第5章 1980年~決着・工場で
① 化け蜘蛛
僕らはどこをどう逃げたのだろう。
大通りに出ても人の気配がなかった。
洋は助けを呼んだが、それに答える声はなかった。
和也は化物を招くだけだからと止めさせた。
見通しが良く、だけど小回りがきく道を選んだ。
十年生きてきて、これ以上ないというほどの集中力を働かせ、近付く気配に注意しながら進んだ。
気がつくと、僕らは工場に入り込んでいた。
当然夜だから工場は稼動していない。人の気配もない。
だが、その甘い匂いには覚えがあった。
リンゴジュース工場だ。
僕の家はこの近くだ。
もっと小さい頃、忍び込んで積まれたリンゴを失敬して食べた記憶がある。
今いる建物の裏口から裏庭に出れば、リンゴが無造作に積まれているはずだ。
塀いっぱいのリンゴの山を乗り越えれば、線路に出る。
一時間に一本のローカル線と貨物車のみの線路だ。
踏み切りも何もない。草地の高台に線路が見通し良く延びている。
僕の家はその向こうにある。家の窓からここは見えないが、夜の静けさの中で貨物列車の音が聞こえる距離にはあった。
工場の建物は天井が高く、二階の位置に明り取りの窓があった。入り込む外光は濃いが、機械の陰にいる僕らまでは届かなかった。
近くにいるはずのみんなの顔さえよく見えなかった。
「ごめん、僕の計算ミスだった――」
落ち着くなり、和也が言った。
僕は何のことか分からなかった。
「下足箱であいつを見かけて、そのまま上ってくると思ってたんだ。それが一階を通り過ぎてたなんて――」
学校でのことだと思い至った。
「君が洋くんを止めていなかったら、階段の下で捕まってた」
「考えるよりも先に動いてたんだ」
本当のことだ。謙遜でもなんでもない。
「和也こそ、消火器なんて――よく思い付いたよね」
「僕も同じさ。何の考えなし――おかげで粉まみれだもん」
メガネのフレームが薄く光を弾く。
空笑いだったが、少し元気が出た。
「君たちにはお礼を言い尽くせないよ」
洋が掠れた声を出した。
「まだ礼を言われる段階じゃない。まだ逃げ切れてないもん――」
僕の言葉に和也の影が頷いた。
「あれは一体なんなの?」
ずっと脅えてきた明子が言った。
誰に答えられるものでもなかった。
「あなたが〈口裂け女〉を捜そう――なんて言わなければ、こんなことにはならなかったのに!」
そこに端を発するのだろうか――僕にはうまい返答が見つけられなかった。
「明ちゃん、晃一くんが悪いわけではないでしょ」
「でもこの人がお兄ちゃんを誘わなければ、お兄ちゃんは休み明けまで探そうとしなかったはずよ。そうすれば、私だって竹林には行かなかった――」
確かにあの竹林で目をつけられたに違いないのだ。
そう言われると、僕の責任のような気がしてきた。
謝罪の言葉を捜している間に和也が切り出した。
「洋くん、本当に晃一くんのせいか?」
「かばわなくても良いよ、和也」
「いや、前から気になってたんだ」
洋は答えようとはしない。
だから僕が代わりに訊いた。
「何が――?」
「洋くん、君も〈口裂け女〉に会ったんじゃない?」
僕と明子が息を呑んだ。
当人は光の届かない距離で隠れて見えなかった。だが、打ち震えているのは分かった。
「洋、そうなのか?」
洋は答えなかった。
「何を証拠に――?」
突っかかってきたのは妹の方であった。
「僕もあの場にいたからだ」
しん――と空気が黙り込んだように耳を打った。
「晃一くんが見たと言う終業式の日、僕は君と洋くんの前を歩いていたんだ」
和也は言った。
僕と違い、和也は教材は計画的に持って帰っていたから、当日は手提げのみだったらしい。
終業式の日、用事があったのに和也は掃除で遅くなり、急がなければならず、走って帰ったそうだ。
荷物でいっぱいの洋に挨拶をして追い越し、そして同じ状態の僕を追い越した。
校門の辺りで蛙が踏まれたような声に、和也は振り向いそうだ。
僕が走り抜け、遅れて洋が走ってきた――と和也は言った。
蛙が踏まれたような声とは僕の悲鳴だったようだ。
