暗き森のアルフィナ
上衣ルイ
Episode 1 運び屋のアルフィナ
頭上でけたたましい羽音に驚き、ハンスは身を竦めた。
じっとりとした湿気が鼻筋や顔やら、うなじにへばりつく。
噂には聞いていたが、予想以上に不気味で不愉快極まる森だ。
ぶんぶんと羽虫が周囲を飛び交う音が、己を小馬鹿にして嘲笑っているように聞こえてくる。
嫌な所に来てしまったものだ。
ぬかるんだ土を踏みしめながら、地図を頼りに、ハンスは深い森の中を歩いていた。
「ここが、暗き森か……予想以上に広いな」
目玉をぐるりと動かした矢先、苔むした看板が目に入る。
「この先、魔獣発生領域。保険未加入の方は立ち入りをおすすめしません」
と書かれてある。見なかったことにして、そっと看板の横を通り抜けた。
ハンスはしがない平民生まれの商人だ。
各地を転々としながら、自分だけの露店を開いている。
依頼された時は珍しい商品を仕入れ、依頼主に少々色をつけて売ったり、素材を自分で採取して、需要がありそうな土地で売ったりしている。
実入りは多くないが、慎ましくも穏やかに暮らしている。
普段はキャラバンであったり、用心棒を連れて、なるべく安全な行路を使い旅をしている。故に、普段ならこんな陰気くさい森に入る機会など、早々ない。
けれど今のハンスは、この森を通ってでも成さねばならない、とても大切な目的がある。
暗き森を抜けた先には、パンリスという大きな町がある。ハンスの目的地だ。
現在、パンリスを挟んで、敵国同士の領主たちが小競り合いを繰り広げている。
パンリスに到着するには、戦場のただ中を通過しなくてはならない。
だが一つだけ手がある。この暗き森を直進することだ。自殺ともとれる手だが、戦争に巻き込まれるよりかは生存率があがる。
故にこの身一つで、いかにも薄暗く怪しげなこの森の獣道を、ひとりでせっせこ進んでいる次第だった。
「ええと、今さっき通り過ぎたのが目印の「バケオオスギ」の前だから……」
手元の地図をぐるぐる回転させ、溜息をつく。
この森は元々、迷いやすい場所とは聞いていたが,想像以上だ。
昼間だというのに夕暮れのように薄暗く、薄靄のせいで視界は不明瞭。
旅人に嫌われるのも道理というものだ。
「はあ……覚悟はしていたが、なんて気味悪い森なんだ……」
大事な荷物を抱え直し、ぐるりと森の中を見回す。
垂れた木々はどれも同じに見えるし、植物たちは風もないのにゆらゆら揺らめいて、まるで森の奥の暗がりにに誘うかのようだ。
ケケケケッ!と不気味な笑い声が響く。鳥の声と分かっていても、背筋に薄ら寒いものが走る。早くこんな所、抜けてしまいたい。
足元にまとわりつく重たい泥を蹴り飛ばしながら、ハンスは目的地を目指す。
「人食いの沼」。
この陰気くさい森を象徴する、湖とまがうような大きな沼だ。
名前から想像出来るように、この沼は底なしに深く、恐ろしい大型の水棲魔獣も多く生息しているという話だ。
森を通る旅人は多くないが、この沼の犠牲者に関する噂は事欠かない。
身震いするほどの恐ろしい「悲劇」は、寝物語や説教話の一つにもなっているくらいだ。ハンスとて、本来であれば目にしたくもない。
だがこの沼をまっすぐ突っ切れば、すぐにでもパンリスに辿り着くことが出来る。
「暗き森のアルフィナ……一体どんな人なんだろう?」
最近、ハンスは同じ商人の伝手で、「運び屋」の話を耳にした。
陸地であろうと川であろうと、普段は人の寄りつけない危険な場所だろうが、必ず人や物を運搬すると噂だ。
手紙を出せば、伝書鳥によって依頼を請け負う返事がやってくる。
