第六章 幸せな花嫁

 本宅へ戻って二日経った本日、フォーミリオ侯爵家は朝から来客の対応で慌しく忙しない。

 それもその筈、昨夜のうちに早馬で知らされたのは、この国の第一王子であるジル・ルーディアナ・エルゼクトと、王室付魔導師のゲネシス・フーリジアン来訪の知らせだったのだ。

 肩書きだけ見ればとんでもない人物の訪問の知らせだったが、アズベルトからしたら旧友の来訪である。ここに来る用事もおおよその検討がつく事から、公式の訪問では無いととったが、家の人間にしてみたらそういう話では無い。もちろんカナにとってもだ。


 と、言うわけで、カナは朝からメイド長のコーラルを筆頭に数人のメイド達の手によって、貴婦人へと姿を変えられているところだ。

 派手にならず素朴にもならず、主張すべきところは主張する。カナリアの美しさが存分に生かされたメイクもヘアアレンジもドレスも、彼女を知り尽くし愛しむメイド達にかかれば、非の打ちどころなどあろう筈も無い。


 結婚式の予行演習とばかりに気合いの入った彼女達に仕上げられたカナは、同じく決して友人を迎えるだけの姿では無いアズベルトに熱い視線を送られながら、来客を知らせる声に共に玄関ポーチへと向かったのだった。




 アズベルトと執務室に入ったジルを見送り、カナは何故か応接室で目の前に座る美しい人を眺めた。

 てっきりアズベルトに用事があって来たと思っていたゲネシスが、何故か今、カナとお茶の時間を過ごしている。以前会った時と同じ、黒のローブに身を包み、真っ黒な長い髪を後ろで束ねた美しい姿で、ナタリーが淹れたお茶を美味しそうに嗜んでいる。実際高貴な方なのだろうが、ジルと並んでも全く違和感の無さそうな所作とオーラに気圧されてしまいそうだ。


「今日も一段と美しいね、カナさん」


 そう微笑みながら誰よりも美しい笑みを零している。

 ゲネシス様程では……と言う声をグッと飲み込み、負けじと微笑みを返すと、カナは疑問を直球でぶつけた。


「アズにご用事だったのでは……」

「それはジルの方。私はカナさん、君と……」


 そこで言葉を切ると、その眼差しをカナの少し後ろに立つナタリーへ向ける。


「彼女に」

「……っ」

「私と……ナタリー、ですか?」


 ゲネシスの意向もあり、現在この広い応接室には三人しかいない。何故か気にはなっていたが、ゲネシスにははっきりと目的があったようだった。


「近くに行ってもよろしいか?」

「え? あ、はい」


 許可を取ると、ゲネシスはその場を立ち上がり、ゆっくりとした動作でカナの正面に膝をついた。その仕草に恐縮し動こうとしたが、ゲネシスにそのままでと言われ居住まいを正した。

 近しい距離で瞳を覗かれ、浮世離れした美しさに思わず見惚れそうになってしまう。


「カナさん、肩に触れる事を許してくれるかい?」

「っ!?」


 こちらを見つめる瞳に憂いが滲み、カナは彼が何の事を言っているかに思い至る。


「ゲネシス様……」

「分かってる。……大変だったようだね」


 心配するように眉尻を下げる彼に微笑みを返す。この人もまた、アズベルトと自分に対し、心を砕いてくれたのだろう。


「私なら大丈夫です。アズを信じていましたから。……それに、ゲネシス様がくださった腕輪のお陰で大事に至りませんでした。本当に、なんと感謝申し上げて良いか……」


 あの腕輪がなければ、今ここにこうしていられなかったかもしれない。それは、アズベルトも同じ思いだった。

 その時の事を思い出すように、カナは腕に触れた。そこにあった筈の腕輪は、役目を終えてすぐ外れてしまった。


「役に立ったのなら本望だよ。……今日はもう一つ、君に贈り物をと思ってね」

「そんな、これ以上頂く訳には……」


 いいからいいから、と茶目っ気たっぷりに片目を閉じると、ゲネシスがカナの左肩に触れてくる。

 その事にカナは目を見開いた。

 何があったのか、はっきり話した訳ではない。もちろん肌をゲネシスの目に晒している訳でもない。手首も隠れるように手袋をしていて、彼の目に触れるような事は一切していないのだ。アズベルトから聞いていたかもしれないが、それでも彼が正確にその場所に触れてきた事に驚きを隠せなかった。

