4.共感(加筆)
じんわりと意識が浮上して目を開く。
身体を包み込むフカフカの広いベッドと、夜明け前の僅かに色付いた空を縁取る見馴れない窓枠。
あぁ良かったここは夢の続きだ。と、布団に潜り込みながら安堵の息を吐いた。
(昨日はいつの間に眠ったんだっけ…)
疲れていたのか、風呂と服を借りて部屋に案内された所までしか記憶にない。
ベッドに体を預けた途端に睡魔に負けてしまったらしい。
(まぁ、色々とあったからな…)
まだ少しの違和感を拭えない左側の額。
コラーダの言った通り治癒力が上がっているのか、風呂に入る頃には縫ったわけでもないのに沁みる事もないくらいに傷口は閉じているようだった。
それでも、指でなぞれば不自然な凹凸。
左の目も瞼が重く感じ、完全には開いていないような気がする。
「仕方ないか…」
元々あの灰皿は物心付くか付かないかの頃に亡くなった祖父の物だった。
近頃手に取ってはいなかったが、思い返せば小学校に上がるくらいまでは重くて片手で持つのも難儀していたような記憶がある。
居間の
よくもまぁ、あんな物で人を躊躇いなく殴れたものだ。
(人と思われていたかも怪しいな)
左手の甲に残る小さな火傷痕に溜息を吐く。
薄暗い部屋で思考に沈むと思い出したくもない記憶ばかりが浮かんでしまう。
纏わり付いた煙草灰の臭いまでが蘇ってきそうで、振り払うように身体を起こした。
膝下丈のワンピースから晒された素足をベッド脇に下ろせば、昨夜の風呂上がりに服と共に用意してもらった靴が揃えて置いてある。
例えるならバレエシューズのような布地のペッタリとした軽い靴は、風呂場から部屋への廊下を少し歩いただけの付き合いなはずなのにとてもしっくりと足に馴染んだ。
(少しだけ、外の空気を吸いに行こう)
靴を履いて立ち上がり、視界に映るサイドテーブルへと立て掛けられた聖剣に手を伸ばした。
自身の行動によってとてつもない価値を付与してしまったらしい銀の剣。
置いて行くのも忍びなく、纏わせたままの革紐でそれを腰元に据えてから扉へと進んだ。
――カチャリ。
なるべく音を立てないようにと廊下へ出る。
夜の内に人の気配を忘れ去ってしまったかのような静寂が支配する長い廊下。
朝焼けもまだのこの時間だ。寝静まっている子供達を起こさないようにと注意しながら、記憶を頼りに玄関を目指した。しかし──
「あぁ、残念。閉まってる…」
たどり着いた目的の玄関扉には内側からも鍵が無ければ開けられない施錠がされており、外に出る事は出来なさそうだ。
(夜の内に子供が脱け出したりしたら大変だし、そりゃしっかり戸締まりしてるか…)
窓から出る事も出来なくはないが、そこまで必死になる事でもない。
外に出るルートを他に知らないので少しばかりの名残惜しさを抱きつつ、今歩いて来た廊下に踵を返す。
その時――カシャン。と、広い廊下の何処からか微かな音が響いた。
(もう誰か起きてるのか?)
部屋に戻っても退屈なので、音の出所を確かめようと再び方向を変えて歩き出す。
しばらく進めば長い廊下の突き当たり、他とは違う雰囲気の扉を一つ見付けた。
(ここ、勝手口かな)
分厚い木の一枚板で出来た扉には鉄製の
屋敷の端の壁──その先はきっと建物の外だろう。
「…あれ?」
よく見てみれば南京錠の留め具が外れていた。
「開いてる…」
先程の音はこの南京錠を開けた音かと思いつつ、
丸い取っ手を捻ってみれば扉は簡単に押し開く。
その先は予想の通り、澄んだ朝の風が漂う外へと続いていた。
「はぁ…」
一歩を踏み出し、部屋の窓から見た時より幾分か明るく色付いた空の下で息を吸う。
春先の朝露の匂いと澄んだ空気が肺を満たして心地良かった。
深呼吸を終えて周りを見渡してみれば近くに手押しポンプ式の井戸。
(こんなの、使った事ないな)
映画の中でだけ見た事があるような井戸のポンプを上下して、出てきた水で顔を洗う。
恐ろしく冷たい水に少しばかり震えあがった。
人が見てないのをいいことにスカートを引っ張り上げて滴を拭えば頭が随分とスッキリする。
(鍵を開けた誰かさんは何処だろう?)