そして現地で落ち合い、その場で値段交渉をして仕事を務めるという。
人となりについては知らないが、仕事に対する真摯さは確かだという話だ。
「確か、落ち合う場所はこの辺りのはず……あ」
しばらく歩くうち、ハンスの足は目的地に到着していた。
鮮やかな青緑色にきらめく、大きな沼が眼前に広がっている。
景観の美しさに思わず息を飲んで、しばし沼の景色に見とれた。コバルトグリーンの色彩の正体は、水面に浮かぶ結晶のような藻だろう。
目を凝らせば、結晶の藻を全身に飾り付けた魚たちが優雅に泳いでいた。
沼の水は思いのほか澄んでおり、飲み水としても申し分なさそうだ。
「アンタが依頼人のハンスかい」
「へ……うわああっ!?」
背後から声がかかる。振り返り、ハンスはぎょっと後ずさった。
巨きい女だ。淡い金髪が僅かな木漏れ日を反射し、青い4つの目玉がぎょろり、とハンスを見下ろした。
焼けた小麦色の肌にはうっすらと傷が無数も浮かび、服の上からでも鍛えられた肉体がよく見てとれる。
何より目立つのは、頭からにょっきり生えた馬の耳に、額から突き出た長く鋭いツノ。
間違いない。彼女が「運び屋」──暗き森のアルフィナ。
肩に伝書鳥を連れ、ゆっくりとした足取りで彼女はハンスに近寄ってきた。
「ど、どうも、アルフィナ。いかにも、今回君に依頼の手紙を送ったのは私だよ。
君はどんな場所でも人や荷物を運んでくれると聞いてね」
「そうか」
彼女は表情ひとつ変えず、懐から紙類と羽根ペンを取り出す。
「労働契約書」とある。ハンスは紙を受け取り、内容に目を通した。
運搬する荷物や人物の数、おおよその重量、距離、運搬に関する制約……事細やかにチェックリストが記載されていた。かなりまめな性格らしい。
「こっちが料金表のリスト。契約書と併せて目を通してくれ」
「はあ……」
「サインはここ。料金は後払いだ」
端的にまとめるならば、アルフィナの運搬は荷物の内容と距離、オプション次第で値段が変動するシステムであるらしい。
荷物優先で安全に運んで欲しいならそれ相応の値段がかかるし、速度を優先するならば荷物の安否で苦情をつけることはしない、などの制約が細やかに分類されていた。
料金表とにらめっこしながら、ハンスはひとつひとつチェックを入れていく。
手持ちが多くないため、あまり注文を多くつけることは出来ない。
ハンスは金を惜しんで、「速度優先、積み荷の無事は自分で管理する」という項目にチェックを入れた。この項目の金額が一番安いのだ。
書き込んでサインまで済ませると、アルフィナは契約書を受け取り、懐にしまった。
「船はこっちだ。着いてこい」
「分かった。君一人なのかい?沼を渡るにはその、人手が足りないと思うんだが。
身内やお仲間の方とか……そうだ、旦那さんとかは?」
「問題ない。元より私に仕事仲間はいないし、私に手を貸したがる身内もいない。
それに私は独り身だ」
悪手の質問をしてしまったらしい。ハンスは少し気まずくなって首をすくめた。
鳥はいずこに去って行く。
アルフィナは沼に浮かべた小舟のもとまでハンスを連れて行くと、脇下をがっと掴んで小舟に乗せた。
小舟からは甘ったるく奇妙なバターの匂いがした。ベニグサキノコという香りの強いキノコのエキスだ、と気づいた。
「うわあっ!?」
「船から身を乗り出すなよ。船がひっくり返ることはまずないが、おたくが沼の魚たちの餌になりたいってなら止めない」
激しい揺れに驚き、ハンスは大事な荷物を片手に抱えたまま、小舟にしがみつく。
こんな小さい船で、果たして無事に渡りきれるのだろうか?
