【2】高貴なお猫さまでした。
「貴家には多大なる迷惑をお掛けしました。心より謝罪申し上げます」
左胸に手を当て、堂々たる挙措で謝罪の言葉を述べる黒衣の騎士を、私たち三姉弟は見つめていた。
先程までマグラス伯爵邸の敷地外にいた黒衣の騎士は、今では敷地の中にいる――柵越しに話していても埒が明かないから、中に入ってもらうことにしたのだ。黒衣の騎士は自らの名をディクスター・リンデルと名乗り、『
「霊獣騎士団……」
弟のウィリアムが、固唾をのんでそう呟いている。霊獣騎士団の名は、私も聞いたことがあった。西の国境を守るレナス辺境伯が擁する、最強の呼び名も高き魔法騎士団だ。団員全員が高度な魔法の使い手で、その実力は国王直属の王宮騎士団・王宮魔術師団をも凌駕するという。
リンデル卿のきりりと精悍な顔立ちや短く刈った金髪は、まさに霊獣騎士団の騎士といった雰囲気だ――左手で仔猫をつかんでいることを除けば。
「ふぎゃぁ!」
「痛った! いい加減にしてくださいよ、てゆーか、そんな元気が一体どこにあったんですか!?」
「ふしゃー」
仔猫とケンカして、リンデル卿は引っかき傷だらけになっている……。
「あの……」
と、私は躊躇いがちに声を投じた。
「ところで霊獣騎士団の騎士様が、どうして猫ちゃんをお探しだったんでしょうか」
「猫ちゃん!?」
リンデル卿が、ぎょっとした顔になった。
「いえ。……ね、猫ですよ、猫ですとも。この猫は我が主君の、まぁ……飼い猫? でして……。馬車で移動している途中に逃げ出したので、捜索しておりました」
……なんで説明がぎこちないのかしら。
「ご令嬢に捕獲していただけて、助かりました。本当にありがとうございます」
淑女の礼で応じつつ、私の目は仔猫に釘付けになっていた。仔猫が私を求めるように、「にゃ、にゃぁ……」と切なげな声で鳴いている――胸がきゅんと締め付けられた。
妹のイザベルは「ふん、バカらしい!」と疲れた様子で屋敷に引っ込んでいった。興が冷めたらしく、花壇の話を続ける気も失せたようだ。
弟のウィリアムは、あからさまに迷惑そうな視線をリンデル卿に送り続けている。リンデル卿のほうも、これ以上長居する気はないらしい。
「それでは私はこれにて失礼を――」
「待ってください!」
暴れる仔猫を取り押さえながら踵を返したリンデル卿を、私は引き留めていた。ウィリアムが私を黙らせようとするが、私は引き下がる気はない。
「その子、とても嫌がっています。……乱暴にしないで。お願いだから、もっと優しくしてあげてください」
「――はい?」
仔猫は一瞬の隙をついて彼の手から逃げ出し、私の胸へと飛び込んできた。……やっぱりこの子は可愛くて、とても甘えん坊だ。
怒ったり暴れたりしたのは、何か嫌なことがあったからに違いない。
「よしよし。いい子ね」
あごの下を撫でて上げると、喉をコロコロ鳴らして喜んでいた。呆気に取られて立ち尽くしているリンデル卿に、私は「失礼ですが……」と切り出した。
「急に逃げ出したなら、この子なりに嫌なことがあったのでは? それにこの子、さっきすごく苦しそうにしていました。出会えたのも何かの縁ですから、みすみす見過ごすわけにはいきません。飼い主さんと、一度お話させていただけませんか? 事情をお聞かせいただきたいのです」
――またクララ姉さんの変なスイッチが入っちゃったよ。と、ウィリアムがぼやいている。
