Case3-13 少女

 少女は暗闇の中、どこかの研究室の机の下で膝を抱えて座り込んでいた。彼女自身、どうやってここまで来たのか正直よくは覚えていなかった。ただ一生懸命で、その末が今なのであった。


 もうここに隠れてから幾分か経つというのに、いつまでたっても心臓が落ち着いてくれない。抱えていたはずのヘルメットライトも何故かなくなっている。絶望的な状況だった。そして、だから、受け入れざるを得なかった。さっき、確かに自分の目の前に「蛇」のとぐろが佇んでいたということを。


 ――あ、 ちがう。ちがうんだ。


 少女は反芻はんすうした。そして気づいた――きっと、もっと前から近くに「それ」はあった。この地下に通じる扉を押し開けた時から、きっと「それ」に呑み込まれてしまっていたのだ。ただ、拒み続けていただけ。踊り場の男達だってそうだった。でもずっと心と目を背けていたのだ。

 だけど、少女はもう自分を騙すことができなくなった。なぜなら――


「お母さん…」――呟いた。「お母さん…お母さん…」


 呪いのように頭に突き刺さった光景に傷つけられ、少女は機械的に自分の救えなかった人を確かめた。

 次に「死」ぬのは、

 自分であると悟った。


 ――死ぬ。

 ――死ぬってどうなるの…?

 ――なにがどうなるの…?

 ――どれくらいいたいの? わたしはどうなるの?


 その時、

 きぃ…と、ドアの開く音がした。


「――っ!」危なかった。あともう少しで少女は声をあげるとこであった。


 しかし今度は、ずず…と、重く大きなものが引きずられる音がする。物を押しのけて、じっくりと、右の端から左の端へ、その後また左の端から右の端へと。それを繰り返しながら、だんだんこちらへと近づいてきている。

 ガタリッ――とうとう隣の机が動かされた。もうそこにいる、少女がそう察した矢先だった。――真後ろ、隠れている机下のしきり一枚を隔ててその先で、しゃがらしゃがらと尾を振るわせる音が矢庭に鳴り騒ぎ始めた。音が、しきりを越えて少女にびったりと覆い被さる。まるで無数の舌で舐め上げるように、その華奢な背中を犯す。


 両手が恐怖で震えていた。今にも声をあげて泣き叫びたいのを噛み殺すと、音も無くボロボロと涙が落ちていく。

 少女はひたすらに祈った。何かを、 誰かに、 ただ、それしかできない。

 するとだ。何の前触れもなく、フッと音が消えて無くなった。


 ――解放――困惑――…安堵…


 少女の心がそれらを順に巡ったその刹那であった――

 喉奥まで、潰すほどの勢いで、何者かが少女の首全てに喰らいついた。


「ぐ―ぁ――ッ!」


 苦しいなんてものではない。壊される――それほどの感覚。

 相手の姿は暗すぎて見えない。いやそれよりも、呼吸という当たり前を突如喪失し、少女は望まずともパニックにおちいった。

 半狂乱になりながら、喰らいついている何かに必死に手をかける。きっとその気になればあっさりと喰い破れるであろうに、いつまで経っても力のほどが変わらない。相手は確実に娘の絶望するさまたのしんでいた。

 少女は、まるで物憑ものつきのように自分をかなぐり捨ててのたうち回った。そのつま先が、運良く見えない相手に直撃した。

 首が自由になる。途端に嘔吐えずきと咳が溢れ出してあまりにも苦しい。しかしそんなことを気にしている場合ではない。少女はまだ息もまともにできないまま机から飛び出し、兎にも角にも逃げようとした。

