さよならアトランティア

玉子軍

第1話 オリュンポスの雷鳴

 雷鳴が轟いた。


 天空を引き裂くような轟音が、オリュンポス神殿を激しく震わせる。白亜の大理石でできた柱が軋み、床が波打つように揺れた。玉座に座る神々は、皆一様に緊張した面持ちで主神ゼウスの顔色を窺っていた。


 誰もが驚いていた。ゼウスがこれほどまでに怒るのは、千年に一度あるかないかだ。


「ポセイドン!」


 ゼウスの怒号が神殿中に響き渡る。ゼウスは玉座から立ち上がり、その巨体が動くたびに空気が震えた。無数の雷光が、まるで生きた蛇のようにゼウスの体に絡みつき、そして放たれる。


 白い髭を蓄えた威厳ある顔には、抑えきれない怒りが刻まれている。その視線の先には、三叉の矛を握りしめた海神ポセイドンがいた。青い髭、波のように流れる長い髪、深い海を思わせる瞳。ポセイドンの青白い顔には、恐怖と抵抗の両方が混ざり合っていた。


「アトランティア人め、神族の末裔でありながら、我ら神への祈りを忘れおって!」


 ゼウスは右手を前に突き出す。その手の平から青白い光が放たれ、空中に映像を結んだ。そこに映し出されたのは、大西洋の彼方に浮かぶ巨大な島――アトランティア。


 映像には壮麗な宮殿が映し出される。黄金の屋根、白亜の柱、宝石で飾られた壁。しかし、ゼウスが映し出したのはその美しさではなかった。アトランティアの軍船が近隣の島々を襲撃し、罪なき人々が故郷を追われ、神殿が破壊され、神像が倒される光景だった。


「見よ!これが貴様の末裔どもの所業だ!」


 映像の中で、アトランティアの大神官が高らかに宣言している。


『我らはポセイドン様の血を引く者。我らこそが真の支配者だ。この世界は我らのものである!』


 大神官の周囲にいる貴族たちも、同じように傲慢な笑みを浮かべている。彼らの手には魔法の光が踊っていた。水を操り、大地を揺らし、炎を生み出す力。それは確かに人間を超えた力だった。しかし、その力はポセイドンから授かったものだということを、彼らは忘れていた。


「傲慢にも程がある!」ゼウスは今にもつかみかからんばかりの恐ろしい形相で続ける。「もはや人間の範疇を超えた欲望を抱いている!」


 映像はアトランティアの内部を映し出す。巨大な宮殿には金銀財宝が山のように積まれ、貴族たちが贅沢な宴を開いていた。その光景は、まるで退廃の極みだった。


「それでもまだ足りぬと、さらなる領土拡大を企んでいる!このままでは、世界中が彼らの手に落ちるだろう」


 映像が消え、神殿に重い沈黙が落ちる。


 戦の女神アテナが口を開く。「ゼウスよ、確かにアトランティアの者たちは近年、その傲慢さを増しているとか」


「そうだ」ゼウスは頷く。「あやつらは神殿への供物を減らし、祭りを疎かにし始めている。それどころか、自分たちこそが神に等しいと考えるようになった」


 ゼウスは全ての神々を見渡す。「これは明らかな冒涜だ。我らがこれを見過ごせば、他の人間たちも同じ道を歩むだろう。秩序は崩壊し、世界は混沌に陥る」

ポセイドンが一歩前に出る。「ゼウスよ、確かに彼らは傲慢になった。それは認めます。しかし――」


「しかし、だと?お前は甘すぎるのだ、ポセイドン。貴様が甘やかすから、あの者どもは増長したのだ!」


 ポセイドンは歯噛みする。千年以上前、彼は人間の王女クレイトーと恋に落ちた。ポセイドンとクレイトーの間に生まれた五組の双子、十人の息子たち。彼らに魔法の力を授け、豊かな島を与えた。それがアトランティアの始まりだった。


