第7話 だったら、オレと結婚すればいい

 気分がふさぐ時は気晴らしに散歩するに限る。西日に照らされて気温が上がった神殿内は蒸し風呂のようで、ここにずっといる気力が起こらない。今はまだいいとして、真夏はどこかに避難させてもらわなくては、蒸し鶏ならぬ蒸しロイシュネリアが出来上がってしまう。


 水盤が割れて三日。


 あれからルクレシウスにも、クレオメデスにも、リフェウスにも会っていない。戦後処理が佳境を迎え、国王とその最側近たちは忙しい。けれどロイシュネリアは暇だった。

 ルクレシウスはもともとロイシュネリアに先視の力を求めていない。ルウォールの情報ももう求められることがない。

 戦争が終わった今、ロイシュネリアの出番はなくなったといってもいい。ロイシュネリアにできることは何もなく、時々、ルウォールの話を聞かれるくらいだ。

 そして近々、結婚をして王宮を去ることを求められた。

 先視の力も永遠に失う。


 ――そうなると私は、もう、陛下にお会いすることもできなくなるのかしら。


 クレオメデスとも、リフェウスとも。


 ――できなくはないけれど、用はないわね。私も、向こうも。


 理由がなければ会えない。

 でも、それは今も同じことだ。

 戦時下だからこそあの三人と一緒にいられたのだ。

 ロイシュネリアは窓辺に立ち、そっとカバーに包まれた左腕を撫でた。

 空には大きな月。

 初夏の夕暮れは雲一つない晴天が広がっていた。夜のとばりが降りれば満天の星を見ることができるだろう。そして大きな月。この大きさなら一晩中、夜を照らしてくれる。


 ――この天気なら大丈夫そう。ちょっとだけね……。


 ロイシュネリアは法衣を翻すと自室へ向かった。

 町娘のような簡素なワンピースに着替え、大きな布で髪の毛を包む。そしてコソコソと神殿の敷地の片隅、塀のそばまで行くと注意深くまわりに人がいないことを確認し、月の光が当たる場所に立った。

 体中にふわりと力がみなぎる。心臓がドキドキして、どこまでも飛んでいけそうな感覚に満たされる。

 トン、と地面を蹴ると体が浮いた。そのまま神殿を取り囲む塀を蹴り、スピードをつけて空に駆け上がる。

 目指したのは王都のすぐそばにある古い神殿だった。

 そこで少し夕涼みをして、戻るつもりだった。


 なぜ、そこに、よりにもよってリフェウスが現れたのかわからない。

 しかも、葡萄酒持参で。


 言ってはいけないことをたくさんしゃべってしまった気がする。

 リフェウスはずっと困った顔をしていた。

 ですよねー、と思う。クレオメデスとリフェウスの先視をして、ルクレシウスとリフェウスがそれぞれ結婚することを教えてあげたら「ふーん」という反応だったことにカチンときた。確か自分の先視はするなと念押ししてきたのに、それを無視して先視をしたことに対しての文句はないのだろうか。

 いつもなら絶対に文句を言うくせに、今日に限っておとなしいのは自分が酔っ払っているから?

 ええい腹立つ! そう思って、しつこく、「もっと嬉しそうにしたら」「気にならないの?」「リフェウス様は私と同じ女神の愛し子と結婚するのよ」「心当たりは?」などなど、リフェウスから満足いく返事が出てくるまで絡んでしまった。

 ウザイことをしている自覚はある。

 でも止められないのだ。


「ネリの話では、神々の愛し子を先視すると水盤が割れるという話だったな。自分を視ても割れる」


 ぐだぐだと絡み続けるロイシュネリアを遮り、リフェウスが言う。


「だとしたら、オレの嫁はネリの可能性もあるわけだ」

「はあ? あるわけないでしょー」


 ああ、頭がふらふらする。お酒が回ってきてとても眠い。でも寝てはだめ。神殿に帰らないと。ここは王都から近いから比較的治安がいいとはいえ、この国の情勢はまだまだ不安だ。


