ったんですよね?」
円香の足を引っ張る役割を期待して、奥平はセールスエンジニアのシマから、いかにも冴えなそうな男を引き抜いたのだ。
そう考えれば、すべての行動に辻褄がつく。
「さあな。好きに解釈しろ」
奥平はそれに、否定も肯定もしなかった。
「俺は一服して行くから、渡邊と先戻ってろ」
吐き捨てるようにそう言うと、奥平はどこか駅とは違う方向へ歩き出した。きっと、タバコが吸える場所でも探すんだろう。
智章は奥平を見送ってから駅に向かおうとすると、前から見慣れた姿が走ってくるのが見えた。
「甲斐くん」
走ってきたのは円香だった。
「ごめんなさい。思って以上に時間がかかっちゃって……」
「それはいいけど、おばあさんは大丈夫だった?」
「うん。腰を痛めて動けなくなっちゃってただけみたい」
ひとまず、その報告が聞けてホッとした。大丈夫だとは思っていたが、奥平の挨拶に同席しながらも、ずっとそのことが気がかりではあった。
合流して、2人で駅に向かいながら話を続ける。
「けど、そこからが大変だったっていうか……。救急車が来てすぐに帰ろうとしたんだけど、どうしてもお礼がしたいって言われて、結局病院までついて行くことになっちゃって」
本当に申し訳なさそうにする円香を見て、つい笑みがもれる。
「なんだか、すごく充実してそうだね」
「なんでこの話でそんな感想になるの? どうやって抜け出そうか、すごく真剣に悩んでたんだから」
「ごめんごめん」
こんなやり取りをしていても、ずいぶんと円香が柔らかくなっていることを実感していた。お互いに出会った頃の感覚を取り戻してきたのかと思っていたが、やっぱり今の円香は入社当時の頃とも違っている。
「けど、少し意外だったかも。渡邊さんがあんな一生懸命になるなんて」
「それは一生懸命にもなるよ。あの時は、もしかしたら命に関わるかもって思ってたし」
本当にそうだろうか、と思った。
仮にあのお婆さんが道に迷っているだけだったとしても、渡邊さんは真っ直ぐに助けに行ったんじゃないか?
「そうだね。けど、今の渡邊さんはすごくいい顔をしてるよ」
「え?」
契約が決まって、周りの期待に応えられたのに嬉しくないと円香は言っていた。今の円香は、その時とは比較にならないくらいに晴れ晴れとした顔をしていた。
「渡邊さんにはさ、もしかしたらこっちの方が合ってるんじゃない?」
半分は思いつきだ。だけど、もう半分は真剣だった。
円香にもそれは伝わっていたはずだった。
「やめてよ。私は別に……」
その声は歯切れが悪く、円香はふと足を止めた。気づいた智章も足を止めて振り返る。
「甲斐くんは、本当にそう思う?」
「そんなこと、適当で言ったりしないよ」
「そっか」
円香はつぶやくように言って、再び駅に向かって歩き始める。智章は一歩遅れて後を追った。
一度そこで会話は途切れて、しばらくの間無言で駅を目指した。
(渡邊さんと仕事をするのも、またしばらく先になるのかな)
一度受注が決まれば、基本的に技術チームに仕事を引き継ぐことになる。そうなれば、円香とともに仕事をする機会も一気に減るはずだった。
「なんだか、会社に戻るの面倒くさいね」
ぽつり、と円香が言った。
「渡邊さんがそんなこと言うんだ」
「私だって、たまには不真面目なことくらい言うよ」
時間はまだ15時過ぎで、直帰をするにはまだ随分と早い。ただ、一度会社に戻って仕事をするにも、ずいぶん半端な時間だった。
「ねえ。せっかく無事に決まったし、打ち上げじゃないけど、ご飯でも行かない?」
「いいね。けど、さすがに今じゃないでしょ?」
冗談めかしながら、念の為の確認をする。円香も苦笑して返す。
「さっきまで部長も一緒だったのに、そこまでの勇気はないよ」
「だよね。いつでもいいよ、基本暇だし」
「じゃあ、急だけど今日の夜はどう? せっかくの金曜だし」
少し考えてから、あ、と思った。
「ごめん、今日はダメだ」
基本は暇だと言ってしまったばかりだが、今日に限ってはそうもいかない。
(俺にはまだ、やらないといけないことがある)
残されたノインの命はあと一機。後がなくなった今、今夜のうちに出来るだけの準備を進めなければいけなかった。
円香は「そうだよね」と少し寂しそうに言った。
「ごめん、ちょっと急すぎたよね」
「俺の方がごめん。ちょっと今週は」
きっと、今週のうちにはすべてのケリがつく。
あのゲームの世界のことも、詩月のことも、そして、蒼汰との関係にも。必ずケリをつけないといけない。
「ひょっとして、最近忙しくしてるのと同じ理由だったりするの?」
遠慮がちに円香が訊いた。智章はそれに、「うん」と返す。
「そろそろ、全部終わるはずなんだ」
(終わらせないと。今夜の転生で全部)
「甲斐くんらしいね。やっぱり、私がおかしくなったのは甲斐くんのせいだよ」
円香はどうしてもその結論に持って行きたいらしい。智章は「なんでだよ」と笑ったが、円香はそれ以上理由を語ることはしなかった。
しばらくしてJR側の飯田橋駅まで着くと、それからは電車で会社の最寄り駅まで向かう。その道中、円香とはほとんど仕事の話はしないで、何気ない会話で盛り上がった。
まるで入社してすぐの頃の関係のように。
(もっと早く、渡邊さんと一緒に仕事ができてたらよかったな)
会社に戻った智章は、契約の受注を同僚たちから祝福されたりしながら、定時になるまで適当にやり過ごした。
仕事の山を越えた今、頭の中にあるのは別のことだ。
もう少し蒼汰と話をしたい。朝、別れた後にLINEを送っていたが返事はまだ来ていない。
(無視されてるのかな。忙しい時だって、いつもはマメに返してくれるのに)
帰り道、電車に乗りながら確認をしてみても、既読がついた形跡もない。
単純に忙しいだけだという可能性も否定しきれないが、無視をされているのだという直感があった。
(とりあえず、プロットを固めないと……)
蒼汰のことも気になるが、どうやってストーリーを完成させるかを考えなければいけない。残機はたった1つ。もう失敗は許されない。現実のゲームなら、一気に緊張感が高まるような状況だ。
家に着いた智章は、今日もパソコンと向かって考える。
適当なプロットを書いて、多少強引な展開になってでも物語を完結させることはできる。けれど、おそらくそれはアノマリアが赦さなければ、何より智章自身がそんなストーリーを書きたくはなかった。
ジンの裏切り、国王の真実、そしてノインの6度目の死。こんな状況で、果たしてどうやってハッピーエンドに持っていけばいいのだろうか。
パソコンの前に座ったまま、ただ時間だけが過ぎていく。何度も文字を打っては消して、ちっとも作業は前に進まない。
一瞬良いアイディアが浮かんだと思っても、その数分後にはすぐにそれを否定する感想が浮かんでくる。
(どうせ明日は休みなんだ。別に徹夜することになったって……)
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ時だった。
手元に置いたスマートフォンが震える。一瞬、蒼汰から連絡が来たのかと期待を持ちながら画面を見た。
だが、メッセージを送ってきたのは、意外な相手だった。
「え……?」
――突然ごめんなさい。今、蒼汰くんと一緒にいますか?
メッセージの送り主として表示されたのは、蒼汰の妻である由紀の名前だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます