第43話 この手を離さない 5

 客間のベッドに転がりながら、ルイことクロードは左手にはめた指輪を眺めていた。

 セシアとおそろいのデザインの結婚指輪。わざわざ青い石をはめ、裏面には首飾りに刻まれていたのと同じ文字を刻んだ。

 首飾りの裏面には、イオニアの言葉で『永遠の愛を誓って』と彫られていた。それは母が教えてくれた。これは父がくれたものだと言って……。


 ただ、立派過ぎる贈り物にずっと違和感はあった。

 王宮から盗まれたものだと聞いて逆にしっくりきたほど。

 そうなると、王宮と母との接点がわからないのだが、母は自分の過去も父親のこともほとんど語らなかった。知っているのは「戦争が起きて祖国を追われた」そのことだけ。

 国王は母と面識があるような様子を見せたが、たとえ母が王宮に出入りできる身分だったのだとしても、最終的には着の身着のまま行き倒れた。

 母にとって「過去はなかったことに」されている。第一、イオニアという国はすでに存在しない。仮に母が王女だったとしても、今はただの一般人……戦争から逃れてきた難民の一人でしかない。


 母の首飾り。王宮から盗まれた首飾り。

 誰が誰に贈ったものなのかわからないが、最愛の人へ贈られたものには違いない。

 だから同じ言葉を指輪に刻んだ。

 夫婦のまねごとをすることになった時、これくらいなら……と思って作った。


 セシアとは生きる世界が違う。彼女はこの国でも由緒ある侯爵家の一人娘。自分は父親もわからない戦争難民。アルスターを追い出されてごろつきをやったあと、今度はアレンの命令でなんでもやった。リーズ半島では何万人ものバルティカ人兵士を見殺しにした。救う方法はあったと思う。もっと賢いやり方はいくらでもあったはずだ。……この両手は血だらけだ。

 何をどうやったって、セシアと一緒に生きることはできない。それがわかっているのに、まったく未練がましい。


 ルイは溜息をついた。

 アルスターで過ごす夜は今日が最後。もうここを訪れることはない。


 以前だって、アルスターに来ようと思えばいつでも来れた。ただ、セシアの姿を見てしまったら自分が抑えられなくなることはわかっていた。

 それにもう、金のためならなんでもやる、セシアから一番遠い場所に落ちてしまった。それでなくても異民族の戦災移民。手を汚すたびに、恋焦がれてやまないセシアと自分の距離を痛感した。その痛みを感じるたびに、気の迷いを起こさなくて済んでいた。

 アルスターにふらふらと近づいてしまうという気の迷い、だ。

 今の自分なら、セシアを目の当たりにしたら何をしてしまうかわからない。そして今の自分にはセシアを連れ去ることなんて造作もないことだった。


 だが連れ去ってどうする?

 手に入れることは簡単だ。けれど、彼女を幸せにしてやる自信なんてない。


 自分が汚れれば汚れるほどセシアにふさわしくなくなる。それでいい。それでよかった。セシアは最も遠いところで明るく輝いていてほしかった。それなのに。

 この任務のせいで気持ちが抑えられなくなりつつある。引き受けるべきではなかった。だがほかの誰かがセシアの夫役をやるのもなんだか業腹だ。

 彼女に親しみをもって笑いかけられたら理性を保っていられる自信がない。だから、距離を取っておきたかった。けれどそれはうまくいかなかった……。


 ――俺は、彼女を守れたか……?

 命の安全だけではなく、その心を傷つけたりはしなかっただろうか。気になるのは、その一点だけだ。


 アレンに下される処分に関しては心配していない。首飾りの件がある。アレンは首飾りの持ち主である母を手放さないはずだ。当然、自分のことも。だからせいぜい、「黒」という呼び名が変わる程度だと思っている。

 アレンの駒であり続けることに不満はない。ほかに行き場はないのだから。


 クロードは目を閉じ、指輪のはまった左手を額の上に置いた。

 瞼の裏に浮かぶのはセシアの姿ばかりだ。自分のことより、唯一の肉親のことより、気になる。


 初夏の夕方の王都で、十二年ぶりに見たセシアや、初めて「ルイ・トレヴァー」として顔を合わせた時の戸惑った表情のセシア、怒りんぼのセシア、涙をにじませて突然の別れを迎えた祖父を思うセシア。笑っている顔も泣いている顔も、思い悩む顔も、鮮やかに心に焼き付いている。


 クロードは大きく溜息をついた。


 彼女のこれからが幸せでいっぱいでありますように。

 迷子になりやすい彼女の手を取ってくれる人が現れますように。


 ――俺なら……絶対に、手を離さない……。




 そんなことを考えている時だった。コンコン、と控えめにノックの音がする。

 こんな夜半に誰だろう?