「どうして? 可能性はゼロではないだろう」

「だってリフェウス様は私のことなんてなんとも思っていないもの」

「なぜそう決めつける。おまえはオレの心の中までは視えないだろうが」

「そんなもの視なくてもわかりますー。リフェウス様は私のことを先視できる便利人間くらいにしか思っていらっしゃらないの! 私を捕まえてきたとき、真っ先に私に先視させようとしたのが証拠!」

「……先視に代償が必要だとは知らなかったからな」


 ロイシュネリアの言葉に、リフェウスが答えにくそうに言う。

 あら珍しい、この男が自分の非を認めた。……非を認めた、と言えるのだろうか、今のは。


「それからー、そう、私のことは信用していないの! 私がいつ裏切るかわからないと思ってる」

「……裏切るというより、おまえが誰かに利用されることを恐れてはいる」

「同じことだわ! 私はルクレシウス様以外に力を使わないと……ああでもルクレシウス様ももう私のことはいらないとおっしゃったのよね……私に結婚しろって……結婚したら私の力はすべてなくなって、私はただの無力な娘になってしまう……そうしたら、私、私……もう……」


 クレオメデスにも、リフェウスにも。

 そう、リフェウスにも会えなくなってしまう。

 今ですら、理由がなければ会えないのに。

 そのことに気付いてしまうともう駄目だった。

 涙がこみあげてくる。いやだ、リフェウスに泣き顔なんて見られたくない。バカにされてしまう。でも止められない。

 ほら、案の定、リフェウスの動きが止まる。きっと呆れているのだ。汚い泣き顔を見せるなくらいは思っているかも。ウザ絡みしているから、ウザイ上に汚い泣き顔を見せるな、くらいは思っているに違いない。うん、思っている。絶対、思っている。


「力を失いたくないのなら、そう言えばいい。陛下ならわかってくれるさ」

「でも、そうしたらっ、私はいつまでもあなたたちに不安感を与えてしまう。私の力が怖いんでしょう? 誰かに奪われていくと困るんでしょう? 私だってわかってる、ルクレシウス様はこの力を必要としていないから、先視姫なんていないほうがいいってことくらい」


 我ながら支離滅裂なことを言っていると思う。

 ぼろぼろと泣きながら、情けないことこの上ない。

 どうしてこんな姿をよりにもよってリフェウスに……。

 そんなの、わかっている。リフェウスに甘えたいのだ。リフェウスが甘くなると、とことん甘やかしてくれることを知っているから。ルクレシウスもクレオメデスもロイシュネリアには優しいが、甘やかしてくれるのはリフェウスだけだ。


 ルクレシウスとクレオメデスは、「嫌なことはしなくてもいい」と言ってくれる。でもリフェウスは「我慢するな」と言ってくれるのだ。「自分の気持ちをもっと押し付けろ」とも。

 優しくしてくれる人に、自分の気持ちを押し付けていいわけじゃないことは知っている。

 でも、リフェウスは、受け止めてくれる。何しろ気持ちを押しけろと言ってきたくらいなので。


 ――大人ってことよね。私よりも、ずっと。


 人の気持ちを受け止めても平気ということは、それだけ、心に余裕があるということでもある。そんな人から見た自分は、子どもっぽくて、さぞ滑稽だろう。

 リフェウスの視線が耐えきれず、ロイシュネリアは俯いた。涙がパタパタとほこりっぽい大理石に落ちては染みを作る。


「ネリ」

「でも力を失くしたら、もう、私……っ、あなたたちに、会えなくなってしまう……っ」


 ああ、黙らないと。それでなくても滑稽なのに。


「そんなことはないさ」


 お決まりの否定文句だ。そんなことが聞きたいわけではないが、リフェウスとしてはそう答えることしかできないのもわかっている。

 ほら、リフェウスが困っている。

 リフェウスを困らせたいわけじゃない。

 でもリフェウスには聞いてほしい。誰にも言えない気持ちを、聞いてほしい。つらくて悲しくて辛い気持ちを、リフェウスには知ってほしい。


「そんなことはある! だって、近い将来、ルクレシウス様も、クレオメデス様も、あなたも、結婚するのよ!? そこに私の居場所なんて……っ」

「だったら、オレと結婚すればいい」

「……は?」


 結婚……?

