勉強を始めましょうか
私の部屋へと戻る間、隣を歩くノアは私の動きに目を光らせていて、回れ右してシルバの後を追えるような隙は微塵もなかった。
「さて、勉強を始めましょうか」
椅子に座ったノアはそう言って机に分厚い本を広げた。
「勉強って……今そんなことしてる場合じゃないでしょ! こんなことしてる間に国外追放が決定するかもしれないのに!」
ノアは本をパラパラとめくって、こっちを見ようともしない。
「かもしれない、ではないのです。旦那様は国王から宣告を受けに行っただけ。結果は元々決まっていたのですよ」
「だって、もし嫌がらせをしてたのが間違った情報だったら追放になんてならないんだから……」
「いいえ、違います。お嬢様に関する負の情報が国王の耳に入った時点で国外追放は決まっていたでしょう。国王が旦那様を通じてお嬢様に確認を取ったのはただの形式的なもの。その答えには初めから意味なんてないのです」
「そんなの……そんなのおかしいでしょ!」
ノアは本から顔を上げ、私に冷ややかな目を向けた。
「お嬢様は貴族令嬢でありながら王族のことをあまり理解していらっしゃらないようですね。あの方たちが白と言えば明らかに黒いものでも白になるのです。ですから国外追放になるかどうかを憂うのは、それこそ今している場合ではないかと」
私は拳を握りしめた。ノアの言っていることは正しいのかもしれない。でも、それでも私は……!
「だったらどうしろって言うのよ! 国外追放の宣告を黙って待ってろっていうの?」
その時、ノアは手元にあった本を私の首元に突き出した。思わず後ずさる。
「威勢がいい事は大いに結構。ただ、少々聞き分けが悪いようですね。自分がこのような結果を招いたという自覚がありましたら、さっさとお座りください」
シルバの後を追いかけようとしたときもそうだったけど、この男は危険な匂いがする。口調はへりくだっているようだけど、私が意にそぐわない言動をしたら平気で手を出してくるだろう。
どんな相手にも隙はある。今はこの男の指示に従った方がよさそうだ。
「分かったわ」
私は席に着いた。
あれからどのくらい時間が経ったんだろう。カーテンの閉め切られた部屋では外の明るさも分からないし、壁にかかっているはずの時計も取り外されているみたいだった。思考は霧がかかったようにぼんやりとしている。
「お嬢様、手が止まっています」
ノアに言われて再び手を動かそうとするが、手元の視界が歪んで上手く書けない。
食事の時間が三回あった気がするから一日以上は過ぎてるのかな……食事と言ってもノアがパンを持ってくるだけで、食べている間もずっと講義を聞かされていた。
諸外国の歴史から始まって、他言語、経済学、政治学、宗教学……あとは記憶が曖昧だ。そして今は経営学の利益計算をやらされている。
なんで今こんなことをする必要があるのかと聞いても、「それを説明する時間はない」と一蹴されるだけ。
ずっと椅子に座っていて体が痛い。それに膨大な知識を一度に詰め込まれて頭が溶けそう。そんな風に思っていたのは前の話。今は頭がどんよりと重たくて、今にも瞼が閉じてしまいそう……
バンと机を叩く音で目が覚めた。
「寝ている時間なんてありませんよ。この程度の知識はあって当然のことなのですから」
そう言ってノアは机に広げられた教本を指さす。
「利益計算は出来て当然。諸外国の政治体制や動向も分かっていて当然。他国の言語が自在に操れないのはもはや話にもなりません。当たり前のことなのですから出来ないはずがない。分かりますよね?」
「……はい」
「それなら手を休めないでください。まだあなたのやるべきことは山のようにあるのですから」
『**さん、頼んでいた資料作成は終わったかしら』
私のデスクにやってきた上司はそう言った。
『すみません、他にも抱えている仕事があるのでそちらはまだ……』
『まだ終わってないの!? 忙しいのはみんな同じなんだから、自分だけが大変だなんて思わないことね』
そう言って見下すような視線を向けた。
『申し訳ありません……』
『今日中に必ず終わらせてよ。それと議事録の作成もデータ送っておくからやっておいて。ったく、それくらい自分で考えて行動してほしいんだけど』
『はい、申し訳ありません……』
今日、何回謝ったんだろうか……昨日も、その前も、毎日謝ってばかり。この空間にいるときは自分がどれだけ周りに迷惑をかける無能な存在か思い知らされる。
「申し訳……ありま……」
そこで意識が途絶えた。
目を覚ますと、私はベッドで横になっていた。
「お嬢様!」
そう言って駆け寄ってきたのはアリスだった。
「どうして……ここにアリスが……?」
部屋を見回す限り、ノアの姿は無かった。
「あの男が私のところにやってきたのですよ。『二時間後に戻るからそれまで世話役をしていてくれ』と。慌てて部屋に来てみたらお嬢様が苦しそうな表情で眠っていました」
「でも私と会っているのがお父様にばれたらなにか罰を与えられるんじゃ……私のせいで……ごめんなさい……」
アリスは驚いたように目を丸くした後、優しく微笑んだ。
「ご安心ください。旦那様はまだ戻られていません。あの男も自分から私を呼んだのですから、旦那様には言わないでしょう」
「そっか……よかった……」
「あの男が戻ってくるまで少し時間があります。お嬢様さえよければ、私の話を聞いてもらえませんか」
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