「二人の去った後に、僕は黒ずくめの女の人が立っているのを見た」
「じゃあ、君も〈口裂け女〉を見たんじゃないか」
「僕にはそう思えなかったんだ。都市伝説にあるような格好ではあったけど、マスクをしてたかどうかは、すぐに背中を向けたから分からなかったし、それに――」
和也は一瞬、言い澱んだ。言って良いかどうかをためらったようだ。間を置いて彼の口から出たのは次の言葉であった。
「一瞬見えた女性の目が、寂しそうだったから、僕には違うように思えたんだ」
僕は目眩がした。
あの時、一緒に遭遇した人物が、捜索隊のメンバーに初めからいたなんて――。それも二人――。
「ひどいよ――僕を騙してたんだ」
思ってもみないことが僕の口をついていた。
「騙してなんかないよ」
「和也も洋も、僕が夏休みに声をかけた時、その場で目撃者として証言してくれてたら、そこで話は終わっていたのに――」
「僕は女の人を見つけて、勘違いだと気付かせたかったんだ。悲鳴を上げて逃げるなんて、普通はひどいことじゃないか! そんなことをしたからあの人は悲しい目になったんだ。だから僕は、あの時のことを君たちに謝らせようと思って参加したんだ」
「あれは〈口裂け女〉だった、絶対に!」
僕の声が夜の工場に響く。
「よしてよ、どっちだって良いじゃない」
「良くない! 全部僕のせいにしやがって! あの時、僕は大人だけじゃなく、みんなにも嘘つき呼ばわりされたんだぞ!」
僕は立ち上がっていた。
明子の影が縮こまった。
和也の影は動かない。ただ、めがねのレンズが薄く光って僕を見上げていた。
洋も膝を抱えるように動いていなかった。
「洋が最初からあの時のことを証言してくれてたら――」
僕は洋の傍に歩み寄りながら、ふ――と気がついた。
「洋、逃げた――ってことは、君も見たんじゃないのか、〈口裂け女〉を――」
「あれは――〈口裂け女〉じゃない」
洋が言った。僕の反論を受ける前に言葉を継いだ。
「普通の女の人でもない」
和也が顔を洋へ向けた。
じゃあ、なんだったの?――訊いたのは明子であった。
洋がゆっくりと立ち上がった。
明かりが薄っすらと届く位置だ。
涙の跡が青く光っている。
「あれは、蜘蛛の化物だ――」
明子の部屋から見た黒ずくめの女性を、僕は〈口裂け女〉の風貌に重ねていた。
一瞬だったこともあり、僕は似ている――と認識しただけであった。
洋と明子が、竹林で遭遇した事件がその女性であるなら、彼は以降、何度も目撃したことになる。その彼が言うのだから、同一人物である可能性が高かった。
「全部、僕のせいなんだ。僕が悪いんだ。晃一より先に〈口裂け女〉を見つけてやるんだ――なんて考えたからバチが当たったんだ」
「いや――バチが当たるようなことじゃないけど――」
僕の言葉もあやふやになっていた。
「妹を化け蜘蛛に見られてしまったんだ。だから皆を巻き込むことになったんだ」
僕の責任だ――と洋は機械に身体をもたれかかり、天井を見上げて泣いていた。
明子は顔を伏せ、和也も何も言おうとしなかった。
「知ってる? 裏にリンゴがあるんだ」
その空気が苦しくて、僕は極めて明るく言ってみた。
「喉渇いたでしょ。四個くらいならもらっても平気なくらいにね」
僕は裏庭へ身体を向けた――その時であった。
上の窓を何かが横切った。
でかい影だ。
――そう思った瞬間、窓ガラスを破ってあいつが工場内に飛び込んできた。
② 兄と妹
僕らは油断していた。
仲間内で言い争っている場合ではなかったのだ。
追跡者の気配を察することができずにいた。
黒い影がガラス片を撒き散らしながら、コンクリート床に降り立った。
微かな埃と共に風が僕の前髪をあおった。
コンベアの向こう――窓の下にその巨体は立った。
人の上半身と蜘蛛の下半身――神話の世界の半獣人のようでもあるが、馬の部分が蜘蛛で、丸い腹部から長い脚が六本突き出ている。まるで冗談のようなシルエットが逆光に浮かんだ。
ぎち――と割れたガラスを踏んで、化け蜘蛛が振り向いた。
誰もが動けなかった。