不安に駆られるハンスをよそに、アルフィナは涼しい顔で沼に足を踏み入れる。
水に落ちる!と思わず声を張り上げかけた矢先──アルフィナの足裏は、水面でぴたり、と止まった。
驚きにハンスが声を失っていると、アルフィナはぐにぐに、と足裏で見えぬ床を踏みしめるように何度か足踏みをし、「まあこんなもんか」とぼやいて、更に足に力を入れる。
すると、重みに耐えきれなくなったかのように足が沈み始め、膝下あたりまでつかったあたりで止まった。
「大丈夫なのか?溺れるんじゃ……」
「生憎、水で溺れたことは一度もない。
溺れるような柔な肺も持ち合わせてないんでね」
アルフィナは慣れている、という表情を浮かべ、小舟に繋いだ太い縄をひっぱり、水の中を歩き始める。
まるでソリを牽くが如く、小舟は水の上を軽やかに滑りだした。
先程乗せられた時とは大違いで、舟はするすると揺れ一つなく進む。アルフィナは息切れすることもなく、大きな沼をまっすぐ横切っていく。
「す、すごい。浮水の魔術でも使っているのかい?」
「ただの体質だ」
そういえば。
ハンスはアルフィナのツノを見て、思い当たることがあった。
噂によれば、古くからこの国には、少数だが「ユル・ケィ」という一族が存在している。
ユニコーンとケルピーの混血種を祖とする一族である。
本来は馬類の種族でありながら、彼らは二足歩行の人型を取ることが多い。
そしてケルピーの血故にか、彼らは生まれながらに水の中で呼吸や生活が可能である。
そのツノはユニコーンほどでないにしろ、水を清らかにするだとか、薬効やおまじないに効果があるということで、かなりの値で取引されることもあると聞く。
ならば水の中を自由に移動出来るのも道理ということか。
「外はどうだ。やっぱり、戦争ばかりしているのか」
「え、ええ。パンリスはまだ平和だと聞いていますが、近辺で戦争が起きていると。
ヒト人とフバル人(※トロール種の一族のひとつだ)の領主らがいざこざを起こしたようで」
「ふぅん。20年前も似たような話を聞いたな」
アルフィナは口数の少ない女だった。
黙々と舟を牽き、私に話しかけるでもなく、かといって不機嫌というわけでもない。
彼女が放つ気配は、まるで悠然と構える老木のそれだ。
職業柄、様々な人と関わりを持つが、彼女は人嫌いでこそないものの、人と関わることは然程得意でもない、そんな印象を受けた。
することもなく、小舟の上で漫然と座り込んでいるというのは、退屈だ。
「アルフィナは、いつからこの仕事を?」
何の気なしに尋ねてみた。単なる暇つぶしだ。
アルフィナは少し言葉に詰まると、「結構前から」とだけ答えた。
あまり自分の内面に踏み込まれたくないタイプだろうか。
またも沈黙。ややあって、アルフィナが口を開いた。
「この沼は、元々緩い地盤のせいで、ちょっとした土砂崩れでもすぐに底がどんどん深くなっていくんだ。
底の土がとても軟らかくて、深度もそれなりにあるし、底のほうでは「メクラワニ」たちが住んでいる。
だからここに落ちたら、あまり這い上がれない旅人も多い」
急におっかない話を始めるものだから、ハンスは返す言葉もなく、思わず水面を見やった。
メクラワニは肉食性の水棲魔獣だ。
日光を嫌い、暗い水底に這うようにして生活しているため、目が真っ黒く、視力はほぼ無いといっていい。
代わりに聴力と嗅覚が異常に発達しており、水中の獲物に容赦なく飛び掛かって噛みつき、肉を食いちぎる。
美しい魚たちが悠々とヒレをたなびかせる下で、そんな獰猛で巨大なワニたちがうようよと這い回っていると思うと、すくみ上がる思いだ。
「ここを通る旅人は滅多にいない。
ここを迂回して森を出ようとすれば三日はかかるが、それでも遠回りを選ぶヤツが殆どだ。
何故あんたはここを通ろうなんて思ったんだ?」
急に自身への興味を向けられ、ハンスはやや拍子抜けした。
他人への興味など無関心だと思い込んでいたので、不意を突かれたといってもいい。
ハンスは抱え込んでいた荷物をそっと撫でた。
「この森を抜けた先にパンリスという町がございますでしょう。
そこに、名のある地主さんがいらっしゃいまして。
私が駆け出しの頃から懇意にさせていただいているんですが、その方には一人娘さんがいらっしゃるんです。
お恥ずかしながら、私はそのお嬢さんをお慕いしておりまして。勿体ないことですが、お嬢さんも私を好いていらっしゃっていて。
まあ、お分かりかと思いますが、地主さんには猛反対されているんですよ。
私とお嬢さんのお付き合いをね。
長い間世話をしてやったというのに、人の娘に手を出すとは何事だ!、ってね。
さんざ揉めたし、一度は縁を切られかけたのです。