 ゲネシスが触れたその場所には、誘拐された時レオドルドに強く握られた際に出来てしまった痣があったのだ。


 手のひらが触れた箇所がほんのりと温かく熱を持ち、その場を巡る血液の脈動がはっきりと感じられる。時間にして僅か数秒だった。

 今度は手首に触れてくる。こちらも痣のある右手首だ。同じように熱を持ちそれが引いていくと、カナはゆっくりと手袋を外した。


「なんて事……」


 さっきまではっきりと残っていたどす黒い痣が、跡形も無く消えていたのだ。

 信じられない思いでゲネシスを見上げると、彼は世の女性達が悩ましい溜め息を吐き出してしまいそうな微笑を浮かべている。アズベルトの耐性がなければ間違いなくカナもやられていた事だろう。


「……どうして……痣の事を……?」

「仕事柄『視える』事が多くてね。君の白くて美しい肌には、必要の無いものだろう?」


 痛みも何もないまま、痣だけが綺麗に消え去ってしまった。

 五日後に迫った式にはとても間に合わないだろうと話していたところだった。

 折角アズベルトが自分の為に用意してくれたウェディングドレスのデザインを変更しなければならず、それだけが本当に残念で仕方無かったのだ。

 信じられない思いと、不思議な力を目の当たりにした驚きで言葉を失い、カナはただただゲネシスを見つめた。

 そんな彼女にクスクスと喉を鳴らすと、今度はナタリーへと視線を移す。その場を立ちナタリーの正面に移動すると、彼女にも触れる事に許しを得た。彼女の左腕を左手で支えると、正確にその場所へと右手を翳す。


「君はまた……無茶をしたね……」


 包帯を取ること無く、袖を上げる事もしないまま、ゲネシスは今度は触れずに小さく詠唱を始めた。聞いたことの無いその言語は、カナにもナタリーにも理解する事は出来ない。魔術師だけが扱う特別なものなのだろう。

 詠唱を開始して間も無く、ナタリーの腕を中心にして光の魔法陣が発現した。五十センチ程の円形のそれは複雑な幾何学模様を描いており、中心から徐々に灯りが灯っていくかのように、模様に光が伝っていく。その光が全ての魔法陣を満たすと、最後に強く発光しカナもナタリーも眩しさに目を閉じ顔を伏せた。


「終わったよ。見てごらん」


 ゲネシスに声を掛けられ、目を開けたナタリーは袖を捲り包帯を外していく。するすると解けた包帯の下には、傷口はおろか痕すらもなかったのだ。手を握ったり開いたり、肘を曲げてみたり伸ばしたり、色々と動かしてみたが怪我をする前と遜色の無いように感じた。

 瞳を潤ませたナタリーがゲネシスを見上げる。彼は穏やかに微笑み僅かに頷いて見せた。


「っ、……ありがとうございます……!」


 懸命に涙を堪えるナタリーの肩を、ゲネシスが優しくポンポンと叩く。

 カナは立ち上がると、目の前で両手を組んで姿勢を正し、ゲネシスに向かって深々と頭を下げた。目一杯の感謝と尊敬の意を込めたその姿は、貴婦人の礼ではなかったが、カナなりの謝意の伝え方なのだという事はゲネシスにも伝わったようだった。


「本当に……ありがとうございます。私だけでなくナタリーまで……」

「アズには色々と助けてもらったからね。その恩を返したまで」

「そうだったとしても、私に出来る事があれば仰ってください。お役に立てる事なら何でも致します」

「ありがとう。では早速ひとつ協力して欲しい事があるのだが」

「はい、何でしょう?」


 ナタリーにお茶のおかわりを淹れてもらい、ゲネシスはカナの許可を得て隣に腰掛けた。


「カナさん。貴女の身体を詳しく調べさせて欲しい」

「え……」

「変な意味ではないよ? ……貴女も知っての通り、カナリアには特異な魔力があった」

「あっ……!」


 カナリアの病は魔力浸潤症と言って、自らの魔力に体を蝕まれてしまう特殊なものだった。本来なら治療法のあったそれが、ゲネシスの治癒魔法を持ってしても治せなかったのには理由があった。

