明治あやかし黄昏座

鈴木しぐれ

第一幕 天気雨

天気雨―1

 晴れている。そして、雨が降っている。


 頭上には、青空が広がっている。もうすぐ日が沈む時間帯であるから、遠くの空が赤く染まりつつある。灰色の雲など見当たらないというのに、はらはらと雨粒が落ちてくる。こういうのを天気雨、と呼ぶのだったか、と彼女は考えていた。




「――――さん」

 雨に紛れて、何か声が聞こえる。

「――――さん」

 よく、聞こえない。雨音は静かなはずなのに。

「――――さん」

 私を、呼んでいる……? 誰?




「お嬢さん」

「えっ」


 突然、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、少女が傘をこちらに差し出していた。頭のすぐ上から傘が雨を弾く音がしている。


「道の真ん中でぼーっと突っ立って、危ないよ?」

「あ、えっと、ごめんなさい」

「いいえ」


 臙脂色の袴に桃色の着物を合わせた、十五歳ほどのその少女は、慌てる彼女に不審な顔もせず、にっこりと笑った。同い年くらいに見える、人懐っこい可愛らしい少女だ。


「あなた、傘は持っていないの? まあ、急な雨だし、持ってなくても仕方がないかな」

 周りを見れば、鞄を傘代わりにして屋根の下に駆け込む人や、馬車を捕まえようとしている人たちがいた。空は晴れているのだ、傘を用意している方が稀かもしれない。


「……芝居小屋に行けば、予備の傘くらいあるだろうけど。ねえ、あなた急いでる?」

「ううん」

「じゃあ、少し一緒に歩かない? 傘、貸してあげられると思うし」


 そう言いながら少女は、傘を二人の真ん中に持ってきて、肩を並べた。彼女は、こくりと頷いて、少女と共に歩き出した。

 彼女自身も、袴に着物の装いであるから、傍から見れば女学生の帰り道、と言ったところだろうか。一つの傘を共有しているから、どうしても片方の袖は雨に濡れてしまう。浅葱色の着物の袖がじんわりと色を濃くしていく。



 雨に濡れ、靴に踏まれたらしい新聞が目についた。


 ――明治二十年、九月六日。江戸から明治に変わり、文明開化と囃し立てられ早二十年。提灯からアーク灯への移行がさらに加速。大蔵省は煉瓦造りとなり、浅草にも近々煉瓦造りの建物が出来るという噂も――


 新聞の文字で読み取れるのはそれくらいだった。またすぐに男性の革靴に踏みつぶされてしまったから。洋装を身に纏った男性と着物姿の女性が並んで歩いている。コウモリが羽を広げたかのような傘をさしている。陽がさらに沈み、アーク灯がつき始めた。


「ここ浅草にも、アーク灯がやってきて、だいぶ明るくなったね」

「そう、なんだ」

「もしかして浅草は初めて? 色々と見て回るといいよ」

 少女は、傘を持っていない方の手の、人差し指をピンと立てて得意げに教えてくれた。


「浅草は、東京府の管轄になって、日本初の公園に指定されてね、一区から六区と名前が付けられたの。ここは六区。芝居小屋が多く集まるところ」

「……」

「どうかしたの?」


 彼女の視線は、傘を持つ少女の右手に吸い寄せられていた。彼女の右手の甲には、花の刺青があった。丸い縁取りの中に、山吹の花だろうか、一輪の花が細かな模様であしらわれている。


「それ、綺麗だね」

 すると、少女の表情が一瞬にして、強張った。何か、おかしなことを言ったのだろうか。少女は、意識的に一つ呼吸をすると、小さな声でゆっくりと問いかけてきた。


「あなた、これが見えるの?」

「うん」

「なのに、これが何か知らない?」

「えっと、うん、知らない」


 少女はますます顔を強張らせて、右手を見せて、と言ってきた。言われるがまま、右手を出すと、手の甲を凝視された。


「……とても薄い、けど確かにある」

「あの、えっと」

「このまま、一緒に来て」


 そこから無言のまま歩き、彼女は居心地の悪さを感じ始めていた。何か、良くないことを言ったのかもしれない。この傘を飛び出して、逃げた方がいいのではないか。そう思い、実行しようとしたところで、少女の足が止まった。


「着いたよ」

 目の前には、入母屋造りで、瓦葺になっている建物があった。白壁はほとんど汚れがなく、建てられてから新しいことを物語っていた。芝居小屋、というだけあって、立て看板や幟が表に並んでいる。正面には、一際大きな看板があり、『黄昏座』と文字が彫ってあった。


 傘を閉じた少女は、芝居小屋の裏口らしきところへ向かう。こっち、と手招きされたが、行っていいのか、迷っていた。そんな彼女の様子を見てか、少女は気まずそうに人差し指で頬をかいた。


