第二章 戸惑う心 触れ合う身体

 カナリアとして目覚めてから七日程経った頃、カナはナタリーと執事の青年クーラと共に馬車に揺られていた。

 身体は大分楽になり、最初の頃に悩まされていた酷い倦怠感も、部屋の中をうろうろする分には気にならなくなっていた。今は療養という名目で別荘で過ごす為に馬車での移動の最中なのだ。朝から念入りに医者の診察を受け、短時間の移動ならばとようやく許可が降りたのだった。


「カナリア様、お疲れではありませんか?」


 心配そうに声を掛けてくれるのは、いつも食事の支度を手伝いに来てくれていた執事のクーラだ。歳はナタリーよりも少し上くらいだろうか。ワックスで撫で付けられた赤茶色の短髪に、キッチリと執事の制服を着こなす姿からは清潔感が漂い、優しげに細められた目元からは兄のような親しみが感じられた。そんな彼に向かって微笑みを返す。


「大丈夫よ。外出が久しぶりだから嬉しいわ」


 嘘ではない。カナリアにとってもそうなのだろうが、かなも一週間部屋に軟禁状態だったのだ。換気はされていたとはいえ、非常に息の詰まる空間だった。そこから出られただけでも心もちは変わるというものだ。まぁ、再び軟禁されにいくようなものなので状況は何も変わらないのだが。

 隣に座るナタリーがズレて落ち掛けた膝掛けを直しながらこちらを覗ってくる。


「そろそろ到着しますので、もう少しの辛抱です」


「ええ、分かったわ」


 そんな彼女達のやり取りを微笑ましく見守るクーラ。その瞳が、特にナタリーに向けられる眼差しが柔らかいものに思えて、カナはひとりこっそりと笑みを零した。



 それからややしばらく馬車に揺られ辿り着いたそこは、周りを林に囲まれた中にひっそりと佇む小さな洋館だった。小さいとは言っても、今まで過ごしていた屋敷が異常な大きさだっただけで、この洋館も軽く屋敷と呼べる程には規模は大きい。童話の世界から飛び出してきたかのような外観は、ヴィクトリアン調のアシンメトリーな作りで、ミニチュア制作が趣味のカナには十分に創作意欲を駆り立てられる見た目だった。立派な柱に支えられた玄関ポーチの横には、窓際に色とりどりの鉢植えを置きたくなるようなベイウィンドウがあしらわれ、ところどころに尖塔アーチが施されている。古くからそこに佇んでいるのだろう。クリーム色のレンガで出来た外壁には、濃い茶のレンガでボーダー状の模様が施され、欠けたりヒビが入っている箇所も見られた。上部の一角を蔦が這い青々とした葉を茂らせ、目に鮮やかな緑色が風にそよいでいる。しかしそれがまたこの建物の歴史を体現しているようで、可愛らしいながらも荘厳な雰囲気を醸し出していた。


 洋館の正面は広く空き地になっており、公爵家の大きな馬車も乗り付けられる程だ。建物の裏の方には管理人の仮住まいや馬小屋があるようで、時々馬の嘶きが聞こえてくる。空き地の奥へと目をやれば、巨大な貯水池かと思うような泉が水面に陽の光を反射し、キラキラと輝きを放っていた。その更に奥にはひっそりと塔が佇み、林からその頭を出していた。それらをぐるりと囲むように木々が生い茂り、都会の喧騒を忘れ、身を隠すには丁度いい場所だと思われた。


「……わぁ。素敵な場所ね」


 泉から吹きそよぐ風に髪を遊ばせながら、カナは見惚れるように景色に見入っていた。


「気に入ったか?」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、屋敷の扉が開かれ、アズベルトがこちらへ向かって歩いてくるところだ。自分の愛馬で先に来ていた彼が隣へ並び立つ。