 カナリアの持つ魔力が四元素のどれにも属さず、誰一人扱う事の出来ない『闇』だったからだ。

 それなのに今、カナを癒した魔法が効いた。……これが一体どういう事なのか。


「私も『視えた』時は驚いた。実際今日、治癒を施してみて確信した。貴女の魔力は『闇』ではない」

「……では……」

「それを調べたい。……私は……王室付魔導師などと大層な肩書きを持ちながら、に何もしてやれなかった……」

「ゲネシス様……」


 ゲネシスの長い睫毛が伏せられる。この人もアズベルト同様、カナリアを救えなかった事を酷く後悔してきたのだろう。

 その気持ちが痛い程伝わり、カナの胸を締め付けた。


「同じ事が起こるとは流石に思えないが、せめてこれからの君たちに弊害が生じる事のないよう万全を尽くしたい」


 柔らかく緩められた翡翠色の瞳の奥で、強い後悔の念が揺れているように見える。


「分かりました。ゲネシス様のお気持ちがそれで少しでも軽くなるのなら、喜んでお手伝い致します」

「……ありがとう」

「ただ……」


 言葉を切ったカナが、ゲネシスの翡翠色に輝く瞳を真っ直ぐに見つめる。


「カナリアさんは、ゲネシス様に感謝していても、『何も』だなどとは決して思っていないと思います」

「……っ」

「絶対に」

「……そう、だね……彼女は、そういう人だ」


 にっこりと微笑むカナの姿に、ゲネシスも釣られるように頬を緩める。

 カナの目に映った翡翠色は、先程とは打って変わって晴れ晴れと輝いていた。




「人の妻を誘惑するのは止めてもらおうか」


 牽制を色濃く表した声が聞こえたかと思うと、カナは入り口へと視線を向けた。

 そこには眉間に深く皺を刻んだアズベルトと、可笑しそうに笑みを浮かべるジルがこちらへ歩みを進めているところだった。


「アズ!」

「やれやれ。とんだ邪魔が入ったな」


 ソファから立ち上がり、迎えるように後ろへ回ったカナの腰を抱き寄せ、ゲネシスから隠すように胸に閉じ込める。

 アズベルトの胸の中でジルと目が合ったカナは、恥ずかしさのあまりどちらに顔を向けていいのか分からず、結局アズベルトの胸に顔面を押し当てる事にした。


「話しはもう終わってしまったようだな。もう少しカナさんと話していたかったのだが」


 わざとらしく肩を竦めて見せるゲネシスに合わせるように、ジルも肩を竦めて見せる。


「アズが早く終わらせろと急かすものだからな。邪魔者はさっさと退散するとしよう」

「仕方がない。今日は大人しく帰るとしよう。ではカナさん。例の話、よろしく頼むよ」


 含みのある言い方をしたゲネシスが、こちらへ向かってウィンクをしてくる。それを見たアズベルトが少々狼狽えていたのが可笑しくて、ジルとカナが声を上げて笑っている。ゲネシスもそれに満足したのか、「君のその顔を見たのは何年振りかな」とご満悦な様子で帰って行った。

 彼らが学院時代の学友なのだという事は聞いていたが、きっと学生の時もこんな風に軽口を言い合えるような砕けた仲だったのだろうと思うと、カナは胸が温かくなるのを感じた。

 二人を玄関先まで見送ったところで、カナはアズベルトに手袋を外した右手首を見せた。


「アズ見て。ゲネシス様が治してくださったの」

「!!」

「肩の方もよ! だからドレスは変更せずに済みそ…——」


 言い終える前にアズベルトの胸の中に収まっていた。いつもよりもずっと強い力で抱かれ驚いてしまう。


「アズ……ちょっと、苦し……」

「!! すまない……大丈夫か?」

「ええ。ナタリーの腕もね、一緒に治療してくださったのよ。アズの方からも、お礼を伝えてね」

「……ああ、分かった。そうするよ」


 カナを見下ろすアズベルトの眼差しが、いつもよりもずっとずっと穏やかに見えて、カナは何だかアズベルトが泣き出してしまいそうに感じた。


「アズ……」


 心配そうにアズベルトへ向かって伸ばした手が捕まる。その手をぎゅっと掴まれて再び腰を抱かれると、今度は切実な眼差しが落ちてくる。


「それで? ゲネシスとはどんな話をしていたんだ? まさか……本当に誘惑されたんじゃ……」


 あまりにも真剣な顔で言うものだから、そんな事ある訳ないのにと思いながらも、カナは再び声を上げて笑わずにはいられなかった。

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