Case1-8 矢上藤次郎

 “きしきし”


 ――と、鼓膜に引っかかる、不快な音がした。

 硬く、滑りの悪いものをこすり合わせたような、そんな音が。


 すぐさま、矢上は音の鳴った方を照らす。

 過敏に血走った両目で、じっ…と空間に気を張らせる。

 動きを見せるものは――ない。

 『わずかながらの安堵』――それを手に入れ、矢上は視線を戻した。


 そう。手に入れたのだ。

 ようやく手に入れることができたのだ。

 混濁の泥の中には存在しえなかった、『安堵』という感情を。

 この『安堵』は、決して手放してはならない。

 この『安堵』を希望に、今こそ『冷静さ』を取り戻す時――


 ――そんなことを思う暇すら与えられることもなく、


 矢上は、見た。


 そして、気づいた。


 気を張らしたが故に、いまだ自身の網膜もうまくに残っている一枚絵――

 確かに動きはない。

 だが、重要なのはそこではない。

 ――音が鳴ったということは、何かが動いたということ。

 ――その何かが、自分を襲ってくるのではないか。

 そのことばかりに気を取られていた矢上は、愚かなことに残像によってそのことに気づかされた。


 確かに『動き』はなかった。あったのは、『変化』。


 もちろん確証はない。所詮は光と影が生んだあやふやな模造である。

 今からでもまだ気のせいにできる。

 「黒」くあるべきその像が、たまたま「白」く残っただけのこと。だと。

 だから、もう一度見る必要などないと。

 矢上はそう思いたかった。


 “きし…きし…”


 また、音がした。


 見てはいけない。

 見てはいけない。

 その『変化』を確かめてはいけない。

 そうすれば、『そこ』を知らずに終わることができる。

 そうすれば、きっとまだ『最悪』はまぬかれる。

 それでいい。

 それでいいはずなのに、

 それでも体は言うことを聴かなかった。

 それでもまだ終わりたくないと、その正体を確かめ足掻くのだと言い張り、生存本能は間違いを犯した。

 そうして、矢上の首は動かされた。

 そうして、矢上の心は再び、速度を増して、崩壊へと堕ちだした。


 やはり、国枝の死体が消えていた。


 何故最初に気づくことができなかったのか。

 まぎれていたからだ。

 白衣を着た研究員達の死体の中に溶け込むように、それは紛れていた。

 加えて、何も起こらずして勝手に死体がはずがないという考えが、矢上の気づきを遅らせた。


 そこには、あったはずの国枝の死体は無く、代わりに白のスレンダードレスを着飾った、女の死体が転がっていた。


 手や足首といった、肌が露出した箇所に生気の色はない。撓垂しなだれた、妙につやのあるその長い黒髪が、女の表情を覆い隠し、気味の悪さを仕立て上げている。

 ただ、そこではない。矢上にもたらされた動揺の大半は、もっと別の原因によるものであった。

 その死体を目にした瞬間から、わかってしまったこと……。

 彼女がいったい、どんな性格で、どんな顔をしていたかなんてわからない。

 会ったことだってない。一度たりとも。

 そもそも存在しているのかだって怪しい。

 にもかかわらず愛していた、自分の記憶の中に確かに居るそれ。


 この死体は、“サ沙えな苗さぇナ苗早”だ。


 “きしり…きし…きしきし…”


 死体から、

 音がする。髪に隠れた顔の中から。


 すると、

 ゆ…っくりと、

 死体が、首の根元から、引っ張られるように持ち上がり始める。


 “きしきし…ごり…がり…”


 ゆ…っくり、ゆ…っくり、

 だらりと死したまま、ものことわりに反して、糸にられる人形のように吊り上げられていく。

 顔をおおった長髪が、一本…また一本と垂れ落ちていく。


 “きしきしきぎり…ぎり…きしきしきし…ごり…きし…”


 そして、

 ひた…と、素足の裏が床についた。

 その弾みで身体が揺れると、残りの髪がはらりと開き、

 女の顔があらわになった。


 絶対に、見てはいけなかった。






 “きしきしきしがりがりきしきしごりきしきしきしきしがりがりがりぎりごりきしきしきしきしきしきしきしごりきしがりきしきしきしきしきしきしきしがちゃがちゃがちゃきしきしきしきしがちゃがちゃがちゃぎりぎりがりがりじゃりじゃりじゃりじゃりじゃりぎりぎりぎりぎりきしきしきしごりごりごりきしきしきしきしきしきしきしきしきし






 音がする――たくさんの、歯ぎしりの音。


 ――顔面が、ぐちゃぐちゃに、大量の『口』で埋め尽くされていた。

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