 トーマを初めとする使用人なら、ノックの後に用件を言うはずだ。そう思い、黙っていたが、一向に声は聞こえてこない。その代わり、再び、コンコン、と小さなノック音が響いた。


 ――セシアか……?


 そういえば三階の子ども部屋にいた頃、セシアはこうしてクロードを呼び出していたものだ。

 そのことを思い出し、体を起こそうとした時、ドアが開いた。

 姿を現したのは想像した通り、セシアだった。今朝がた見た、薄い生地の寝間着姿だ。

 ベッドの上で半身を起こしているクロードとばっちり目が合う。


「……どうした? 眠れないのか?」


 子どもの頃は真っ暗な寝室に一人でいるのがこわい、という理由で呼び出されていた。だが今のセシアはもう子どもではない。真夜中に寝間着姿で男の部屋を訪れる、その非常識さくらいはわかっているはずだ。


「……うん、ちょっとね……」


 クロードの非難めいた視線に気がついたのか、言いながらセシアはこわごわといった様子で部屋の中に入り込み、ドアを閉めた。

 そしてそのままぽてぽてと歩いてきて、遠慮がちにクロードが寝ているベッドの端に座る。クロードは半身を起こしてそんなセシアの背中を見つめた。

 なぜかその後ろ姿が昼間より小さく、頼りなく見える。


「明日のことを、聞きたくて」

「明日? 俺は迎えが来るらしいから、そいつと一緒にここを出ていくことになると思う。身の回りのものは持っていくが、置いていくものについての処分は任せる」

「捨てないわよ、別に……」


 セシアはそう呟き、しばらくクロードに背を向けて座っていたが、やがて意を決したように振り返った。


「今朝、指輪を捨ててもいいという話をしてきたけれど……あれ、断るわ」

「……え……?」


 菫色の瞳がまっすぐに見つめてくる。

 言われている言葉の意味がわからなくて、クロードは素で聞き返してしまった。


「私は誰とも結婚しない。私の夫はあなただけよ。これからもずっと」

「……何を言っているんだ。だってこれはフェルトン捕獲のための方便だろう」

「始まりはそうかもしれないわ。でも私はあなたが好き。ううん……もっと前から好きだった。あなたがここにいた頃から、私はあなたのことが好きだった」


 セシアの視線にも言葉にも迷いがない。

 なぜ。どうして。

 クロードは混乱の中、セシアの言葉を聞いていた。


「あなたがいなくなって寂しかった。ルイ・トレヴァーという知らない人の名前を名乗られたけれど、あなたが再び戻ってきて……あなたと過ごせて私は幸せだった。一人で生きていくなんて言ったけれど、やっぱりダメね……心が弱すぎて」


 微笑むセシアの瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。


「だから……お願い。この指輪を私から取らないで」

「……『ルイ・トレヴァー』は別にいる。俺じゃない……それに、本物はたぶん、もうこの世にいない。どのみちセシアの結婚は無効になる」

「本物には悪いけれど、関係ないわ。私が神様の前で永遠を誓ったのは、あなただもの。それとも嫌なの……? もしそうなら」

「嫌じゃない!」


 セシアの問いかけに対し、クロードは思わず大声で返してしまった。

 声の大きさにセシアがびくりとなる。

 怖がらせてしまった。そんなことがしたかったわけじゃないのに。クロードの心にさっと後悔が広がる。


「私をこのままあなたの妻にしておいてくれる……?」


 セシアがこわごといった感じで聞いてくる。


「……俺の妻になってくれるのか。軍の犬として汚いことしかしていない……身分も住む世界も違う、甲斐性もない……俺はあんたに何もしてやれない……」

「そんなことはない。あなたが何者であろうと関係ない! あなたがいてくれたら、寂しくないもの。心が迷子にならないの」


 セシアがにじりよって、クロードの手に触れてくる。


「俺はイオニア人で、戦争難民だ」

「知ってる」

「軍の工作員で……汚い仕事ばかりやっている。とても人に言えないようなことを、だ」

「この国のために、でしょう」

「たくさんの人を、殺してきた」

「……。つらい役目を引き受けてきたのね」


 セシアの言葉ひとつひとつが、胸に染みる。


 本当はずっと怖かった。

 セシアが自分をどう思っているのか、知りたくなかった。

 一方的に気持ちをぶつけながら、セシアから目を逸らし続けていた。


「セシアと一緒に生きるには、俺は汚れすぎている。……誰からも聞いていないのか?」


「なんとなくは聞き及んでいるけれど……だから、何? 前も言ったけれど、あなたのその髪の毛、とてもきれいだと思うわ。あなたは何ひとつ汚れてなんかいない。与えられた任務をきちんとこなす、立派な人よ。私や叔父様なんて、遠いご先祖様の功績にすがっているだけだもの。私たちに比べたら、この国のために尽くしてきたあなたのほうが何倍も、何十倍も、立派だと思う」


