退廃的な日常

 翌朝、ダイキは日の出とともに目を覚ました。吊革に紐で括った懐中時計は、五時を示している。文明社会が終わっても、人間は時間から逃れられない。

 缶詰の一つを開けて口に流し込み、猟銃を肩に下げて外に出る。蒸し暑い夜のせいで肌の表面はべたついていたが、川から水を引く技術も知恵もない。


 また適当に水浴びすればいい。そう決めてダイキは、住処にしている電車の裏手に回る。そこにはガソリン式発電機があり、隣にはマウンテンバイクが立て掛けられていた。ダイキは発電機の横っ腹を軽く蹴る。中身がない。おかげで昨夜は扇風機も使えなかった。


 基本的に燃料は放置車両から拝借するのだが、二十一世紀末の燃料は多岐にわたる。その中でもガソリン車は少数派。毎度のことながら探すのは骨が折れる。生存者から買った方が早い。ダイキは電車から缶詰を入れた袋を持ってくると、マウンテンバイクに跨った。

 車道に点在する車と、生い茂る雑草の間を颯爽と走り抜けていく。いつもはぬるい風も、朝だけは涼しく感じる。そのまま町の方へ走ること三十分。


 周囲には人工物が増え、道は土からアスファルトに移り変わっていく。立ち尽くす高級車は、すっかり物色されたあと。かつての富と名声の象徴は今では鉄屑以下へ。

 代わり映えしない道を進んだところで、ダイキはブレーキを握る。前輪が少し滑ったのちに車体は止まった。車道を両側から挟む住宅、その右手に小ぶりな仮設テントが見える。大きさは四畳ほど。馴染みの人間の住処だ。自転車を路肩に寝かせる。

 足早にテントに近づき、入口の帳を少し捲った。


「キリスト、起きてるか?」


 それには「メシアが降誕なされたか」と日本語で返ってきた。いらっしゃいませ、の意だ。ダイキは帳を全開にして、薄暗いテント内に陽光を送る。すると、半袖短パン姿の白人男性が照らし出された。坊主頭に、金色の顎髭をたくわえた高年の人物。自らを偉人の名で呼ぶ変わり者だ。キリストは小さな目をさらに細め、手で帳を降ろすよう促す。


「今日はなにをお探しかな」


 好々爺こうこうや然とした朗らかな問いかけに、ダイキは簡潔に答える。


「ガソリンがほしいんだ」

「エイメン」


 そう言って、テントの奥を漁り始める。キリストは日本で古物商を営んでいた過去がある。それで日本語が堪能なのだが、言動は不可解極まりない。無論、キリストも本名ではないのだろう。現在は、生存者との物々交換を活計たつきとしている。


 最初は人魚に思念を読まれないために、支離滅裂な言動を繰り返しているのだとダイキは思っていた。他には崩壊した世界を前にして、気が触れてしまったのではと邪推したことも。最近では、狂人という線が濃厚になりつつある。なんにせよ不気味な男だった。


「今なら、聖母マリア様の奇蹟もサービスするよ」

「いらない」


 おそらくは酒を指すのだろうが、反射的に断った。ダイキは袋に入れた缶詰をキリストに差し出し、かびの生えたポリタンクを受け取る。ずっしりと重い。当分はもつはずだ。


「さてメシアよ、信託は授かってきたかね?」


 帰ろうとしたところに、背後から声がかかる。キリストは雑談を所望のようだ。無下にもできず、ダイキは粘着テープが何重にも貼られたテントの床に座る。


「昨日は遣いで、狩りに行ったんだ。人魚を獲ってこいって言われて。無理難題だ」

「まだ異端者の従者に甘んじているのかい」

「サワタリさんのことか?」


 キリストは首肯する。


彼奴きゃつはパンドラの箱そのもの。底には希望はおろか、一切の救いがない。かかわる者のことごとくを辺獄へと誘う、忌まわしき悪魔よ。ああ、エイメン」


 言わんとすることはわかる。それでもダイキには端から選択の余地はなかった。語り聞かせるだけ無駄なことだ。適当に相槌を打ち、話しかけた人魚のことは煙に巻く。


「ごめん、次はサワタリさんと約束があるから」

「ああ、こちらも。煉獄都市トーキョーにいる聖戦騎士から、親書を賜っていたのだ。早急に確認し、返事を書かねばなるまいて」


 なにを言っているのか理解に苦しむが、多分キリストも用事を思い出したのだろう。そう決めつけて、ダイキは軽く挨拶してからテントの外に出た。

 それから、さらに十五分ほどマウンテンバイクを走らせる。時刻はちょうど六時を過ぎた辺り。太陽のぎらつきも本調子になる。白いTシャツの背中に汗で円を描く頃、目的地に到着した。プレハブの二階建てのハイツ。部屋は全部で八つ。


 ダイキは駐車場に自転車とポリタンクを置き、猟銃だけを背負って階段に向かう。一階は物置や洗濯物干しとして使われ、二階のみが居住空間となっている。鳥の糞のこびりついたモルタル壁を横目に、数段に一段、歯が抜けたように踏段のない階段を上がる。

 二階に踏み込み、一番手前の部屋をノックする。電気の供給は止まっているので、ドア横に設置されたモニターでのやり取りはできない。しばらくしてドアが少しだけ開く。

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