「君が幼い頃、静養の地として利用していた場所だ。ここは静かで空気も綺麗だからね。ゆっくり休むにはうってつけの場所だ」


「……そうね」


 本当に単なるバカンスなら最高に楽しめただろうけど。心の中でため息をつきながら、カナは再び眼前の泉へ視線を移した。


「おいで。中を案内しよう」


 差し出された手を取るべきか否かを迷った。カナリアなら何の迷いもなく取るのだろう。可憐な笑顔付きで。ため息を吐き出しそうになるのを堪え、自身が今は『カナリア』なのだと心の中で呪文のように唱えながら、大きな手に自分のそれを重ねた。笑顔は頑張ったが、頬は引き攣っていたかもしれない。そんなカナの様子に満足したのか、アズベルトはフッと表情を緩め指先をきゅっと握ると、彼女を屋敷の中へエスコートした。


 室内に入るとまず目を引いたのは、中央に設けられた大階段だ。正面に設置された巨大な絵画を飾った壁を囲うように中央から二分され二階へと続く大階段は、まるでテレビで見るような芸能人か富豪の屋敷の再現のようだ。階段の脇をすり抜けるように左へ抜ければ、客を案内するような応接間が、反対に右へ抜ければベイウィンドウのあるダイニングへ抜けられる。その奥にキッチンや裏口があり、置かれた家具や調度品はやはりレトロで高級感があるものばかりだ。おそらく管理人やメイド、執事の出入りはあるのだろうが、三人で過ごすには広すぎると感じた。


 管理人に呼ばれ席を外したアズベルトに代わり、クーラが荷物を二階へ運んでくれる。女子が憧れを抱くような階段を上がり、左手奥がカナリアに用意された寝室だった。何年も使われていなかった筈なのに、中はとても綺麗に掃除されており、古家独特の埃臭さは微塵も感じられなかった。

 ベッドの側にあったドーマー窓を上に押し上げるように開けば、目の前に広がる泉がさっきとは違った様相を見せていた。


「……本当に素敵なところ……」


 ここでカナリアはアズベルトとどんなふうに過ごしてきたのだろうか。ここに自分を連れて来た事を、彼はどう思っているのだろうか。自分は一体どこまで関わればいいのだろうか。この生活はいつまで続くのだろうか。

 気がつけば色んな思いが頭を埋め尽くし、不安や焦燥感に押し潰されてしまいそうだ。ふるふると僅かに首を振ると、余計な思考を頭から追い出した。


「荷物はこちらに置きますね」

 

 ベッドの横に運んだ荷物を置いた執事に笑顔を向ける。


「ありがとう、クーラ。あとは自分でやるわ」


 かしこまりました、と優雅に腰を折る執事が二階の部屋の案内をしてくれるというのでついていく。どうやらアズベルトの計らいで、記憶が曖昧なカナリアに室内を案内してやって欲しいとの命が下っていたようだ。有難い設定に今一度感謝である。


「カナリア様の部屋を出てすぐ隣りにあるのが、メイドが常駐する控え部屋でございます。カナリア様がお休みになられた後は、ナタリーがここに控えておりますので、ご用の際はお申し付けください」


 押し開けるタイプの扉を開くと、四畳程の室内には簡易的なベッドと棚が一つ置かれていた。質素な作りだが、寝泊まりするだけなら十分な広さだ。むしろこっちの方が適度な広さで落ち着きそうだと思ってしまうのは、自分が根っからの庶民だからだろうか。

 大階段を二分する壁を迂回するように凹型に作られた二階の廊下を進むと、客間のような部屋が二つあり、その更に先の廊下の突き当たりがアズベルトの部屋だった。カナリアの部屋とは正反対の位置にあたる場所だ。


「こちらが旦那様の執務室兼寝室となっております。扉が二箇所ありますが中で行き来が出来ますので、基本はどちらからでもお入りいただけます。手前が執務室に、奥が寝室に直接入れる扉となっております」


「分かったわ」


「中はご覧にならなくてよろしいですか?」


「ええ。お仕事の邪魔はしたくないもの」


 入ることはないだろうし。協力関係にあるとはいえ、極力邪魔になるようなことはしたくない。大切な人の中身が別人だなんて、きっと彼にとっては苦痛でしかないだろうし。人前でボロを出さない為にも、なるべく大人しくしていないと。


 そう考えて、疲れたから少し休むと伝えて自室に戻り、荷物の片付けをしようと思っていたのに、クーラが出て行ってから間も無く部屋の扉がノックされた。室内にはナタリーもクーラも居ないため、自分で出迎えようと扉を開ける。そこに立っていたのはアズベルトだった。