「あー……ごめんなさい。びっくりして、つい怖い顔になっていたかな。取って食おうってわけじゃないし、たぶん、あなたの役に立てると思うよ」

「それってどういう――」

 少女の言葉が気になり、裏口から中に入った途端、鋭い声が飛んできた。


「あーー! 何をしているの!」

 彼女は、驚いて固まってしまう。


 戸の向こうには土間があり、小上がりがあって、畳へと続いている。その畳には、上品な小紋を身に着けた少女が正座からわずかに腰を浮かせた体勢で座っていた。少し緑がかった髪を上の方で一つのお団子にしてまとめている。その手にはさっきまで彼女たちを雨から守ってくれていた傘。


「ちょっと琥珀こはく、これ、小道具の傘よ! 耐久性ないから、濡らしたらだめなのよ」

 傘を持っていない方の、手袋をしている手で少女が指を突き立てて非難している。


「急な雨だったんだから、仕方ないよ」

「誰が修理すると思ってるのよ」

なぎ、お願い」

「はあ……分かってるわ」

 会話がひと段落したところで、凪と呼ばれた少女がこちらに気付いた。


「その子は?」

「さっきそこで会ってね。予備の傘を貸そうと思って連れてきた、だけのつもりだったんだけど」


 傘に入れてくれた袴の少女は何やら含みのある言い方をした。凪もそれが気にかかっている様子だったが、とりあえず、と濡れた着物を拭くための手ぬぐいを貸してくれた。


「あ、ありがとう」

 袴の少女はというと、小上がりをさっさと上がり、自分で手ぬぐいを手に取ると、奥へと入っていってしまった。


「いいのよ。あなた、名前は?」

「……」

「そうね、まずは、こちらから名乗らなくてはね。わたしは、らん凪よ」

「俺は、山吹やまぶき琥珀。よろしく」


 唐突に、奥から名前と同じ琥珀色の髪をした、一人の青年が顔を出した。紺色の着物に羽織を引っ掛けた装いで、口元には微笑をたたえている。整った顔立ちは目を惹く。素直に、綺麗な人だ、と彼女は思った。彼女や凪と同じ年頃に見えるが、着物の影響か雰囲気が大人っぽく感じる。


「山吹さん、と蘭さん」

「あーいや、琥珀でいい。あまり苗字で呼ばれるのは慣れてないからな」

「わたしも。凪でいいわ。それで、あなたの名前は?」

「あの、私……」

「言いたくなかったら、無理に聞くつもりはないわ」


 凪が、こちらを気遣うようにそう言ってくれた。だが、そうではない。そうではないのだ。


「違う。分からなくて」

「分からない?」

「……自分の名前も、自分が何者なのか、どこから来たのか、ここがどこなのかも。気が付いたら、あそこに立っていて」

「記憶喪失ってこと? 驚いたわ」


 凪が目を丸くして、同じく丸くした口元に手を当てた。琥珀の方はあまり驚いた様子はない。


「やっぱりな」

「琥珀、知っていたの?」

花紋かもんが見えているのに、花紋を知らないと言ったからな」

「それは、本当なの?」


 凪はこちらに向かって、疑わしげに尋ねてきた。そんなに大事なのかと不安になってきたが、知らないものは知らない。彼女は、こくりと頷いて肯定した。


「なるほどね……」

 そう言うと、凪は黙り込んでしまった。二人の言う、花紋が何のことなのか気になるが、それ以上に気になっていることが目の前にあり、口を開いた。


「あの、あなたは、さっき傘を貸してくれた女の子、だよね。そっちの恰好が本当?」


 琥珀と名乗ったこの青年は、袴の少女とは顔立ちも背格好も声も、そもそも性別が違う。だが、同じ人物なのだと、そう感じた。理由はなく、ただ直感で。彼女自身でも不思議だったが、そうなのだ。


「へえ。初対面で見抜かれたの久しぶりだ」

 琥珀は、一瞬目を見開いたが、すぐに愉快そうに口端を上げて笑った。


「そう。さっきの袴の女の子は俺だよ。あれは、まあ、変装みたいなものだから、こっちの姿が本来だ」

「同族以外で見抜くなんて、初めてなんじゃない? すごいわ、えーっと……呼ぶ名がないと不便ね。綺麗な浅葱色の着物を着ているから、あさぎ、でどうかしら。思い出すまでの仮の名前」


 凪が、着物を指さしながらそう言った。仮だとしても名前をもらったことで、ずっとふわふわしていた体が、つま先だけ、そっと地面に付いたような気持ちになった。


「うん、ありがとう」

「どういたしまして」

「じゃあ、あさぎ」


 琥珀に呼ばれ、そちらを見ると、こちらへ来いと言うように手招きをしている。あさぎは、小上がりの段差の前まで近付いた。すると、琥珀は畳に膝を付き、あさぎの手を掬い取った。


「あさぎ、さっきの君自身への疑問、いくつかは答えてやれる。まず、君が何者かってやつ」


 琥珀は、あさぎをじっと見つめながら、掬い取ったあさぎの右手の甲を親指でそっと撫でた。あさぎは肩を震わせて、思わず手を引いた。するりと琥珀の手の中から抜け出した。一瞬で頬が熱くなった。琥珀はあさぎから目を逸らさずに、言葉を続けた。


「君は、妖だ」

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