「いつもおっとりしてる癖に、たまに妙なところでこだわるんだから……まったく」
「ウィリアム。あなたは黙っていて」
リンデル卿は困惑の色を隠せずにいた。
「か、飼い主と話を? しかし、それは……」
仔猫に視線を注ぎながら、言葉を選んでいるリンデル卿。しかし、次の瞬間、
「!? 猫ちゃん……どうしたの!?」
私の抱いていた仔猫が、再び苦しみだした。体から妙な蒸気を出して、苦しげに身をよじらせている。
リンデル卿が血相を変えた。バッと私から仔猫を奪うと、仔猫を掴んで屋敷の内外を区切る鉄柵に向けて疾駆する――凄まじい跳躍力で高さ五メートル超の鉄柵を飛び越え、敷地の外に着地するや茂みの中に姿を消した。
「えぇ!? ちょっ……」
猫どろぼう!? 一瞬の出来事に理解が追い付かない。
鉄柵に取りすがった私が「猫ちゃん!」と叫んだのと同時に、茂みの中で紫色の光が炸裂した。
「いったい何なの!?」
大慌てで、私は門から外に出た。紫の光が出た場所に駆けつけると、そこにはリンデル卿がいて……。
「リンデル卿。……そちらの方は、どちら様ですか?」
茂みの中にいたのは、リンデル卿だけではなかった。上位貴族と思しき青年が、気絶してぐったりとしている。
リンデル卿は青年を抱えて、冷や汗を流して黙り込んでいたけれど。やがて覚悟を決めたように、はっきりとした声音で応えた。
「こちらは我が主……そして
***
(……この人、本当にあの猫ちゃんにそっくり)
私は客室のベッドで横たわる青年――ジェド・レナス様を見つめて、そんなふうに思っていた。
「重ね重ねご迷惑をお掛けして、申し訳ございません。ご厚意で主君を休ませてくださり、本当にありがとうございます」
深々と頭を垂れるリンデル卿に向かって、私は「気になさらないでください」と答えた。
リンデル卿の主君であるジェド様は、レナス辺境伯家のご令息――次期当主だそうだ。
今、この客室にいるのは三人。ジェド様とリンデル卿、そして私だ。目を覚ます気配のないジェド様を見て、私は心配になっていた。
「こんなに具合が悪そうなのに、飼い猫を追いかけてくるなんて……。よっぽど心配だったんですね」
「えっ!? えぇ。そりゃもう……うちの若は、本当にあの猫を可愛がってますので。ええ」
……そうだったのね。
てっきり、仔猫を手酷く扱う『悪い飼い主』なんじゃないかと疑っていたけれど。どうやら私の思い違いだったらしい。
ジェド様の髪は夜闇のように艶やかな黒で、少し癖のある柔らかそうな髪質――いわゆる猫っ毛だ。長いまつげが色白のまぶたに影を落とし、病みやつれた印象だった。
――たぶん私より年下だわ。二十歳くらいかな。
透き通るような白い肌は、あまり血色が良くない。しかし不健康さよりも、匂い立つような妖しい色香のほうが目立っていた。本当に美しい寝顔だ。人の美醜にあまり関心がない私でさえ、つい目を奪われてしまう。
リンデル卿は疲れた様子で息を吐き、苦笑しながら私に声を掛けてきた。
「それにしてもあの猫に懐かれるなんて、クララ嬢は本当に不思議な方ですね」
「え?」
「あの黒猫はとても気難しくて、すぐにどこかに行ってしまうし、かなりワガママだし。すぐ噛みつくし引っ掻くし、ともかく世話が大変なんですよ……。我々はいつも手を焼いています」
……そうなの? あんなに素直でかわいい猫ちゃんなのに?
