この手を離さない
平瀬ほづみ
第一章 祖父の遺言
第1話 侯爵令嬢セシアの事情 1
大陸暦一八九七年、六月。
窓の外を初夏の風景が飛ぶように過ぎていく。どこまでも続く穏やかな田園風景の中に、時々、農作業をしている人の姿が見える。空は晴れ渡り、若葉がきらきらと美しい。穏やかで美しい景色を、セシアは憂いを含んだ表情で、車窓から眺めていた。
「そう不貞腐れた顔をするものではない」
はす向かいに座る祖父がセシアに声をかける。
バルティカ王国の主要な都市を結ぶ急行列車内にて。一等客だけが利用できるラウンジに、ドワーズ侯爵と孫娘の姿はあった。
早朝に始発駅を出た急行が大陸南東部にあるアルスターの駅で二人を乗せたのは、午前十時過ぎのこと。領地であるアルスターから王都キルスまでは約八時間の長旅である。
客室に荷物を運び入れ、二人はラウンジを訪れていた。もうじき昼食の時間なので、それまでここで時間を潰そうというわけだ。
「……おじい様、私が社交界を苦手に思っていることをお忘れなのですか?」
セシアは呆れながら祖父を見やった。
「忘れてはおらんが、おまえももう二十二歳になる。今年こそは相手を見つけるんだ」
「もう見つからないんじゃないかしら」
ふう、とセシアは溜息をつきながら目の前のテーブルに置かれている新聞に手を伸ばした。祖父が持参してきたものだ。
日付はなぜか一週間前のものである。気になる記事でも載っているのだろうか?
「ジョスランのことか。……大丈夫だ、今年は信頼できる者に声をかけてあるから」
「そう。要するに、王都でお会いする方々はおじい様のお眼鏡にかなっている方々なのね。それは楽しみですこと」
セシアは嫌味を織り交ぜながら答えつつ、新聞に目を落とした。
「わしも七十を超える。健康には気を付けているつもりだが、いつまでもおまえのそばにいてやれるわけではないからな」
祖父がしみじみと呟く。
「ご安心くださいませ、おじい様は百歳まで生きますよ。トーマもリンもそう言っておりますし」
新聞を眺めながら執事とメイド頭の名を出せば、
「あいつらめ……」
祖父が苦々しく呟いた。
執事のトーマもメイド頭のリンも、祖父とは付き合いが長い。気心の知れた間柄ゆえに軽口も飛び出してくる。
手にした新聞の一面には、首飾りのイラストが大きく載っている。
特徴的なデザインの首飾りに、セシアは美しい形の眉を寄せた。
――この首飾り……。
見たことがある。
見出しは「王妃の首飾りは今どこに?」国王が王妃に贈ったもので、二十七年前に王宮から盗まれたのだという。ずっと行方を探しているが見つからないので、広く国民に情報提供を求めるものとして、画像を公開した――……。
――まさかね。
セシアに首飾りを寄越してきた人物は異国の民で、王家との接点なんてどこにもない……。
「今は健康かもしれないが、いつ何が起きるか誰もわからんのだ。現にロレンシア帝国とまた戦争が起きたではないか……あれほどコテンパンにしてやったというのに、たかだか数十年であいつらは我がバルティカ軍の怖さを忘れたと見える」
怪訝そうに新聞を見つめているセシアに気付くことなく、祖父であるモーリス・ラング・ドワーズが語る。
七十を超えても眼光は鋭く、白くなったとはいっても髪の毛もひげもたっぷり蓄えている祖父は、若い頃に将校として軍隊に勤めていたこともあるため、体格も立派な上に、やたら丈夫だった。
「とにかく、今年こそは夫を決めてもらうぞ、セシア」
そして、今から十三年前、セシアの両親である息子夫婦が事故で亡くなり、セシアの面倒を見ることになってからは「孫娘が嫁に行くまでは元気でいなければ」と一層健康に留意するようになった。そのおかげで、七十をいくつか過ぎても食事は若い頃と変わらない量を食べるし、日課としている筋トレも若い頃の内容のままこなせている。見た目も、同世代に比べたらずっと若々しい。
「それなんだけれどね、おじい様。実は、考えていることがあるのよ……」
セシアは新聞から目を上げて祖父に目をやった。
結婚への考えについては、前々からいつかは祖父にきちんと伝えなければと機会をうかがっていたのだが、なかなか言い出せなかった。
「奇遇だな。わしもいろいろ考えておる。まあとにかく、王都に着いたらきちんとジョスランと話し合わなくてはな」