 最初は善良だった。しかし時が経つにつれ、彼らは変わっていった。力は腐敗を生み、繁栄は傲慢を生んだ。世代を重ねるごとに、神への畏敬は薄れていった。

ポセイドンは、その変化に気づいていた。しかし止められなかった。彼らは自分の血を引く者たちだったからだ。


 ゼウスは玉座に深く腰を下ろし、冷酷な宣告を下す。


「アトランティアを海底に沈めよ。全ての建造物を破壊し、全ての住民を海の藻屑と化せ。それが私の裁きだ」


 神殿にいた全ての神々が息を呑む。「そして――この裁きを執行するのは、お前だ、ポセイドン」

ポセイドンの顔が蒼白になる。「私に…自分の末裔を殺せと?」


「そうだ。お前が甘やかした結果だ。お前が始末をつけろ」


「ゼウス!」ポセイドンが叫ぶ。その声には絶望が滲んでいた。「どうか慈悲を!彼らは私の血を引く者たち。善良な者たちも大勢いる。辺境の村々では、まだ神々を敬っている者たちがいます。彼らまで殺すのは、あまりにも――」


「だからお前は甘いと言っているのだ!」


 ゼウスの怒号が再び響く。「腐った果実の中に、まだ食べられる部分が残っているからといって、全体を救うことができるか?否だ!腐敗は広がる」


 ゼウスはポセイドンに歩み寄る。「お前の末裔たちの傲慢は、既に他の人間たちにも影響を及ぼし始めている。秩序は守らねばならぬ。人間が神を超えようとすることは、決して許されない」


 ゼウスはポセイドンの肩に手を置く。「お前も、それは理解しているだろう?」


 ポセイドンは答えることができない。理解している。しかし感情がそれを拒絶する。


「どうか時間をください」ポセイドンは最後の抵抗を試みる。「私が必ず彼らを正しき道へ導きます」


 ゼウスは一瞬、考え込む表情を見せる。「……よかろう。お前には猶予を与えてやろう。人間の半生ほどの時間――三十年の猶予を。その間に、あの者たちを導き改心させることができれば、島を沈める必要はない」


 三十年。人間にとっては長い時間だが、神々にとっては瞬きほどの時間だ。


「ただし、条件がある。その間、お前は直接彼らに姿を現してはならない。神が直接介入すれば、彼らは恐怖から従うだけで、真の改心にはならぬ」


 ポセイドンは歯を食いしばる。直接助けることができない。それはあまりにも酷な条件だった。


「もし、お前が躊躇し続け、彼らの傲慢さがさらに増すようなら。もし、彼らが他の地へと侵略を続けるようなら――その時は、私自身が直接手を下す」


 ゼウスの目が、かつてない凄みを帯びる。「その時は、島を沈めるだけでは済まさぬ。海そのものを沸騰させ、お前の領域ごと焼き尽くしてやろう。そして、お前の権能の一部を剥奪する」


 神の権能を奪う。それは、神としての存在を否定することに等しい。


「……はい」


 ポセイドンは、ついに屈服した。


「よかろう」ゼウスは玉座の前へ戻って言う。「では、これで話は終わりだ。みな帰るがいい」


 ゼウスが去った神殿からは神々が一人、また一人と去って行った。ポセイドンは神殿の床に膝をつき、三叉の矛を杖のようにして体を支える。普段なら決して見せない、弱々しい姿だった。


「ペルセポネーよ。折り入って相談がある」


 膝をついたままの姿勢で、ポセイドンは神殿を去ろうとしていた冥界の女王ペルセポネーに声をかけた。


「あなたが私に相談? これは面白いわね」ペルセポネーの声は、鈴を転がすように美しいが、同時にどこか冷たさも含んでいた。


「ゼウスの命令を聞いただろう?」


「ええ。アトランティアを沈めよ、と」ペルセポネーが頷く。


「ゼウスは私に猶予を与えてくださった。末裔たちを導き、改心させる時間を」ポセイドンの声には苦悩が滲む。「だが、私には自信がない。私が直接彼らに語りかけることも許されない」