一人を除いて――。
洋が動いていた。
立って、顔を上げていた分、蜘蛛の存在に逸早く気付けたのだろう。
裏庭へ向かう背中が見えた。
「みんな、こっちへ!」
洋の声に、和也が明子の手を引いて僕の方へ走ってきた。
化け蜘蛛の脚がベルトコンベアの上に乗った。
二人のすぐ横だ。
僕は近くにあったダンボールを持ち上げた。それを盾にするように蜘蛛の身体にぶつかっていった。
ちょうど長い脚を二人に振り下ろそうとしているところであった。
晒された腹部の下めがけ、箱を放り投げた。
よくそんなものが持てたな――と思えるほど重い箱だった。中には封入された缶ジュースが詰まっていたのだから――。
狙いは外れていた。蜘蛛に当たらずに、コンベアの上に鈍い音を響かせて落ちた。
しかし、コンベアがその重みでずれるように動いた。
上に掛けていた足元が揺れ、蜘蛛がバランスを崩した。
薙ぎったその脚は和也と明子の頭のはるか上を通っていった。
「急いで!」
二人に合流して、背中を押すように最後尾を走った。
洋が裏庭へのカギを開けているのが見えた――その一瞬の映像が吹き飛んだ。
縄跳びを横に振ったような音がしたと思ったのは後日落ち着いてからだ。
その時は何があったか分からなかった。
背中を何かが弾いたのだ。
飛ばされたように二人を追い越し、床に落ち、倒れこんだ。
機械にぶつからなかったのは幸いだったが、転んだ傷とじわりじわりと忍び寄る背中の痛みに僕は床を転げ回っていた。
誰かが駆け寄ってきた。
声を掛けているようだったが、それも聞こえなかった。
両脇から抱え上げられた。
痛みが増した。僕はその行為に抗議しようと、その人たちを突き飛ばそうとした。
ずん――と重みのある音を立て、影がコンベアを乗り越えてきた。
それが僕を現実に引き戻した。
僕の右側に和也が、左側には明子がいた。
二人が僕を引きずるように裏庭へ向かっていた。
洋は――?
探すほどではなかった。
洋は化け蜘蛛と対峙していた。
「何する気――?」
弱々しく僕は言った。
「時間を稼ぐそうだ」
答えたのは和也だ。
無理だ――僕はそう言おうとした時、洋が背中越しに叫んだ。
「君たちは、だますように呼んだ僕に協力してくれた。明子のために――僕の妹のためにがんばってくれた。こんなに嬉しいことはない」
「来いって――」
「だからこそ、君たちをこれ以上、危険な目には遭わせられない」
僕の身体は引っ張られ、裏庭のドアまで来た。
化け蜘蛛もゆっくりと進んできている。
もう洋の前だ。
「和也、止めろ。明子、お兄ちゃんだろ」
僕の声は消え入りそうだった。
「大丈夫。僕もここは知ってる。うまく逃げて、時間を稼ぐ。だから――」
洋の声は震えながらも雄雄しかった。
「だから妹だけは何とか君たちの手で守ってくれ!」
裏庭に出ると、工場内は闇に呑まれたように見えなくなった。洋の声だけが僕の耳に届いた。
僕の心に『二度と妹を見捨てたりしない』――そんな兄の叫びが滲んだ。
リンゴの甘い香りが鼻を突いた。
塀上まで積まれたリンゴが、凸凹の斜面を映し出していた。
登って――と和也が小さく、だが厳しく言った。
登るそばから足元が崩れていく。
背後から工場内で大きな音がしている。
後ろ髪を引かれながらも、僕は塀上まで達していた。
振り向き、見下ろす工場は人の存在を拒否しているように見えた。
和也が明子の手を取って、塀から下ろしていた。
いつもここで遊んでいたように塀を飛び降りた――が、背中の痛みに四つんばいに手をついて倒れた。
「晃一くん、大丈夫かい?」
和也が肩に手を掛けた。
平気ではなかったが、僕は頷いた。
恐らく、背中の痛みは、化け蜘蛛の脚が背中を掠めたのだと僕は想像していた。実際、後で見たら、背中がミミズ腫れになっていた。直撃していたら――と思うと、冷や汗が吹き出そうになるが、その時は痛みに我慢するので精一杯であった。
塀から勾配になって草地が線路まで続いている。
僕らは無言で線路へ向かって歩き出した。