それでまあ、紆余曲折ありまして。
条件つきで、お嬢さんのお付き合いを認めてもらえることになったんです。
地主さんが一生を賭けてでも手に入れたい珍品がありまして、それを期限までに手に入れて持ち帰るならば、結婚を認めてやってもいいと。
二年もかかりましたが、やっとそれを手に入れて、持ち帰るところなんです。
明日がその約束の日でして。どうしてもこの沼をまっすぐ抜けねば、約束の日までに帰れないのです。無茶を押してでも、ここを通る理由があるのです」
アルフィナは相槌すら打たない。
けれど彼女は静かにハンスの話に耳を傾けながら、小舟を牽く。
その空気が不思議と心地よくて、ハンスは自然に自分の話を朗々と語っていた。
そしてすっかり語り終えて沈黙すると、アルフィナが振り返った。
「で、その後生大事そうに抱えてるものが、件の珍品だと」
「ええ。方々を巡り、大枚を使って手に入れました。
後はささやかな生活費と、これまでに貯めた蓄えしかもう手元にありませんが、これでお嬢さんと添い遂げられます」
「ふうん。そうまでして、価値あるものかい」
「当然です」 ハンスは憤慨して言葉を返した。
「私にとっては、お嬢さんこそ何よりの宝。何物にも代えがたい存在なのです。
彼女と添い遂げるためなら、無一文になったって構いません」
「無一文になったら、それこそお嬢さんとやらを守る術もないだろうに」
ぴしゃりと言い返され、ハンスは沈黙した。
けれどアルフィナの口調からは、静かな水面に石を打ったような、染み入るものを感じていた。
瞼を閉じ、最後に会った日の、お嬢さんの横顔につい想いを馳せる。
お嬢様は果たして、二年も音沙汰のなかった自分を覚えていてくれているだろうか。
少しばかりの不安に胸が締め付けられた。
「うわあ!?」
「!」
そんな時だ。ドゴン!と激しい衝撃が後方から襲い、舟が激しく揺れた。
ハンスの体が鞠玉のように激しく跳ねて、その衝撃で大事な荷物が腕からぽん!と転がり出る。
そしてぼちゃん、と荷物は沼の中に落ちてしまった。
「しまった、荷物が!」
ハンスは咄嗟に水の中に飛び込んでいた。
馬鹿、とアルフィナが叫ぶ声がしたが、構っている余裕はない。
大事な贈り物をしまった箱がどんどん沈んでいく。重たい水をかきわけ、どうにか底に潜ろうとした。
だが直後、ハンスの視界が黒く染まった。
違う。闇と見まがうような巨体が、目の前に立ちはだかったのだ。
ごつごつとした岩肌のような鱗。鋭い爪と水かきのついた足。大蛇のように長い胴体。
ギザギザに並ぶ巨大な牙を持つ、長い顎。
そして異常なほどに飛び出た、瞼のない黒い目玉。
メクラワニだ。
沼の主がまさに、獲物を見つけたといわんばかりに、巨大な顎をぐばりと開いた。
「ッ──!」
ああ、死んだ。ハンスが覚悟して身構えた直後、後方から強く引っ張られる感触があった。
メクラワニがみるみる視界から遠ざかっていき、やおら水面からハンスの体は飛び出していた。
乱暴に体は小舟に叩きつけられ、ハンスの喉から悲鳴が漏れ出る。
「死にたいのか!この命知らず!」
声を荒げ、アルフィナが眉を吊り上げた。どうやら助けられたらしい。
げほごほと水を吐き出している間、アルフィナは水面を睨み付けた。
三頭のメクラワニが、水面下をウロウロと泳いでいる。
生きた心地がしない光景だ。
「で、でも、荷物が……」
「あんなもの諦めろ!命が優先だろう!」
「でも、手ぶらで戻ったら、二年も待たせた旦那様とお嬢さんに合わせる顔がない!」
ハンスはもう一度、沼に潜ろうと立ち上がった。
けれどアルフィナの掌がその薄い胸をどつき、ハンスは再び舟の上を情けなく転がる。
頭上ではビイビイとけたたましく、伝書鳥が警告音を上げている。
何するんだ、と喚くより先に、アルフィナの指がハンスの胸を押しやった。
「いいか、絶対に舟から下りるな。ここで待っていろ。
舟にはメクラワニの嫌いなベニグサキノコの匂いを撒いてるから、上がってくることはないだろう」
「で、でもアルフィナ、荷物が」
「いいから黙って待ってろ、いざとなったらピリルカが助けを呼んでくれる」
「ピリルカ!?」
「上にいる鳥のことだ!すぐ戻るッ!」
そう言ってアルフィナは踵を返し、一人で水の中に飛び込んでしまった。
ハンスはアルフィナの名を呼びながら小舟のへりに手をかけ、水面から飛び出してきたメクラワニの尾に殴りつけられ,舟ごと押し流された。
幸い舟はひっくり返ることはなかったが、状況がよくなったわけではない。
舟の上からでも、絶体絶命の危機は容易に見て取れた。
「っくそ、どうなっているんだ!?水が濁って見えない……!」
アルフィナはどこへ?まさか単身泳いで逃げてしまったのか?