見える範囲に人の気配はない。
屋敷を囲う高い柵に沿った道を、再び正体の知れない人物を求めて歩き出す。
「ここも、開いてる」
屋敷の真裏にひっそりと存在する裏門に、またしても役目を果たしていない閂と錠前がぶら下がっていた。
門の外には小さな林。
薄暗い時間なので先は見えないが、明るい時間なら大した目隠しにもならないだろう。
扉とは違って取っ手すらない門を押し開けて木々の間を進んだ。
(ここは…)
多少の木立ちを抜けて行き着いた先、文字の刻まれた幾つもの石盤が整然と地面に立ち並ぶ。
文字は読めないが、どうやら人の名前が彫ってあるらしい。
「お墓、かな…」
妙な確信を持って呟いた。
墓石というのは形や文化に違いはあれど、何処と無く独特の雰囲気が似るものだ。
地平線まで見通せる草原の中で、それなりの視界を埋める石の群れを見渡す。
すると、少し離れた場所で墓石の前に誰かが佇んでいるのが目に入った。
斑に白髪が混じった頭と上質な生地を纏う大きな背中…
どうやら、自分が痕跡を辿って追っていた人物は屋敷の主人その人だったようである。
「おはようございます。シャルトリューズ様」
驚かせないように、視界に入る位置まで回り込んで足音を立てながら近付いて声を掛けた。
「おはよう、マリー。随分と早いお目覚めだな」
「えぇ。お互いに」
すっかり白んできた空の下、この地の領主である男が昨日と同じ顔でニカリと笑う。
「こんなに早くからお参りなんですね」
「あぁ。昨夜は暗くなってから帰ったのでな。遅くなってしまったが、新たな竜血の誕生を報告しに来たんだ」
視線の先には周りと比べて一際大きな石盤。
整然と並ぶ列からも外れ、それだけが先頭のように飛び出した位置に立っている。
「お身内ですか?」
身分の高い人の墓標なのだと思った。
この辺りで一番身分の高い人は目の前にいる。
「あぁ。妻と息子だ」
返答を受け、シャルトリューズは独り身だと言っていたコラーダの言葉を思い出した。
(独り身って、そういう…)
間違ってはいないのだろうが、情報は正確にしていただきたい。
何も知らず無神経な質問をしてしまった。
「気にしないでくれ、もう40年も前の事だ」
こちらの気まずい表情を察して微笑む。
「アウローラの番だったラスティの暴走に巻き込まれていっぺんに、な」
初めて聞くはずの出来事の中、聞いた事のあるワードが溢れている。
つまりは自身が英雄の称号を得た時、彼は同時に家族を亡くしていたのか。
「敵討ちは果たせたが、そんな事をしても一度失ってしまった家族や仲間は戻らない。あの頃を思うと君が護ってくれた今日という平和な朝が奇跡のようにさえ思える」
正面へと向き直り「改めて感謝を」と深々と下げられた頭に、何ともむず痒い気持ちが襲い来た。
「みんな、口を揃えて竜を打ち倒すのは尊い事だと言います。竜血の戦士は国の為、人々の為、そして竜の尊厳の為に命を懸けた高潔な英雄だって」
(そう信じているからこそ、どうしようもなく疑わしいはずの私の存在でさえ否定出来ないのだ)
「だけど、私は自分の事しか考えてなかったから。貴方とは違う。本当は誰かに感謝してもらえるような大層な人間じゃないんです」
目を逸らし、右手で首の後ろを撫でながら白状する。
感謝の気持ちを無下にする卑屈さと居心地の悪さにどんどん声が小さくなった。
「…」
しばらくの沈黙の後、唐突にポスンと大きな手が頭頂部を包み込みワシャワシャと髪の毛をかき混ぜられる。
「国を救った竜血の戦士。…かつての自分も、話に聞く歴代の竜血様を高潔で高尚なものだと思っていたな」
今はその限りではないといった口ぶりだ。
「マリー。少し、俺の昔話に付き合ってくれないか」
地べたに胡座をかいて腰を据え、墓石に刻まれた文字を指先で優しくなぞるシャルトリューズ。