 だが、すぐさまその細い足首が捕らえられる。鳥肌が立つほど、ざらりぬめりとした不快な物が巻きついている。

 痛々しくかすれた悲鳴をあげる。引っ張られる感覚、そして――


 ――鋭い鞭のような音が轟き、


玲奈花れなか!」


 強く、暖かく抱き寄せられる。約束を結ぶように。


「玲奈花! 玲奈花大丈夫だよ! 大丈夫だから!」


 大好きな声がする。

 入り交じる。咲き乱れるほどの驚愕と安堵。

 少女は見上げた。

 抱く者が自らの顔を白くライトで照らしていた。


「ね、もう大丈夫だから!」


 紛れもなく、それは少女の母であった。


 その瞬間、心の中で一つの感情が爆発した。きっと色んなものがたくさん混ざってできている。だから名前の付けようがない。一つ言えることがあるとすれば、少女はこの感情と出会えることを、ずっとどこかで待っていたということだ。そのまま身をゆだねると、幼きは顔をしわくちゃにし、声にならない声をあげ、その胸にしがみつく。より強い抱擁が体を包み込んだ。「ちょっと! ごめんだけどさ、とっとと逃げなよ」「はい! ぁ あの あの! ありがとうございます!」


 記憶に無い声。母がお礼の言葉を返している。少女は反射的にその人物のことも確認しようとした。ちょうど、母が相手にV-リングのライトを向けていて姿がはっきりと見える――。


「ぁ…ああ!」


 恐れおののくのも無理はなかった。そこには、先ほど少女の母を殺したかに思えた黒き大蛇、その胴がうねりっていた。


「安心して玲奈花れなか! お母さんの顔見て! 安心! 大丈夫優しい蛇さんだから!」少女が取り乱しかけているのを察したのか、母親もまたいち早く訴えかける。

「蛇呼ばわりやめてくんない?」

「え あ! す、すみません!」


 また声がした。正直、場の緊張感とはなんとも不釣り合いな会話ではあったがそれはさておき、少女もまた察した。蛇だ。蛇が喋って、更には母と会話をしたのだ。


 その時、ライトの光が、胴の天辺てっぺんした。

 少女は急いで顔を背ける。まるところ、彼女が見て知っていたのは、大蛇の尾から胴までであった。その先に、戦慄せんりつ形相ぎょうそう――それもとびきりに巨大なものが伸びていることは想像にかたくなかった。

 ……そのはずであった。彼女は、すぐにまたもう一度見上げた。今度は、おびえることもなく。


 背けた瞬間、ほんの一欠片ひとかけらほど視界によぎったそれは、確かに、美しかったのだ。


 ――そこに大蛇の頭はなかった。

 あったのは――いや、そこにいたのは、一人の女性。

 んだ翡翠色ひすいいろの長髪を蓄えた、人間の女の上半身が、途切れた蛇の胴から生え伸びていた――。

 少女は安らかに見惚みとれた。一本一本が、まるで宝石エメラルドの糸でできているような、そのまたた毛髪もうはつに、心を奪われた。


 翡翠髪ひすいがみ蛇女じゃじょは、少女親子をかばうように前へ出る。「アンタさぁ! ヒトの趣味にどーこー言うつもりないけど、こっち来たばっかでちょっと節操なさすぎンじゃないの?」

 彼女がそう言った先には、いったいいつからそこにいたのか、床に散らかった研究室具の上に一人、禍々しい獣のお面を被った少年が立っていた。

 身につけた、神事の和装のような衣服をぱっぱと払いながら、じっと蛇女じゃじょを見つめている。


 そこで、少女の体が重力に逆らいぐわりと浮いた。

 母に抱きかかえられて、対峙し合う者達から遠離とおざかっていく。

 僅か、蛇女が振り向きこちらをうかがった。少女と目が合うと、再び向き直る。

 一秒に届くか届かないかの。けれども少女は、自分と、自分の大切なひとの恩人の顔を、一枚の写真のように、瞳に焼き付けた。


 ひどく、痛ましい表情をしていた……。


 一瞬、少女は頬から喉奥にかけて、逃れたくなるような淡い息詰まりを感じた。それを「切ない」だと知るには、少女はまだ、あまりにも幼い――…。






 少女が蛇嫌いを乗り越えたのは――

 それからほんの、数日後のことであった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る