不安に駆られ、今更襲ってきた恐怖で震えながら、せめてもの抵抗に水面を睨みつけた。
メクラワニたちは水面に近寄っては沈み、また浮かんでは沈みを繰り返す。
濁った水面のせいで、アルフィナの姿は見えない。
一瞬、水の中で何かが光った。ナイフの光だ。
「まさかアルフィナ、一人でメクラワニと戦っているんじゃ……ムチャだ!」
ああ、彼女が勇んで戦ったところで、あの怪物たちに勝ち目などないというのに!
絶望しながら、ひたすら舟の上で辛抱強く待った。
伝書鳥は頭上の木から動こうとせず、水面を見つめている。
数分経った頃、ぷかりと何かが浮かんできた。
メクラワニだ。血を垂れ流しながら、腹を向けるようにして間抜けに浮かんでいる。
何が起きているんだろうと怯えていると、また一匹、また一匹と、事切れたメクラワニが浮かんだ。
呆然とその様を見ていると、ざばりと水面からアルフィナが上がってきた。
「アルフィナ!無事か、ケガは!?」
「別に。たかがワニどもに負ける道理はないさ。それよりほら。これ」
「!」
海藻を頭や肩にへばりつけたまま、無言でずんずんと近づいてくると、小舟に寄りかかってハンスにずい、っと手を差し出す。
その手には、先程落とした、大事な荷物が握られていた。
メクラワニの牙に噛みつかれたせいか、箱は損傷していたが,中身はなんとか無事だ。
ハンスは感極まり、何度も礼を言って、彼女に頭を下げた。
「まさか、あんな危険な所に一人で飛び込んで、持って帰ってきてくれるなんて。
なんと礼を言ったらいいか……でも、良かったのかい。
今回、積み荷の安否は自分で管理するって書いたのに……払える金はないのだけど……」
「別に。たまたま泳ぎたくなって、沼を泳いでいたらメクラワニに喧嘩をふっかけられたから、ぶちのめしたらコレを拾っただけだ」
ふん、とアルフィナは鼻を鳴らし、再び小舟の縄を引いて、沼を渡り始める。
ハンスはしっかり箱を抱え直し、今度は落とさぬようしっかり体に固定した。
沼の対岸が見えてくる頃、アルフィナが私を振り返った。
「私に色恋だの駆け引きだのは分からん。
だが自分の命を省みず、旦那さんとお嬢さんへの誠意のために、あんたは沼に飛び込んだ。
その度胸を買ったまでだ。お嬢さんを大事にしなよ。その荷物以上にな」
「……ええ、ええ!勿論です!」
そうしてハンスたちは無事に、沼を越えることが出来た。
ハンスは改めて、何度もお礼を言ってアルフィナに賃金を渡し(気持ち多めに入れておいた)、別れを告げた。
去り際、アルフィナは目を細め、ふっと薄く笑った。
「駆け落ちしたくなったら、また呼んでくれ。
この沼をまた渡って、最短距離で送ってやるよ」
「そうはならないことを祈ってくれ。また会おう、アルフィナ」
そうしてハンスは大冒険の果てに、お嬢さんと地主の待つパンリスへと、急ぎ足で向かうのだった。
その後どうなったかは──またの機会に。
勿論、君たちにとって嬉しい続きであることに、相違はないと約束しよう。
終。
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