疑問符を浮かべながらも、先を促すように隣へと
並んで腰を落とした。
「40年前、俺が竜の谷に駐屯する部隊へと配属されてまだ日も浅かった頃の話だ。暴走したラスティに兵舎を破壊され、立ち向かった仲間がいとも簡単に叩き潰されていく中。怯え、震える事しか出来ないままに我々はラスティを取り逃した。やがてこの街を襲い暴れるラスティに追い付き、何とか応戦を始めた仲間達をよそに俺は必死に家族を探したよ」
心許ない若き新兵の話は、とても目の前に居る気風のいい豪傑の回顧録とは思えない。
「俺はな、家族の手を引いて逃げようと思っていたんだ。…だが、見る影もなく潰された家の瓦礫の下敷きになっているのを見付けた時、既に妻も息子も息絶えていた。二人の骸を背にしてラスティに立ち向かった時、竜の尊厳だとか国の為だとか…そんな高尚な思いが有ったなんてとても言えない」
此方の腰元に据えられた聖剣を一瞥し、シャルトリューズは眉根を寄せた。
伴侶を屠った者としての、アウローラへの申し訳なさ故だろうか。
「独善的な自己満足と怒りをぶつけて殺した事を、しっかりと自覚している。だから…マリーの思う、人々から純粋に向けられる感謝の言葉を素直に受け入れられない気持ちも理解できる」
出会った人々は口を揃えて言った。
"竜血は高潔な英雄だ" と。
それはつまり、今代1人きりだった竜血様が胸の内に秘めた
「ハリボテの英雄を演じながら俺はずっと居心地の悪さを感じていた。…だが今回、君に救われた者の一人として心から言える。
ありがとう、マリー。
たとえ独り善がりが招いた結果であったとしても関係ない。君の存在が救った世界がこの国に事実、今も続いているのだから」
本人しか知り得ない心内なんて、存外他人は気にしない。
どんな心持ちで挑もうとも、成し遂げた末に得られる名声なんて物は事実救われた人達からの純粋な感謝でしかないのだ。
「おかげさまで俺も今、40年越しに息が吸えたような気がするよ」
日の目を見ない濁った心を抱えて生きるのは、きっと誰だって苦しい。
自分というちっぽけな存在が、多くの人々に慕われるシャルトリューズという人物の心の
(ほんのちょっぴり、自分を誇ってもいいのだろうか)
太陽が地平線から顔を出す。
草原だと思っていた一帯が黄金色に輝くのを背にシャルトリューズは立ち上がった。
「さて、そろそろ戻るか」
風が吹き、地平線まで続くたわわに実った麦の穂の海が波打つように揺れる。
「また来るよ」
肩越しに妻子の眠る墓標を振り返り、領主はとびきりの優しい声で告げた。
(これが本来のこの人なのだな)
恐れを知らず、憂いを豪快に笑い飛ばし、何者にも隔たりなく親愛の情を与える。
そんな…ご立派な勇者様だと思っていた。
だけど本当は人並みに怯え無力な己を悔いて、守れなかった家族への愛情を忘れられないだけの…1人の夫であり父親でしかない。
(その生き方を羨ましいだなんて言ったら怒られるだろうか)
木立の先の裏門を目指して墓地を立ち去る大きな背中を追い掛ける。
横に並んでちらりと見上げれば目が合い、シャルトリューズは困ったように微笑んだ。
「さっきの話、他の奴らには言わないでくれるか」
「はい。お互いに、秘密です」
口元に指を立てて返した答えに面喰らった顔をする英雄様へと微笑み返す。
(明日も夢の続きを生きていたい。昨日そう思わせてくれた人々の温かさは、この人が守ってきた世界の結果だ)
自己満足の懺悔がそれを歪めてしまうというのなら──
「貴方と一緒にハリボテの英雄を演じてみるのも、悪くない気がしたんです」
「…そうか…」
穏やかな声。
大きな掌がポスンと背中を叩いた。
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