3-3 休日出勤手伝います
「たぶんここっぽいな」
小さな声で蒼汰が言った。
エレベーターを降りると、目の前には1つの扉があって、その向こうにフロアが広がっている。フロアにつながるドアは開いていて、智章と蒼汰は同時にゆっくりと中を覗きこんだ。
まるでなにかの潜入捜査のようで、ドキドキと緊張で心臓が高鳴っている。
フロアにはいくつかの長机があって、その上には古そうなデスクトップPCが設置されている。やや狭いシンプルなそのオフィスに、探していた姿があった。
(やっぱりまだ黒髪なんだ)
一台のパソコンの前で、梨英が頭を抱えて座っている。就活に合わせて黒く染めた髪はそのままで、当然派手なピアスはどこにもない。メイクもナチュラルで、もはやバンドマン然としていたあの頃の面影はどこにもない。
そして、オフィスにはそんな梨英がいるだけで、他の職員の姿はどこにも見当たらなかった。
「ほら、やっぱりウソだ」
先陣を切って堂々とオフィスに入っていったのは蒼汰だ。梨英はそれに気づくと、ガタッと音を立てながら思い切り驚いた。
「え、はあ!? なんで来てんの!?」
「仕事、手伝おうと思って」
「は? あたし、智章に来なくていいって言ったんだけど!?」
梨英は抗議の視線を向けるが、蒼汰は動じる様子もない。
「つまり、助けに来てほしいってことだろ? 梨英が一方的に距離を取ろうとするのは、たいてい本気で困ってる時だからな」
梨英が来ないでいいと言っていると話した時、蒼汰はそれを一瞬で嘘だと見抜いた。梨英に内緒でビルの中まで入ってみると、蒼汰の読み通りだった。
「たしかに、人がいるってのはウソだけど、手伝ってもらわなくていいっていうのはホントだから」
思い出すのは、大学4年生の秋の暮れ頃のこと。ようやく智章も内定が決まって、いよいよ梨英の進路だけが決まらない状況になった時、梨英はパタリとゼミの集まりに顔を出さなくなった。
追い込まれた梨英が周りの人を遠ざける傾向にあるのは、同期の4人なら分かっていることだった。
やっぱりみんな変わっているようで、根っこの部分は変わっていないんだ。
「梨英が必要ないって思っても、俺たちが手伝いたいから手伝うんだよ」
智章が言うと、「そういうこと」と蒼汰も同調する。
ゲーム作りのこともあるけれど、まさか昔の仲間が困っているのに放っておけるわけもない。
梨英はやっと硬い表情を解いて、苦笑いを浮かべた。
「良かった。会う前は結構緊張してたんだけど、2人とも全然変わってないな」
梨英が笑って、この無機質なオフィスに漂う空気もほぐれたような気がした。髪型やメイクが変わっても、笑った表情は大学の頃から変わっていなかった。
「せっかく来てもらったからには、とことん働いてもらうから」
そうして、梨英の仕事の手伝いが始まった。
梨英から頼まれた仕事の内容は多岐にわたる。事務用品の整理やメーカーからの製品の確認、それから社内のお茶やコーヒー豆の在庫確認まで、とにかく細かな仕事が多かった。まるで、事務スタッフが行うような作業ばかりだ。
智章と蒼汰には知識のいらない単純作業が割り振られ、その間に梨英は手伝えない仕事をPCで進めている。
智章と蒼汰は主に、別のフロアでの作業になった。梨英のいる事務所は2階にあって、ひとつ上の3階はまるごと社長専用のフロアになっている。そして、そこの掃除をすることが2人のミッションだった。
「すげえな、一つの階がまるごと社長専用なんて」
蒼汰がハタキで棚を掃除しながら言った。
「一つのフロアが狭いとは言えすごいよね。なんていうか、いかにも楽器関係の会社の社長って感じ」
そのフロアに来て真っ先に目につくのは、まるで展示されているかのように並ぶ楽器の数々だ。ギター、ベース、ピアノ、フルート、バイオリン、などなど。名前の知らないような楽器も多数あって、まるでここが楽器店と錯覚しそうなほどだ。
それがフロアのほとんどを埋め尽くし、周りを囲むように音楽関係の書籍が詰まった棚が並んでいる。いわゆる社長室のような場所はこのフロアの奥にあって、さすがに入れないように扉が閉められている。
「この楽器、全部高いんだろうな。怖すぎて下手に触れねえよ」
「うん。梨英も床と棚だけでいいって言ってたし、何かあったら梨英の責任になっちゃうからね」
楽器の相場は分からないが、明らかに安くないことだけは分かる。智章や蒼汰が弁償しようとしても、それができるかすら怪しいくらいだ。
「けど、梨英はいつもこんなことさせられてんだよな。普通の部屋の掃除より、よっぽどストレス溜まるって」
この3階の清掃だけではない。今日ここに来て手伝っているのは、どれも雑務と呼べるものだった。それ以外にも当然本来の仕事があって、梨英は今それにも追われている。
せめてどちらかだけの仕事なら理解もできるのに。
「たぶん、梨英に全部押し付けられてるんだろうね」
蒼汰と2人で手伝いに来なければ、この仕事はすべて梨英が一人で終わらせていたのだろう。どんな社員構成なのかは知らないが、簡単に認められることではない。
やがて掃除を終わらせた2人が事務所のフロアに戻ると、ちょうどキリがよくなったのか、大きくノビをしている梨英が見えた。
「3階、すごかったね」
「あれね。全部社長の趣味なんだけどヤバイよね」
梨英は冷笑しながらそう言った。その表情からは、どこか諦めに似た感情が感じられた。
「けど、ありがと。ホントに助かったよ」
「全然。今日はまだなにかあるのか?」
蒼汰は袖をまくる素振りをして、やる気をアピールしている。梨英はもう一度「ありがと」と言った。
「もう一個大事な仕事があるんだけど、とりあえずは買い出しかな。営業用の手土産買うのも、あたしの役割なんだ」
これで終わりだと言う返答を期待していたのか、蒼汰は少し肩を落とした。
(けど、これを全部終わらせたら梨英は曲を書いてくれるのかな)
ふと、本来の目的をふと思い出して不安になる。
もし仮に曲をもらうことにつながらなかったとしても、手伝いをやめるつもりはない。今はただ、この手伝いを完遂することだけだった。
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