「部屋はどうだ? 気に入ったか?」


「ええ。とても素敵。外も綺麗だったから、散歩も出来たらいいのだけれど」


 前のお屋敷では部屋から一歩も出してもらえなかった。体力的な問題からだろうが、せっかく避暑地に来たのだし、周りの景色も良いのだから散策なんかもしてみたい。ダメだと言われるだろうかとドキドキしていたのだが、返って来た返事は意外なものだった。


「そうだな。もう少し体が良くなったら、一緒に散歩でもしようか」


「え……?」


 てっきり逃げたら困るとか何とか、軟禁状態なのかと思ったら、そうでもないらしい。驚きに目をぱちくりさせるカナに、アズベルトがフッと表情を崩した。


「一人では行かせないさ。途中で倒れられでもしたら大変だ」


「あぁ……」


 それはそうだろう。まるっきりの自由などあり得ない。監視の目は光らせておくと、そういうことなのだろう。大切なカナリアの身体に傷でも付いたら大変だ。まぁ、そこまでの自由は期待してはいなかったが。


 いけないいけない。

 今はカナリア。私はカナリア。


「それでも楽しみだわ。早くもっと元気にならなくちゃね」


 可憐で彼が大好きなカナリアが言いそうなセリフに、恥じらいを交えながら微笑んでみる。どうやら間違ってはいなかったようで、アズベルトが穏やかに目を細めている。安堵に胸を撫で下ろしていると、彼の大きな手が肩にそっと乗せられた。顔を上げると、労るように優しく緩められた眼差しがすぐ側でこちらを見下ろしている。その琥珀色に刃物のような鋭利な光は見られない。


「疲れたろう?」


 甘さを含んだ声と、アイドル級の顔面を直視してしまったカナは、心臓にモロにダメージを受けた事でイケメン耐性が無かった事を思い出した。今更ながら、こんなに恐ろしい程整った男性と毎日同じ空間に生きていたカナリアを凄いと思う。


「す、少し……」


「ナタリーがお茶を淹れてくれるそうだが、一緒にどうだろう?」


 強制でも事後報告でも無いことに驚いた。馬車に揺られて来たから無理はしなくていいという事だろうか。あまり顔を合わせない方が良いのではとも思ったのだが、アズベルトの方から誘ってくれるという事は、カナリアらしく仲睦まじくの方が良いのだろうか。

 懸命に頭を働かせようとするカナをよそに、アズベルトが「どうする?」と、嫣然たる微笑と共にこちらを覗き込んでくる。そんな事をされてしまえば、年頃の全ての女子はほっぺを真っ赤に染め、首を縦に振るしかなくなるでしょう。今のカナのように。


「良かった。それじゃぁナタリーに美味しいのを淹れてもらおうか」


 クスクスと楽しげに喉を鳴らしながら、あろうことか軽々とカナの身体を抱き上げてくる。「きゃっ」と小さく声を零し、目をぱちくりさせて反射的にしがみついてしまった。そのまま大階段をゆっくりと降りていく。


「アズ! 降ろして……」


 小声で抗議するも、そんなつもりはないとばかりに抱く腕に力が込められた。


「これくらい慣れてもらわないと、先が思いやられるな」


 小声で耳元に囁かれ、ニヤリと流し目を送ってくる。下の階では引越しの手伝いに来ていた執事やメイド達から微笑ましい眼差しが注がれ感嘆の声が聞こえて来た。彼等からすればこの光景は普段通りなのかもしれないが、カナにとっては恥ずかしすぎる仕打ちだ。この場合の正解が分からず、されるがまま自分のうるさい鼓動を聞いていた。

 

 ……どうしよう……全然慣れる気がしない……


 この先に思いやられながらダイニングまで運ばれ、恭しく手を引かれてエスコートされると、言われるがままにティータイムを過ごした。

 せっかく繊細で美しい絵柄の高級茶器で、上等な茶葉を使った美味しいお茶を淹れてもらったのに、カナにはそれらを堪能出来る程の心の余裕は全然無かったのだった。

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