家族の掟

 暑さも、焦燥も、疲労も感じない。涙とともに感情まで抜け落ちたかのようだ。機械的にマウンテンバイクを漕ぎ、浅い呼吸を繰り返す。向かうはサワタリたちのハイツ。

 足が疲労を訴えても無視する。そんな折、前方に仮設テントが姿を現す。キリストの住処。特に用事もなかったが思いの外、疲労が溜まっていたのか自然と足が止まった。

 マウンテンバイクを投げ転がし、半開きの帳を乱暴に捲る。


「おお、メシアか」


 やけに気力に乏しい声に違和を覚えたのも束の間、顔に青あざを作ったキリストに出迎えられる。ダイキは一呼吸おいて、なにがあったのかを訊ねた。


「異端者どもの仕業よ。天からの恵みを寄越せと」

「サワタリたちが、俺のやった物資を奪いに来たのか」

「然り。飽くなき欲望に囚われた亡者どもめ」


 キリストは立ち上がり、テントの奥に置かれた革鞄を手前に手繰り寄せる。格調高く、色艶のある年代物の革鞄。その表面は内容物の多さに、幾重にも皺を作っていた。


「煉獄都市トーキョーへの巡礼の旅に出ようと思う。ロンギヌスの槍に貫かれる前に。この土地は、邪教の手に染まりつつある。メシアよ、よければ供をしてくれないか?」


 逃げるのも一つの手だ。身の安全が保障されるのならば。ついていきたいのは山々だが、ダイキにはその選択肢はない。もとより答えは決まっていた。


「ごめん、キリスト。俺はまだやることがある」


 そう言って、まだポケットに入れていた新品の携帯食や鎮痛剤をキリストに手渡す。断るのは礼儀に反すると思ったのだろう。すべて受け取ってくれた。少し残念そうに「苦難の末に光のあらんことを」とキリストは言い、ダイキは「達者でな」と返す。二人は互いの意志をたしかめ合うように視線を合わせたあと、それぞれの進む道に足先を向けた。


 外に出たダイキは、ハイツを目指して移動を始める。サワタリと話をつけるために。隷属するのは今日で終わりだ。もう空世辞で機嫌を取り、連中の暴力の捌け口になる必要もない。クインテットの告白が、ダイキに決意をもたらした。永訣の先に答えを出すときだと。


 思案が終わる頃にはハイツの前に到着した。相変わらず一階はすべてドアが開け放たれ、入口近くには乱雑に洗濯物や工具が置かれている。中にはダイキが届けた物資も、未開封の状態で紛れていた。盗みを働く間抜けはいないと高を括っているのだろう。傲慢で、鼻持ちならない態度が、生活からも滲み出ている。ダイキは足早に崩れかけの階段を上がった。


 玄関ドアの前に立ち、いつもより強めにノックする。三秒と経たないうちにドアが隙間を作った。作業着姿のイヌイが、脂でてからせた不機嫌そうな顔を向けてくる。


「やっと来やがったか、てめえ」


 挨拶はせず、半開きのドアに手と体を捻じ込む。予想外のことだったのか、イヌイは口をぽかんと開けて、たどたどしく後退する。思い出したように吠えてきたが、ダイキはそれを背中で受け止めて居間に上がる。そこではサワタリとキジマが、トランプに興じていた。


「イヌイの叔父さんに挨拶ぐらいしろよ、ダイキ」


 子どもを窘めるような口調で言い、サワタリは顔を覆うように持ったトランプの上から鋭い目を向けてくる。それに気づき、キジマが立ち上がる。上背のあるアンドロイドのため、向かい合えばダイキとは頭一つ分の差が生まれる。かなりの威圧感だ。


「オマエ、ナマイキジャネーカ」


 キジマがダイキの胸倉を掴む。体を持ち上げられて、つま先が宙に浮く。それでもダイキは臆面もなく、キジマの機械的で貧相な顔を睨む。ぎし、とキジマが拳を固める。


「ガン、トバシテンジャネーゾ! コラ!」


 合金製の右ストレートが飛んでくる。まともに食らえば死ぬ。キジマの内蔵メモリには、手加減の三文字はない。次の瞬間、小さく見えていた拳が視界のほとんどを覆い隠す。


「まあ、待てって」


 拳はすんでのところで止まった。顔からおよそ二センチ。ダイキはゆっくりと瞬きする。サワタリはキジマに手を放すよう顎で示し、ダイキは自由を許された。


「遅めの反抗期か?」


 座れよ、とフローリングを叩くので、ダイキは渋々、腰をおろす。うしろからは致死性の視線が向けられる。サワタリは長机にトランプを置き、懐から煙草の箱を出す。


「俺は怒ってないぜ。気分は浮き沈みするもんだ。特に二十代のガキの頃なんかはそうなる。常にどちらかに偏ってるのは、うつ病かシャブ中の野郎だけだ。そうだよな、イヌイ」

「自分はシャブなんかやってませんよ」

「冗談だよ」


 大袈裟に笑うイヌイとキジマ。サワタリは満足げに口に弧を描き、紙巻き煙草を咥える。すかさずキジマがライターを寄せた。サワタリは宙に紫煙を泳がせる。


「で、人魚の手がかりは掴んだのか?」

「俺は、あんたらとは縁を切る。金輪際かかわらない」


 ダイキの発言に、サワタリは伸ばしっぱなしの黒髪に五指を通す。乾燥した皮脂が、ぽつぽつと長机に落ちる。紺色のタンクトップから飛び出す上腕に、力が入るのがわかる。


「どうしたんだ、ダイキ。親父を泣かせるのかよ」

「あんたはアカリを使って、俺を利用していただけだ。屑だ」

「こいつは参った。親父失格だとさ」


 サワタリは破顔し、ダイキのうしろの二人を交互に見やる。数瞬遅れて、二人とも下卑た笑い声を上げ始めた。指の間で煙草を弄びながら、サワタリも目を細める。その刹那。


「ふざけんなよ、お前」


 どすの利いた声がしたと同時に、煙草の赤い穂先が左目の目尻に押しつけられる。


「あ、外した」


 絶叫して、身悶えるダイキ。痛みに眼輪筋が引きつり、瞼を開くことができない。そこをイヌイとキジマに仰向けにさせられ、両手両足を押さえられる。必死に藻掻いても拘束が弱まることはなく、右目が映し出す視界の端からサワタリが悠々と近づいてくる。


「馬鹿だな、ダイキ。お前は、鉢の中を世界だと思い込んでいる金魚みたいなもんだ。それだから可愛かったのに。外の世界を知ったら駄目だろうが」


 黒染みの広がる天井がサワタリの背中に隠れ、視界のほとんどが恐怖に占有される。呼吸の度に煙草の煙を深く吸い込んでしまい、肺が張り裂けそうになる。


「お前に、煙草一本分の敬意を払おう」

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