「私には、ただの甘えん坊にしか見えませんでしたが……」
と答えた瞬間、リンデル卿は何がおかしいのか「ぷっ」と吹き出して笑っていた。
「……失敬。そうですか、甘えん坊……。くくく、若を叩き起こして聞かせてやりたいですよ、まったく」
「はぁ」
リンデル卿は、緩む口元を引き締めようと苦労している様子だった。
「あの猫は、クララ嬢に一目惚れしたのかもしれませんね」
「ひ、一目惚れ? 猫が私に?」
いきなりおかしなことを言われて、私は目を白黒させた。
「ええ。クララ嬢のような優しいご令嬢に出会えて、嬉しかったのでしょう」
「……そうでしょうか」
でも私、「優しい」と褒められるようなことは何もしていないけど。ただ、あの子を抱いて撫でていただけだもの。
「できれば、もう一度あの仔猫ちゃんに会わせてほしいのですが」
「す、すみません、クララ嬢。……あの猫はすでに、他の騎士に引き渡しており、……ええと現在は、レナス邸へと輸送中でして」
「そうでしたか……」
さみしいわ。きっと、もう二度と会えないのね。
胸にぽっかり穴が開いた気分だった。――と、そのとき。
「………………ん、」
ベッドから、小さな呻き声が聞こえた。リンデル卿が安堵の笑みを浮かべている。
「若! お目覚めですか!」
――ジェド様って、瞳の色まで仔猫とそっくりなのね。
長いまつげに縁どられた切れ長の目は、翡翠色。
美男子というありきたりな表現が失礼だと思えるほどの、人間離れした『美』がベッドに横たわっていた。寝姿も端麗だったけれど、起きているとなお美しい。気だるげな表情で、うっすらとまぶたを開いている。
「……ここは?」
「こちらはマグラス伯爵領の領主邸です。若が領主邸付近の茂みで失神していたため、マグラス伯爵家のご厚意により休ませていただきました」
リンデル卿が私を示したので、私はジェド様に向かって淑女の礼をした。けれどジェド様はまだ意識がぼんやりしているみたいで、部屋の天井や壁を見つめて首を傾げていた。
「茂みで、失神? ……なんだそれは。俺はずっと、馬車に乗っ」
「若は馬車を降りて、
リンデル卿が、慌ただしい様子で声を差し挟んだ。
「ほら、若! 猫ですよ、黒猫! ペットの黒猫が、うっかり馬車から逃げたでしょう? だから我々全員で、必死に捜索していたじゃありませんか! ね?」
「黒猫? ペット? ………………っ!?」
これまで朦朧としていたジェド様が、弾かれたように飛び起きた。リンデル卿に掴みかかり、怒気も露わに声を荒げる。
「ね、猫だと!? ふざけるなよお前、なんて失礼なことを!」
「若!!」
リンデル卿が鋭く遮り、私のほうに目を馳せる。つられたように、ジェド様も私を見つめた。
視線がばっちり重なって、不覚にも私の心臓はどきりと跳ねた。
「リンデル。……こちらのご令嬢は?」
「マグラス伯爵家のクララ嬢です。黒猫が迷い込んできたところを、保護してくださったそうです。ちなみに黒猫はクララ嬢をひどく気に入り、彼女を舐めたりコロコロ喉を鳴らして甘えたりとベタ惚れでした」
「!?」
吊り目がちな深緑の瞳を大きく見開き、ジェド様は愕然としている。
どうしてそんなに驚いているんだろう。自分の飼い猫が見ず知らずの私と仲良くしていたのが、そんなに嫌だったのかしら。
やがて彼は、真っ赤な顔をしてうなだれた。
「……マジかよ。全然覚えてねぇ」
「若!」
ハッとした様子で、ジェド様は口をつぐんだ。やがて、場を取り繕うように彼は私に声を掛けてきた。
「クララ嬢、と言ったな」
「はい」
「当家の……その、黒猫を保護してくれたそうだな。ありがとう」
真摯な態度でお礼を言ってくれた彼を見て、私は顔をほころばせた。
「お礼には及びません。本当にかわいい子だったので、私も幸せな気分でした」
「か、かわいい……アレが?」
「はい。ただ、少し具合が悪そうだったのが気になりました……。どうかあの子に無理をさせずに、大切にしてあげてください。お願いします」
真剣に訴えた私のことを、彼はぽかんとした顔で凝視していた。……ずいぶん長いこと、瞬きもせず私の様子を観察している。何かを考えているみたいだけれど、一体どうしたのだろう。
「不躾なことを聞くが、君は未婚か?」
「はい!?」
この人、いきなり何てことを聞いてくるのかしら……。答える義務はないけれど、素直に首肯することにした。
「婚約者はいるか?」
「…………おりません」
「じゃあ、密かに想ってる男とか」
「それもいませんが」
質問の意図が分からない。私が頭の中を疑問符でいっぱいにしていると、ジェド様はなぜか「よし」と呟き、何かを決意した顔をしていた。
彼の美貌が、ずずいと私に迫ってくる。
「ど、どうしたんですか。あの……ジェド様?」
「猫を助けてくれたついでに、俺のことも助けてほしいんだが」
「どういうことです?」
ひとつ大きく息を吸い、彼は私にこう言った。
「俺の妻になってくれないか」
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