ふと、ベッドにもたれて泣いていた顔を上げた。昼間なら泉を望める窓からは、今、少し欠けた月が見えている。長い時間頭を押し付けていたせいで腕が痺れている。泣き過ぎたせいか瞼は重いし、変に座っていたせいで足まで痺れてしまった。転べば痛いし、走れば疲れる。夜になれば眠くもなるし、時間になればお腹だって空く。ちゃんと生きているのに、自分が自分ではない。なりたくてこうなった訳じゃないのに、周りにも、自分ですら自分を受け入れられずにいるのだ。


「……私は……どうすればいい……?」


 どうしていいかが分からない。かなでもいられず、カナリアにもなれない。ここに居るしかないのに、大事にしたいと思う人達を傷付けるだけなら居場所なんてどこにもない。


 カナリアさんは、何で私を連れて来たの?

 私に何をさせたいの?

 ……どうすればいいのか教えてよ……


 考えても考えても答えの出ない問いを繰り返した。手足の痺れが治るのを待ってベッドへ身体を預けた。頭が重く、もう何も考えたくない。


「健……会いたいよ……帰りたいよ……」


 月明かりが黒い窓枠をベッドへと落とし込んでくる。そこから月を見上げるように一度視線を上げた。しかし込み上げてくる涙がすぐに視界を白く濁らせ、カナはそれを拭う事もしないまま、再びベッドへ顔を埋めた。




 不意にコンコンというノックの音が静かに響いた。瞼をうっすらと開くのと同時に扉が開かれる音がする。そのまま動かずにいると、静かに扉が閉じ、ややあってすぐ後ろに人の気配を感じた。ギシっと軋む音が聞こえベッドが僅かに沈んだ事から、その人がベッドへ座ったのだと分かった。そんな事が出来るのはアズベルト唯一人だ。


「……カナリア……さっきはすまなかった。私達を想って作ってくれたのに……傷付けたかった訳じゃなかったんだ……」


 何と答えればいいか分からず、僅かに息が零れた唇を引き結ぶ。下手に口を開いて感情のまま言葉をぶつけてしまったら、また傷付けてしまうかもしれない。そんな風に知らないうちに傷を負わせるような事はもうしたくなかった。


「……君に伝えなければならない事がある。……そのままでいいから聞いて欲しい」


 僅かに首を動かすも、アズベルトがそれに気付いたかどうかは分からなかった。「ナタリーにも伝えた」と言い、ゆっくり話すアズベルトの声は時折震えていた。まるで事実を必死に受け入れようとするかのように、カナにも分かる様、解説を交えながら丁寧に説明してくれたのだ。


 本当は頭の片隅ではもう分かっていたのだと思う。鏡で見た自分が自分でなかった時に、夢の中でカナリアと会った時に、何回目が覚めても見慣れない場所が変わらない時点で。自分はもうかなではなく、カナリアも既に居なかったのだと。だけどそれを受け入れるにはあまりにも酷だった。かなは健を失ってしまった事を信じる事など出来なかった。そしてそれはアズベルトも同じだったのだ。

 もしかしたら、と抱き続けた希望が絶たれた。健のところには、もう二度と戻れない。今はその事実だけがどうしようもなく悲しかった。


 横たえていた身体を起こし、アズベルトの方を見た。悲痛な琥珀色が真っ直ぐに向けられている。


「『かな』は死んだ事になってるのね……?」


 カナの視線から目を背け、僅かに俯くアズベルトが「ああ」と息を漏らすように呟く。


「そうだ」


「……そう……それなら、良かった」


「え?」


 逸らされていた視線が再び交わった時、泣きながら微笑むカナの姿に、アズベルトは驚愕した。


「彼が苦しい思いをしながら、待ち続けなくて済むもの……」


 本当は会いたい。

 今すぐ飛んで帰りたい。

『おかえり』って笑いながら抱きしめて欲しい。

 お気に入りのソファに二人で座ってテレビを見ながら、ふとした瞬間に『好きだよ』ってキスして欲しい。

 ……でも、もう叶わない。

 ただひとつ救いだったのは、『かな』が行方不明だったり身体はあるのに意識だけが戻らない、なんて事が起こっていないと言う事。彼が苦しみながら待ち続けなくて済んだ事だった。時間が経てばいつかは彼の傷は癒えていく。遠い未来にはまた誰かと出会って、大切だと思える人が出来るかもしれない。そんなの考えたくも無いけど、それでも健がちゃんと幸せになってくれたらと、願わずにはいられない。


「……君は……まず彼の心配をするんだな……」


「大切な人が辛いのは……一番悲しいもの」


 哀傷を滲ませる琥珀色を見つめた。

 カナリアも同じ気持ちだったのだろうか。だから、『カナリア』という器を満たすために『かな』を呼んだのだろうか。自分が側に居られなくても、アズベルトの悲しみが少しでも和らぐのなら、苦しむ時間が少しでも短くて済むのなら、別人でも構わないから彼の側にと、そう考えたのだろうか。それ程までに、誰かを犠牲にしてでも……そう考えたのだろうか。

 なんという無慈悲。残酷で傲慢。そして、なんという深愛。


「私には、カナリアさんのフリは出来ません」


 どんなに尽くしても、どんなに頑張っても、彼女の代わりなど有りはしない。彼女の深愛には遠く及ばない。彼女を大切に想っている人達を傷付けてしまうだけだから。


「私では……お二人が愛したカナリアさんにはなれません」


 カナの瞳からはポロポロと大粒の涙が零れている。それでも真っ直ぐな瞳で見つめてくる彼女に向かって、アズベルトは手を伸ばした。僅かに震えるその手で美しい涙を拭おうと、頬に向かって手を伸ばす。


「……そうだな。……君には……無理だ……」


 しかし、その手がカナリアに触れる事なく戻される。行き場を失った手をぎゅっと握りしめると、アズベルトはゆっくり立ち上がった。そのまま振り返らずに部屋を静かに後にした。

 扉が閉まり、通路の僅かな灯りが遮断されると、室内に再び静寂が戻った。


『カナの魂がカナリアの身体に移った時点で、カナの命も絶たれているそうだ』


 静かに震える声で語ったアズベルトの言葉が耳から離れない。再び横になったベッドから窓を眺める。夜になれば空が暗くなるのも、星が瞬くのも、月に満ち欠けがある事も、元の世界とおんなじだ。同じ景色を見られるのに、一緒に見る事だけが叶わない。


「……たける……うぅ……っ」


 どれだけ泣いても一向に止まらない涙を拭う事もせず、カナは再びベッドへと顔を埋めた。


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