世界最後の輝き

島流しにされた男爵イモ

プロローグ

 小さな雨粒がベランダの手すりに跳ねていた。大きな音を奏でるわけでもなく、同化するように錆びた表面を静かに濡らしていく。夕暮れ時の小さな発見。それを一人の若い女が居間から見ていた。ベランダと向かい合うように配置した、三人掛けソファに腰かけて。黄色の線が横に入った黒地のジャージを身に付け、色白の顔には涅色くりいろの前髪がかかっていた。


 女はそれを肩にかかるほどに伸ばした、うしろ髪の方へと流して背もたれに体を預ける。重心の変化にソファは節々に空いた穴からクッション材を飛び出させ、薄く埃の積もった表層に皺を刻む。まるで老体に鞭を打たれ、苦悶の表情を浮かべるが如くに。


 僅かな軋みを伴ったソファの声を意に介さず、女はぺたぺたと手すりと一体化していく雨粒に耳を傾ける。静の演出は、太陽が沈み始めてからしか味わえない。日中は、主なき今も愚直に都市再開発を進める工業用アンドロイドたちの騒音に阻害され、生き残った人間たちの黒い思念が神経に爪を立てる。陽の出ている間は、心の休まるときがない。


 定住などありえない。現に今、女のいる場所も仮住まいだ。二階建ての一軒家であるが、一階は前の家主の家財道具で塞ぎ、二階は居間だけを使用。窓は取り払われ、抽斗ひきだしとソファだけを置いた生活感に乏しい空間がそこにある。四方八方に蜘蛛が巣を張り、中間領域と化した窓から風に乗ってやってくる木の葉や砂が、床に好き勝手に模様を描いていた。


「都市部はやっぱり息苦しいなあ」


 そう小さくこぼして、ソファの下に揃えた登山靴を履く。アンドロイドみたく重厚な足音を居間に響かせ、隅に置いた三段から成る抽斗の前に立つ。塗料の剥げた取っ手にはタグが付けられていて、下から順に「鉛筆」、「君へ」、「世界最後の」と記されていた。

 女は最上段の取っ手を引く。そこには、スエードの上に載せられた二枚の鱗があった。大きさは直径三センチほどの円鱗で、透徹した宝石のような瑠璃色に染まっている。


「故郷と君を思い出すよ」


 陶器でも扱うような優しい手つきでスエードに鱗を包み、ジャージのポケットに入れる。残りの二つの段からも、タグ通りの品を出して空いた方のポケットに捻じ込んだ。女は満足げに肯き、ベランダに顔を出す。手すりを濡らした雨はもう止んでいた。

 雨上がりのかすかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。女は辺りを見回す。前方には、車が渋滞を起こしたまま時間の止まった国道。道も車も蔦に絡まれ、草木の一部になっている。視界の両端には背の高い建物が地平線まで続く。まるで世界が棒グラフのように見える。


 人類の進化と衰退の歴史をなぞるように、遠方のビルは旅客機に突っ込まれて、棒グラフは途中で折れていた。陰影が描く黒と白。まさにカメラのフィルター越しの世界。

 そんな景色に女は、陸に上がって十年が過ぎたときのことを重ねる。今から六年前。その頃は農村部を点々としていた。同族たちの思念から、都市部が危険だと知ったからだ。


 都市部は倒壊の恐れのある建物に囲まれ、日がな一日工業用アンドロイドがそれらを壊しては造るという不毛な場所。そして、野蛮な人間たちが多く隠れ潜む場所だとも。無用な諍いに巻き込まれて死にたくない。ましてや人間狩りをする趣味もない。

 だから辺鄙な農村部を生活域にしていたのに、そこにも人間はいた。それから紆余曲折を経て今に至る。とはいえ女は後悔していなかった。むしろその道程があったからこそ、危険な都市部で生きる勇気をもらったとさえ考えていた。


「大丈夫。私たちは大丈夫」


 ジャージの上から、ポケットにある鱗の感触をたしかめる。生憎と、スエードの厚みしか手には伝わらなかった。それでも構わず、女は笑みを湛えて空を仰ぐ。そこには暗澹あんたんとした世界の様相を映したような濃い雲が立ち込めているが、女の心は晴れ渡っていた。

 当然、無味乾燥な世界と剥き出しの殺意への慣れもある。あまりに長い時間を陸で過ごしてしまった。そのせいか、故郷で暮らしていたときよりも心はささくれ立っている。なのに、まだ温もりは内にある。それが幾許かの余裕をもたらした。


 まだ生きていていいのだと。生きなければならないのだと。


「約束だもんね。君との」


 己に言い聞かせるように呟いて、瞼を閉じる。辺りの思念に意識を向ける。深い海の底に揺蕩たゆたうように穏やかな気持ちで。やがて一斉に、思念の波が押し寄せてきた。


『これだけしか食糧はないのかよ。人魚を食う日も近いな』

『男は全員始末しろ、女はまだ使える』

『ゴ苦労様デシタ。本日ノ目標ヲ達成シマシタ』

『……新人類機構に栄光あれ!』


 それらの声が途切れると同時に、遠方の路地で火の手が上がった。次いで悲鳴が聞こえる。殺人と略奪とみて間違いない。都市部に入って十日連続で続いている。農村部と比べて多くの物資が眠っており、新人類機構からの物資の空中投下が頻繁に行われていることが原因だろう。都市部では生存競争が激しい。利己的な人間たちの浅はかさには嫌気が差す。

 そんなことを思って瞼を開けた折、背後で物音がした。

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