すっかり青みを失った雑草が、さっきの雨にも負けずに、足元で乾いた音を立てた。
線路を視界に収める。ここは高台となっていている。線路向こうに広がる家並みも見下ろせる。その中に僕の家もあるはずだ。今は遠い日常だ。
和也も明子も言葉なく、登っていた。
ここまで塀から一分も経っていない。
それなのにひたすら歩いてきた疲労が足に感じられた。
遠く、電車の警告音が聞こえた。もう間もなくここを通過するだろう。
線路向こうで、それに反応してか、犬が吠えた。
「電車――と、犬――?」
僕の口をついた疑問を、和也が答えに結びつけた。
「結界が切れてる」
そうなのだ。
閉ざされていた空間が開けている。だから外界の音が聞こえるのだ。
「なら、まだ希望はある」
僕は踵を返した。
和也が僕の名を呼んだ。
「洋を助けに行ってくる。線路の向こう側は結界の外だ。そこまでいけば逃げ切れる!」
「結界は蜘蛛の仕業だ。今はあの工場にいるから向こうに張っていないだけだ! 追ってこられたら、僕らは永遠に結界の中――ってことだってありえるんだ!」
それもそうかもしれない。僕も考えていたことだ。
だけど――
「だけど、洋を見捨ててはおけない――。君たちはそこで待ってて」
僕は転がるように工場へと戻っていった。
なぜ、そんなことをしたのか? 今の僕に、当時の僕の心境は思い至らなかった。
ただ、もし本当に希望があるなら、それにすがりつきたかった。そして、全員で助かりたかった――それだけであった。
工場内は静かであった。
周りが騒がしく動き出しているから、尚更静寂が不気味であった。
どこからかコオロギの鳴き声が聞こえる。
隠密に――そんな僕の狙いは思うようにはいかなかった。転がるリンゴと共に、下まで滑り落ちた。
サッシのドアをリンゴが数個、ノックして戻ってきた。
しかしそれに対する反応は全くなかった。
愚か――と思いつつ、僕は洋の名を声に出していた。
小声で親友の名を呼びながら、工場へ忍び入る。
騒がしいのは敷地外だけではなかった。工場内でも機械が作動していた。
空回りする作動音は一番奥の機械だ。
僕は背中の痛みも忘れ、奥へ向かった。
少なくとも、それは僕らが出て行ってから動いたのだ。洋が関わっているに違いない。
激しく争った跡も残っていた。箱は全て倒れこみ、中身の缶は床を埋め尽くすように転がっていた。
僕は転ばないように、床の見えている所を選んで進んだ。
赤く光っているランプの横にスイッチがあった。
どうやら、それは破砕機のようだ。
僕もここを知ってる――洋の言葉がヒヤリとした感触を伝える。
僕は慌てるようにスイッチを切った。
作動音が収まったが、耳が急な静寂についてこない。耳鳴りのように作動音が続く。
化け蜘蛛を落としたか――それとも、一緒に落ちたか――それとも、一人で――。
僕はぐるぐると定まらない思考で、機械の中を覗き込んだ。
機械から嫌な匂いは一切しなかった。リンゴの匂いが微かにするだけであった。
僕は周囲を探した。
なぜ気がつかなかったのだろう――彼らはさらに奥にいた。
ドアの手前――そこに洋が倒れていた。
化け蜘蛛を粉砕機に落とそうとしたが失敗――逃げようとしてドアまでは行ったが、捕まった――そんな構図が目に浮かんだ。
洋はあお向けで倒れている。
そんな洋に化け蜘蛛が覆い被さっていた。
洋が食べられてる――僕にはそう見えた。
どこかでサイレンが鳴り響いている――それは僕の声だったのだが、その時の僕には分からなかった。
悲鳴とも怒号ともつかない声を発しながら化け蜘蛛に走った。
手には機械に立てかけられていた棒を持っていた。
恐らくモップだったであろう。
子どもの非力ながら、手加減知らずで殴りかかっていた。
巨体が揺らぎ、石像のように床へ倒れた。
倒したという喜色よりも、僕は心配を振り切れず、洋に駆け寄った。
今、思うとぞっとする。
もし喰われていたとしたら、僕はどんなものを見ることになっていたことか――。
幸い、トラウマになるような光景ではなかった。