 突然出てきた単語に、ロイシュネリアはぽかんとなって顔を上げた。

 リフェウスはロイシュネリアが空っぽにしたゴブレットを手に取って、葡萄酒を自分で注いでいた。およそ求婚などという人生で重大な決断を口にした場面の行動とは思えない。

 ちょっとそこまで、というノリではないか。

 この男、ロイシュネリアの悩みに真面目に付き合ってくれているわけではなさそうだ。


「何……言って……って、はっ! お払い箱になる私がかわいそうだから結婚してあげるって言うの!? だいたい考えてみたらあなたが損得勘定なしで動くわけがないのよ、何か裏が」

「あのなあ」

「わかったわ、形だけの妻がほしいのね!? いつまでも独身だと陛下から結婚しろしろ言われてうるさいから!」

「形だけだとネリの能力がそのまま残るから、真面目にやれと陛下から怒られそうだが。……でもオレとの結婚、悪くないと思わないか?」


 ゴブレットを手に、リフェウスがこちらを見る。


 ――リフェウス様と結婚?


 悪くないどころか理想的な展開だ。

 でも……。


「私の悩みを茶化さないでくださいませんか? 私は人生の岐路に立たされているのですから!」


 ロイシュネリアはふんと鼻を鳴らした。


「オレは真面目だよ。誰かさんと違って酔ってもいない」

「だったらよけいにタチが悪いわ。私と結婚しても、あなたにはなんの得もないのに」

「得ならある。好きな女と結婚できて、オレの幸福度が爆上がりする」

「す……え……?」

「おまえにも得はある。まずオレはけっこうな高給取りだ。生活には困らない。宰相夫人だからな、王宮への出入りも自由だ。オレの屋敷は王都内にあるから、環境がガラリと変わるわけでもない。陛下の懸念である先視の力も喪失できて、ネリの信用度もあがる」

「……待って。リフェウス様って、私のことが好きなの……?」


 ロイシュネリアは呆然と呟いた。


「そんなことがあるわけないわ……私、ものすごく酔っぱらっているのね。幻聴に幻覚なんて」

「おい、オレの一世一代の告白を強めの幻覚扱いするんじゃない」

「……」


 一世一代の告白……?


「……本気なの……?」


 自分に都合のいい夢を見ているわけではないのか?

 ロイシュネリアの確認に、リフェウスが頷く。


 途端に、頭の奥に先日先視した風景が閃いた。

 髪が伸びたリフェウス。その隣にいる彼の最愛。

 彼女が顔を上げる。

 緑色の瞳と目が合った。


 幼い頃はこんなふうに突然未来が視えたものだ。

 でも自分が視たい時に視えるわけではなかったから、神殿で血を介して望んだ時に未来が視えるやり方を教えてもらったのだ。

 腕を切って水盤に垂らすというやり方を。

 このやり方を覚えてからは、突然、未来を視ることはなくなった。

 だからこれが、水盤を通さない先視だというのはすぐにわかった。


 ――嘘でしょ……!?


 リフェウスの隣にいたのは自分だった。

 リフェウスの最愛は、自分だった。


 そんなばかな!


 そう思った瞬間、パアン! と頭の中で何かが弾けた。

 そうだった、ロイシュネリアは神々の愛し子を視ることができない。それが自分であっても。だから自分の未来を視ることはできない……どうして視えたの……?

 衝撃に、アルコールびたしの脳が耐えられずに意識が遠のく。


「あっ……おい! ネリ!」


 リフェウスの慌てる声を聞きながら、ロイシュネリアは気を失った。

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