 セシアの言葉に涙がにじんできて、思わず俯く。

 泣いている姿なんて見られたくない。


「……立派なんかじゃない。命令に従ってきただけだ。俺はセシアが思うような人間じゃない」

「今日は私を助けにきてくれた」

「だからそれは」

「任務だから?」

「……」


 セシアに問われ、クロードは緩く首を振った。


「私は、そんなあなたが大好きよ」


 あふれる涙を止めることができない。クロードは腕を伸ばしてセシアを抱きしめ、彼女の肩口に目を押し付けた。嗚咽を漏らすことだけはプライドが許さなかった。

 だが、セシアにはバレていたのだろう。

 まるで子どもをあやすかのように、セシアの手が背中をなでる。


 セシアは気にならないという。

 イオニア人で、父親が不明の戦争難民で、軍の犬として多くの人の運命を狂わせてきた。

 好きになった子が出自不明の自分を、生まれだけで差別するような人間でなくてよかった。自分を丸ごと肯定して抱きしめてくれるのがセシアでよかった。……セシアを好きになってよかった。

 今までは自分はセシアにふさわしくない、釣り合わないと思って、一方的にセシアの幸せを願うばかりだった。だが、初めて心からセシアとともに生きたいと思った。


 ともに生きて、幸せになりたい。


 小さい頃からセシアは自分を慕ってくれていた。優しい陽だまりみたいなセシアの笑顔が大好きだった。

 この子のそばにはいられない。セシアは侯爵家のご令嬢。やがて身分が釣り合う誰かと結婚する。

 それでも手をつないで歩きながら、このままずっと彼女と歩いていきたいと願っていたことを思い出した。


「あなたは住む世界が違うと言うけれど、私にはそうは思えない。だってこうしてあなたに触れることができる」

「……望んでもいいんだろうか? セシアと生きることを」


 思わず呟けば、


「当たり前じゃない」


 セシアが力強く頷いてくれる。


「あなたは私を守ってくれた。それにあなたは国のために身を捧げてきた。そんなあなたを誰が非難するというの。もしそういう人がいたら私が黙らせるから」

「……どうやって」

「そうね……ああ、私、いいものを持っているの。アレン王子の書面。私の名誉を回復してくれるというものよ。拡大解釈して、私の要求を呑んでもらうわ。王子様なんだからなんだってできるでしょ? 私のおかげでアレン王子は助かったのだから文句は言わせないわ」


 セシアが小さく笑う。


「でもいきなりアレン王子に会いたいと言っても難しいのかしら。イヴェール少佐に相談すればなんとかしてくれる?」

「……ああ、イヴェールならなんとかしてくれる。アレンとも知り合いだから」

「知り合いなら話が早いわね。もし文句を言うならカエルを投げつけるから。私、カエルどころかオタマジャクシも、なんだったら卵も平気よ」


 そういえばセシアは虫も爬虫類も平気なタイプだった。

 アレンとは仲良くできそうにない人種だ。

 両手にカエルを持ったセシアがアレンを脅している様子を思い浮かべ、クロードは思わず吹き出した。


「何よう……」


 抱きしめられたままいきなり笑われて、セシアが不満そうに呟く。

 おてんば少女はセシアの中に健在のようだ。

 ぐだぐだ考えていた自分がばからしくなってきた。

 セシアはとっくに覚悟を決めてくれていた。覚悟がついていないのは自分のほうだった。

 セシアとともに生きると決めたなら、やらなくてはならないことがある。


 アレンに使われるだけではだめだ。使えるものは全部使って、アレンと交渉しなくては。ほしいものを手に入れる努力をしなければ。

 ずっと目を背けていた過去とも向き合わなければ。


「イヴェールに俺からも願い出てみる。セシアを俺の妻にできないかと……ただ、俺には戸籍がないし、今回の処分もあるからセシアを待たせることにな……」


 言葉の途中にもかかわらず、セシアがばっと体を離して、満面の笑顔でクロードを覗き込んできた。


「本当に!? クロード、大好き!」


 言うなり今度はセシアからぶつかるように抱き着いてくる。勢いあまって、セシアが押し倒すような形で二人してベッドに倒れ込む。

 セシアがクロードの体の上で嬉しそうに笑う。


「いくらでも待つわ」


 セシアの笑顔を見ていると、こちらも嬉しくなる。

 二人とも同じ気持ち。それがわかって、ずっと感じていた飢餓感が満たされていく。


 しばらく見つめ合っていたが、セシアが何かに導かれるように、そっとクロードの唇に自分の唇を重ねてきた。

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