洋は蜘蛛の獲物のように糸にぐるぐると巻かれていた。アゴが黒く光っているのは血だろう。
ケガをしてるのか――。
それ以外の傷はないようで、洋は僕の声に反応していた。返事はないが、身をよじって動いている。
糸に手を掛けた時、黒い棒が僕を吹っ飛ばした。
化け蜘蛛の足だ。
力は弱く、叩かれたというより、突き飛ばされたという感じだ。
くらり――とする視界の端で、黒い影が起き上がったのが見えた。
僕は立ち上がると叫んだ。
「こっちだ! こっちへ来い!」
本当にその時の僕はどうかしていたようだ。
今は絶対しない。
洋を助けるために、化け蜘蛛を引きつけようとしたのだ。
逡巡した気配を化け蜘蛛がみせた。
ちらりと洋を見たのだ。
洋から離れなかったらどうするか、その時の僕は捨て身覚悟まで考えていた。
僕と化け蜘蛛の思考は一瞬のことであった。
すぐに影がのそりと僕の方に向かってきたのだ。
よし――と僕は踵を返して、元来た道を戻ろうとした。
ただ、走ることができなかった。それだけではなく、下手をすると倒れかねなかった。
背中と足が重い――まるで何かがしがみついているかのようであった。
後で分かったのだが、叩かれた時に、足を捻挫していたのだ。
出来るだけ、動ける最高の速度で、僕は外へ向かった。
足を引きずり、時には片足で跳ね、外への出口――サッシへとたどり着いた。
化け蜘蛛のシルエットはついてきていた。
僕以上に遅かった。
だが、確実に追ってきていた。
僕は山頂を目指す登山家のように、リンゴを踏破し、塀へ達した。
その時――背後に風が起こった。下から巻き起こす風に僕は塀から枯草の上に落ちた。
息が止まりそうな衝撃を受けながらも、僕はすぐに起き上がった。和也や明子のいる方角へ進みだした。
歩きながら、ちらりと工場側を盗み見た。
塀の上にあいつは立っていた。飛び上がった風圧が僕を落としたのだ。
街灯や街明かりが影を強調している。夜を切り取ったような化け蜘蛛のシルエットが浮かんでいた。
女性の上半身が空を仰ぎ見ている。
僕も知らず同じ方を見上げていた。
いつの間にか雲は切れ、月がひんやりと浮かんでいた。
線路までの勾配が辛くなっていた。
僕は再び草地へ倒れこんだ。
先ほどの雨が、葉から弾かれて僕の手を濡らした。
むせるような秋枯れの匂いに、このまま倒れこみたくなる欲求が、僕の胸のうちでもたれあがった。
ずさ――と枯草を鳴らして化け蜘蛛も塀から下りた。
ゆっくりと僕の方へ向かってきた。
今度は僕の進む速度より、向こうの方がはるかに速い。
追いつかれる――僕は焦りながらも、もう立ち上がれないことにも気が付いていた。
這いながら線路を横断する。
「晃一くん!」
和也の声であった。
線路の向こう側――勾配を下りた所に二人の姿があった。
二人の立つ辺りの奥――背の高い植物で隠されているが、小川があるのだ。
そこで昔、蛙を捕った記憶がある。
また行けたらいいなあ――。
それは走馬灯のようなものか、僕は半分覚悟を決めていた。
和也と明子に逃げるよう呼びかけたかったが、その力もなかった。
もうすぐそこに巨体の気配を感じる。
僕は身体を起こしながら、振り返った。
化け蜘蛛は僕の足元から三メートルも離れていない所に立っていた。
僕からはやはり逆光で全ては見えない。
和也の声がまだ何かを叫んでいる。だけど薄いセロファンの向こうにいるように、耳には入らなかった。
化け蜘蛛はそこで身じろぎもせず、立っているだけであった。
視線を上に持っていったが、女性がいるはずの上半身も見えなかった。
彼女は月を見ているに違いない。
勘に過ぎないが、そう感じていた。
今もそう思っている。
だれにも言えないことではあるが――。
その時、また突風が僕を弾き飛ばした。
僕は化け蜘蛛に叩かれたものだと思っていた。
違っていた。
遠くなっていく意識の向こうで、電車の警告音とブレーキ音がいつまでも鳴り続けていた。
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