冬季の到来

 邑人たちが、冬営地への移動を始める。

 日の昇りきらぬうちに荷造りを終え、邑長たちが先導する隊列につづく。千人を超える行列は、長く尾を引き、次第にまばらになってゆく。その最後尾を、本隊から少し距離を取ってつづくのが、サルコリの集団である。家畜や荷車を持たない彼らは、家財全てを担いで運ぶ。背負子一杯の荷を担いだサルコリたちの足取りは、いずれも重々しく、引きずるようである。それ一つ見ても、彼らの置かれた立場が理解できよう。

 邑人たちが続々夏営地を去るなか、カサはガタウの元で飽きもせず槍をしごいている。

「フッ」

 ドシン!

 小気味よいかけ声と動き。地に根を張ったような足腰は、一段と磨きがかかっている。突きこむ瞬間に革袋に預けた体重を引き戻し、予備姿勢に戻る。

 視界の端に、小さな影。

 本隊につづくサルコリの、さらに最後尾。判別できないほどの、小さな人影。

――ラシェだ……!

 胸が高鳴る。

 顔も見えないほど遠くにいるのに、カサにはすぐに判った。

 よく見ると、一人ではない。傍らに、手をつなぐ小さな姿が見える。

 弟がいる、とラシェが言っていたのを思い出す。

 歳の離れた弟を、ラシェはとても可愛がっているようだった。

 サルコリの隊列はノロノロと進むのに、ラシェたちは動かない。

 こちらに向けて、何か合図をしているようだ。

――手を、振っているのか。

 嬉しくなって、振り返す。

 向こうも負けじと大きく手を振る。

 カサが手を振りつづけ、ラシェも手を振りつづける。

 そんな止め処ないやり取りを、幾度繰り返しただろう。

 やがてラシェが手を下ろし、カサも手を下ろす。

 ラシェはサルコリの隊列を追いかけてゆき、カサは離愁を胸に、黙って見送る。

「どうした」

 ガタウである。

 カサはあわてる。

 いつも傍らで厳しい目を向けている存在を、あろう事かすっかり忘れていたのだ。

「すみません」

 槍をかまえ、打ちこみを再開する。

 それにしてもガタウのような男が、このような鍛錬中の横道を、よくぞ長々と放っておいたものである。

 それだけ驚いた。

 カサのこんなに明るい表情を、ガタウは初めて見た。

――そう言えば、いつも憂鬱そうな顔しか見ていないな。

 ガタウにも問題はある。

 誰の前でも笑わない男と二人っきりで、カサが笑えるはずがない。

 今はもう厳しさが身についてしまっているカサだが、笑うとまだ少年なのだとガタウは改めて知る。

 よほど嬉しかったのか、まだ口の端に笑みの残るカサを見詰めながら、思う。

――それが隙に繋がらなければよいが……。

 ガタウには隙がない。

 人生の中で守る物が何もないガタウは、ただ狩りに集中していられる。

 だがもしガタウに妻や子がいれば、『伝説の戦士』と呼ばれるほどの強さを手に入れる事もなかっただろう。

 ガタウは目を閉じ、浮かび上がる小さな雑念をねじ伏せる。

 ガタウの強さ。それは、愛する存在と引き換えに手に入れた強さである。

 何もかもを失う事によって、ガタウは比類なき強さを手に入れた。

 カサがガタウのいる高みにまで到達するには、全てを捨てねばならぬだろう。

 できる事ならば、ガタウはカサに己の全てを伝えたいと思っている。

 だが、もしカサが己の幸せに甘んじたならば。

 カサの強さは、そこ止まりになるだろう。

 ソワクと同じ所で足踏みしてしまうに違いない。

 ガタウとソワクの差は、槍に全てを捧げた者とそうでない者の差である。

 カサが槍に全てを捧げなければ、手に入れられない高みがある。

 もしカサがガタウの領域に達せずともやむなしと、ガタウは考えている。強くなるほど、幸せから遠ざかる。

 それをガタウは誰よりも知っている。

――その時は……。

 その時は、ガタウが到達した技術は全て、ガタウの死と共に失われ事になるだろう。

 それをも覚悟の上である。

 ガタウは人生に期待していない。

 ガタウは世界に何も期待をしていないのだから。



 砂漠に時が流れる。

 砂礫の上で、人の営みがあり、様々な風があり、表情の少ない空がある。


 この空は、やがて荒れだすであろう。

 ヒルデウールと呼ばれる嵐が、カサたちの上にのしかかり、彼らを枯れ木の枝先のように翻弄するであろう。命が終わるかもしれないとさえ思うような苛烈な暴風雨の中、カサは何を想い、何を考えるのだろう。

 暖かい天幕の中だろうか。もしくは口の中から体中に染み渡るような食事だろうか。

 それとも、一人の少女の姿だろうか。

 ちょうどその頃の冬営地、フェドラィと呼ばれるずっと北にある場所に、部族の者たちと冬を過ごすためにはるばる移ってきたサルコリの少女ラシェは、乾燥した冷たい風が天幕を震わせる中、弟に添い寝してやりながら、何を想うのだろう。

 次の夏の、祭りの囃子だろうか。

 可愛い弟の、幸せな未来だろうか。

 それとも右腕のない、一人の少年の姿だろうか。

 フェドラィに吹く冷たい砂嵐、ザヒンブールが、家族で住むには狭い天幕の芯柱を揺るがせ、不吉な音でラシェの不安を煽る。

 冬営地に移った、他の者たちはどうだろう。

 カサの友人、ヨッカは何を考えているのだろう。

 冬場に仕込まれる、醸造酒の原料となる、平麦の皮をもみながら、初めて一人で過ごす冬のウォギの中で、夏営地に残る友人の事だろうか。

 それとも、カラギで自分に優しくしてくれる年上の女性の事だろうか。

 次の大戦士長と目される、ソワクはどうだろう。

 妻のゼラを腕に抱き、来年の夏には三歳になったばかりの長女を、ソワニに引き渡さねばならない事に胸を痛めているのだろうか。

 トナゴやウハサンたちは、きっと今もたむろしてはカサの陰口をもらし、ナサレィたちは弱い者を見つけては苛めて喜んでいるのだろう。

 大巫女の予言、そして邑長の野心が絡み合い、今、部族は地面の下で微震している。それらが絡み合い、何処へと向かうのか、それは精霊たちから言葉を与えられた大巫女でさえ、知りえぬ事である。


 砂漠に時が流れる。

 砂丘の砂を、風が吹きあげる。

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