第18話 マルコシウス、答えられない
こういう湿っぽい雰囲気は苦手だ。料金を受け取り、さっさと退散すべしと領収書を書いていると、「ねえ」と背後で声が聞こえた。
「あなたこれ貰ってくださらない? 私弾けないし、この楽器もここで埃をかぶっているよりあなたに使ってもらった方がいいと思うの」
「い、いやその……大事なものを頂くわけには」
(なんか面倒なの始まった)
「いいえ、ずっとどなたかに譲りたいと思ってたのよ。でも異世界の楽器だから弾ける人がいなくて……楽器ってあれでしょ、定期的に手入れしないといけないのでしょう? 私そういうのも分からなくて、このままじゃダメにしちゃうなあってずっと思ってたのよ」
「いえでも、奥様が帰られたらどうするんですか」
「その時はその時よ。ずっと帰ってこないほうが悪いんだから。それともこんなボロ楽器のなんて押し付けちゃ迷惑かしら」
「そういうわけでは」
顔をあげてマルコシウスを見ると、リュなんとかいう楽器を抱えたまま老婦人と押し問答している。滋ヶ崎を見る顔にはどうしたらいいの、と書いてあった。好きにしろ、と肩をすくめてみせると、頷いたマルコシウスは「わかりました」と楽器を持ち直して微笑んだ。それだけで部屋の中に小さな太陽が増えたかのように明るくなるのだから、美形というやつは凄い。
「それでは……大事にさせていただきますね」
「ええ、ええ! 嬉しいわ!」
また涙ぐむ老婦人に頭を下げ、車に乗り込む。トランクに荷物を放り込んだ滋ヶ崎が運転席のドアを開けると、助手席のマルコシウスは苦虫を噛み潰したような顔で譲り受けた擦弦楽器を撫でていた。大分ボロくなってきたバンのエンジンをかけると、みるみるうちに老婦人とその家が小さくなっていく。
「お前、楽器なんて弾けたんだな」
「人としての嗜みですよこういうのは」
そう答える声は、いつもの人を小馬鹿にする口調に戻っていた。だが、その表情は暗く、先程の微笑が嘘のようだ。
「歌ったり、踊ったり、絵を描いたり、刺繍したり……ずっとやってきましたよ」
「いいご身分だな」
「……そういうことしか、許されなかったんですよ」
はぁー、とため息を付いたマルコシウスは、手の中のリュ何とかを睨みつけた。吐き捨てるように続ける。
「どうせ愛玩用ですからね、私は。せいぜい客と嫁ぎ先に飽きられないよう芸を磨かないと、捨てられてしまいますから」
「……ふうん」
今朝方ペットと言ったのを根に持っているのだろうか。でも自分が買ったんだから自分のものだよなあ、と滋ヶ崎はアクセルを踏む。じきに家についた。
風呂場で今日使ったバケツなどを洗い、ついでに自分の体も流す。リビングに戻ると、ちゃぶ台の上に放置されたままだった首輪が目に入った。そういえばこの問題が残ったままだった、とげんなりした気持ちになる。
「あのさあ、マルコシウス」
畳に腰を下ろし、道具を片付けて戻ってきたマルコシウスに声を掛ける。
「なんですか」
滋ヶ崎の斜め横に腰を下ろしたマルコシウスは、早速楽器のチェックを始めたようだ。細く白い指が艶のある木を撫で、弦を解いて分解していく。
「今日、あそこに娘さんいたら、お前どうなってた?」
本人がおらず、かつ薬を飲んでいる状態であそこまで反応するんだから、本人が在宅していたら更にまずいことになっていたはずだ。向こうだってマルコシウスに反応するだろうし。
華奢な指が震え、それから落ち着かなげに木目の上を滑った。
「……薬が粗悪品なんですよ。全く効かないじゃないですか。こんなんじゃダメです」
「うん、そうかもな。でも現状正規ルートで手に入るのこれだけだぞ」
「向こうも多分、抑制剤は……飲んでると思いますし」
「お前曰く『粗悪品』をな」
「仮に……仮に、何かあっても、悪いのは、αのほうです」
「そうだろうな」
俯いて楽器を弄るマルコシウスを見、滋ヶ崎は頬杖を突いた。
「だから、俺はお前が誰かにうなじを噛まれることがあったら、迷わず可及的速やかにそいつを殺す。いいな?」
「……は?」
「死なないと契約解除できないんだろ?」
「脅しですか? 私がそんなことを信じるとでも?」
顔を上げたマルコシウスの目は、怯えて濡れていた。だが、果敢にも滋ヶ崎を睨みつけてきている。堪らないな、と思う。分かっているくせに無駄な抵抗をしてくるなんて、何ていじらしいのだろうか。
「信じなくていいぜ? ただ俺は俺のものが誰かに害されるのを許せないだけだ」
「私はあなたのものじゃありません!」
「そう言いたいんだったら、自分で自分を俺から買い戻してみろ。それとも殺すか?」
「……っ」
怒りなのか恥辱なのか、白い頬がみるみるうちに赤く染まった。震えていた指が強く握りしめられる。涙でいっぱいになった目は、しかし泣き出す前に強く閉じられた。何かを堪えるように深呼吸を繰り返して上下する肩を、滋ヶ崎はただ薄く笑いながら見ていた。
やがて決心したようにマルコシウスは大きく頷き、滋ヶ崎に首を差し出した。
「わ、かりましたよ……っ、つければいいんでしょう!? ほら!」
「いい子だ」
滋ヶ崎は頬杖をついていた右手を伸ばし、ちゃぶ台の端に追いやられていた首輪を手に取った。バックルを外して、指と同じく白く細い首に巻き付ける。息をするたびに僅かに浮き沈みする皮膚は、真珠のように滑らかに輝いていて、本人の意には沿わないのだろうが、やはり彼が愛玩用に適した存在だということを主張しているようだった。
最後に南京錠をかける。かちり、という小さな音が、部屋中に響いた。
「ほらよ」
柔らかい首筋を撫で、シミ一つないマルコシウスの頬に手を当てる。恨めしそうに滋ヶ崎を見上げる青灰色の目から、ついに雫がこぼれて滋ヶ崎の手のひらを濡らした。
「うう……」
それが決壊の合図だったのか、鼻をすする音と共にマルコシウスの両目からボロボロと涙が溢れてきた。
「そんなに嫌か……」
「い、いやに、きまってる、でしょう」
「偉いぞ、マルコシウス。ご褒美をあげよう」
首輪のフックに指先をひっかけ、軽く引っ張る。「んぐっ」と息を詰まらせて畳の上にマルコシウスが倒れた。その上に跨った滋ヶ崎は、相変わらず大きさの合っていないシャツの中に手を入れた。
すすり泣きが甘い響きを含んだものに変わるまで、そう時間はかからなかった。
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