藤田茜

第1話 毒虫と残業

 ある朝目覚めると、上司が毒虫になっている夢を見た。あまりにも大きな図体であったため葬儀屋を呼んでそのまま火葬場に送る夢だった。最後に骨壷を渡されて実家の仏壇に供える何の脈略もない不思議な夢だった。

 実際、上司は毒虫だった。比喩であるにせよ毒虫であることには変わりない。私は毒虫と毎日接しなければならないのだ。殺虫剤で頓死させるとそれまた迷惑極まりないので、やはり火葬場へ直行させるのは正しい気がする。

 今日も出勤して毒虫の罵詈雑言を無限に聞かされる。馬耳東風という言葉を知らないのか、飽きるまでフロアに怒声を響き渡せる。飽きたら個室に戻ってゲームをやるのが彼のルーティーンだ。今ならスマホがあり得るが、お年を召しているせいか、携帯ゲーム機を持ち込んでいる。ブラインドを閉じているつもりらしいが、普通に外から見えている。大抵は暇しているが暇さえあればゲームしているのは公然の事実と言った方がいい。

 一通りどうでもいいことで叱られて4時間ほど潰し、はてさて業務時間の半分がなくなったが、これはもう残業が確定だろう。今日は比較的短く済んだ。よく一日中怒鳴っていることがあるため、それまた残業時間に跳ね返ってくる。

 メンターにそのことを相談したがあの人はねぇ、とお茶を濁された。どうやら私の前任がいたらしい。残業についてもクレームをつけたが固定残業代で30時間分出てるじゃん、と縋り付く藁もなかった。私は毒虫がキレ散らかしている最中、申し訳なさそうな顔で仕事の段取りを考えている。大抵は無茶なことを言われて我に返り、計画とやらが虚無に還るのだが。


 下世話な話、固定残業代は30時間しか貰っていないが、実際には定時から働き始めて、土日も仕事に追われている。それだけで過労死ラインに到達するが、毒虫が威嚇するだけ業務時間を圧迫して、結局のところ土日もフルタイムで働いている。

 土日の何が嬉しいかと言うと、毒虫が出勤してこないので、スタバでキャラメルマキアートをしばきながら仕事できるのがこの上なく幸せだ。別に仕事が好きなわけではない。ただ、ゆっくりのんびり気苦労もない時間が幸せなだけだ。仕事は終わらせなければ8時間コースが待っているので、毒虫が気にいる仕事を終わらせる必要があるが。

 不思議なことにこれで労基が動かないのが不思議だ。毒虫の機嫌がすこぶる悪く月240時間に到達する月もあった。固定残業代は、あらかじめ残業代を払っておくから好きなだけ働かせられる労使契約ではない。残業はそもそも違法で、例外的に残業代を払うことでお咎めがなくなるだけだ。それが3年近く未払いになっている。

 悲しいかな、未払い残業代について執着する気にもならない。プライベートがないからだ。お金の使い道がない。シャツも1週間分まとめてクリーニングに出すし、洗濯物はドラム式洗濯機で乾燥させてる。家事がしっちゃかめっちゃかなので、家事代行に合鍵を渡して掃除してもらっている。それ以外でお金を使うことがないのでお金がどんどん貯まっていく。

 毒虫がいなくなればプライベートも充実するかもしれないが、それ以外にも不安はある。会社の経費でウッドチッパーを買ってもらえないか? 放り込めば華々しく散ることだろう。

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