 ペルセポネーがゆっくりとポセイドンに近づく。「つまり、あなたには無理だと?」


「そうだ。それで彼らをどう改心させればいいと言うのだ」


 ペルセポネーが腕を組む。「では、あなたは何を求めているの?」


 ポセイドンは深く息を吸い込み、提案する。


「転生者を送り込んでほしい」


 ペルセポネーが目を見開いた。


「誰か一人、あの島に送り込んでほしい。外の世界から来た魂を。彼らを内側から導ける者を」


 しばしの沈黙。


「つまり」ペルセポネーが口を開く。「転生者を送り込み、内部から変革を起こそうということ?」


「そうだ。人間として生まれ、人間として彼らと共に生きる者なら、私が直接語りかけるより効果があるはずだ」


「なるほど」ペルセポネーが微かに笑う。「確かに、それはゼウス様の命令に反していない」


「でも」ペルセポネーが懸念を示す。「もしその転生者が失敗したら?」


「その時は……私が島を沈める。だが、せめて可能性を試したいのだ」


 ペルセポネーはポセイドンの前に立ち、手を差し出す。「面白い提案だわ。私にも利益がある」


「もしアトランティアが一度に沈めば、数十万の魂が同時に冥界に流れ込む。それは冥界の秩序を乱すのよ」ペルセポネーが続ける。「だから、あなたの提案は私にとっても望ましい。ただし、条件があるわ」


「何でも受け入れる」ポセイドンは即答する。


「まず、私が選んだ魂を送る。あなたが選ぶのではなく、私が選ぶの」


「構わない」


「二つ目。その者がどう動くかは、私にも完全にはコントロールできない。自由意志を持つ存在である以上、それは避けられない」


 ポセイドンは一瞬躊躇するが、すぐに頷く。「それでも構わない」


「三つ目。転生させる魂には、特別な力を授ける。私の神力をね」


 ポセイドンが目を見開く。「お前の力を?」


「ええ。あなたの末裔たちとは違う魔法を与えるわ。マナに依存しない無尽蔵の力を」


「マナ?」


「あなたの末裔たちの魔法の源よね」ペルセポネーの表情が暗くなる。「しかし、あなたは知らないでしょう。その力の代償を」


 ポセイドンの顔が強張る。


「もし何らかの理由で世界からマナが枯渇すれば――あなたの末裔たちは死ぬ」ペルセポネーが冷静に告げる。「彼らの体は魔法に依存するあまり、マナなしでは生きられないように進化しているの」


 ポセイドンは衝撃を受けた。顔が青ざめ、三叉の矛を握る手が震える。


「そんな……私はそんなこと知らなかった」


「神であっても自分が創造したものの本質を見誤ることはあるわ」ペルセポネーが言う。「あなたが末裔たちに与えた力は、祝福であると同時に呪いでもあったの」


 ポセイドンは膝をつく。愛する者たちに力を与えたつもりが、実は枷を嵌めていたのだ。


 ペルセポネーが優しく言う。「だからこそ、私の力が役立つの。私が授ける魔法は、マナを必要としない。転生者はマナの呪縛から自由よ」


 しばしの沈黙の後、ポセイドンは顔を上げた。


「分かった。お前に全てを任せる」


 ポセイドンは立ち上がり、ペルセポネーの手を取る。その瞬間、二人の間に青白い光が走る。契約の魔法。神々の間で交わされる、絶対に破ることのできない誓い。


「感謝する、ペルセポネー」ポセイドンは深く頭を下げる。


「お礼なら、成功してから言いなさい」ペルセポネーは微笑む。「さて、適切な魂を探さなければならないわね」


 ポセイドンがペルセポネーに尋ねる。「本当に適切な魂が見つかると思うか?」


 ペルセポネーは窓から外を眺める。「見つけるわ。必ず。古の世界を愛し、正義感が強く、そして――絶望の淵から立ち上がれる強さを持つ魂を」


「そのような魂が、そう都合よく見つかるものか?」


 ペルセポネーは振り返り、ポセイドンに微笑みかける。「運命は、時に驚くほど完璧なタイミングで動くものよ」


 ペルセポネーが手をかざすと、空中に無数の光の糸が現れた。光の糸が複雑に絡み合い、やがて一つの糸が明るく輝き始める。


「ならば、任せよう」


「ええ。さあ、探しましょう。未来を変える、特別な魂を」


 ペルセポネーの目が輝く。彼女は既に、ある魂に目をつけていた。


 遥か未来、現代の日本、東京に住む、一人の青年の魂に。

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