いい機会だから伝えようと意気込んだのだが、祖父はセシアの視線を避けるように、窓の外に目を向ける。……おそらく祖父も気が付いてはいるのだ。セシアに結婚する意志がないことを。けれど祖父の考えはセシアとはちょっと違う。セシアを嫁がせることが大切だと思っている。
実家頼りの独身暮らしが心もとないことはセシアもわかっているので、祖父がセシアを嫁がせたがっているのも理解できるのだが……。
「あの放蕩息子がもう少し、しっかりしてくれていれば、おまえにも苦労をかけなくて済んだものを。おまえももう二十二歳だ……おまえのおばあ様、クレアは二十歳の時に嫁いできたんだ。おまえももう嫁いでもいい年頃だ」
「……でも、私は」
「この話は以上だ。おまえはドワーズ家の一人娘だ、いつまでも一人でいられないことはわかっているだろう?」
言い募ろうとしたセシアに一瞥をくれ、祖父が話を切った。
セシアは言葉を続けることができず、再び手にした新聞に目を落とした。
今まで結婚の話を持ち出されるたびにのらりくらりとかわしてきたが、今回ばかりは難しそうだ。
――結婚なんてしたくないのに……。
セシアは、夏用のドレスの下に隠されている、右の下腹部の大きな傷跡を思い浮かべた。
おぞましい傷跡だ。セシア自身も目を背けたくなる。こんなものを見たい男性がいるだろうか。そしてこの傷はセシアの罪の証しでもある。
許される日など来ない。おまえだけ幸せになるな……この傷はそう語りかけている気がするのだ。だから、結婚なんて無理。
セシア・ヴァル・ドワーズ、二十二歳。
栗色の髪の毛に菫色の瞳、ミルク色の頬によく熟れたラズベリーのような唇。整ってすっきりと美しい顔立ちのセシアは、ドワーズ次期侯爵夫妻の娘として生を受けた。しかし両親はセシアが九歳の時に事故で他界しており、以降セシアは祖父であるドワーズ侯爵と二人で、領地アルスターの屋敷で暮らしてきた。
王都キルスで貴族院が開かれる六月から八月の三か月間、貴族たちは領地から出てきて王都で過ごす。いわゆる社交シーズンだ。独身者はこの間に夜会や集まりを通じて結婚相手を探すのが慣例となっていた。その後は王都に残ったり領地に帰ったりしつつ、ゆっくりと親睦を深めていく。
セシアも慣例通り、十八歳の夏に社交界にデビューしたのだが、デビュタントとして過ごしたあの夏は本当にさんざんだった。
すべては叔父であるジョスランにある。
セシアの父の弟であるジョスラン・イル・ドワーズは、祖父から与えられた領地からの収入を元手に投資を行っているのだが、祖父いわく「ドワーズ家が付き合う人間としてふさわしくない」種類の人間との関係が深い。そしてうまい話には落とし穴もある……というわけで、金遣いも荒ければ借金も多い。
セシアの社交界デビューをさんざんなものにしたのも、そんなジョスランのせいだった。伝統的な考えを大切にする人たちからは煙たがられているのだ。
幼い頃のけがの傷跡を持っているセシアは、もともと結婚には乗り気ではない。それでも社交界にデビューするその日はドキドキしながら王宮を訪れたものだ。……が、見事に誰からも相手にされなかった。
自分が慣れていないせいかと思い、祖父のもとに届く招待状に応じて様々な夜会に顔を出したが、いずれも同じような反応をされる。
わけがわからなくて落ち込んでいたところに、さる親切な令嬢がその理由を教えてくれたのだ。
いわく、「ドワーズ家のジョスラン様はお金を借りても返してくれないことで有名よ。その姪であるあなたと、お付き合いしたいと思う人がいると思って?」
ジョスランの気質や考え方が真面目な気質で伝統を重んじる祖父と相容れないことは知っていた。しかし、田舎に比べれば先進的な考えをしている(と思っていた)王都の貴族社会でも広く煙たがられているとは知らなかったのだ。
言われたことをそのまま祖父にぶつけ、問いただしたところ、祖父はその噂を認めた。どうりで、結婚はもちろん、友達すらできないはずだ。
翌年からセシアは傷が痛むことを理由に、社交シーズンになっても王都に行くことはせず、領地アルスターの屋敷に引きこもるようになった。祖父も、ジョスランの行いが改められない限りはセシアが社交界で誰からも相手にされないことはわかっていたのだろう、アルスター周辺の集まりには積極的に顔を出すことを条件に、十九歳から二十一歳までの三年間は引きこもりを許してくれたのだが、今年は許してくれなかった。
理由は、ジョスランが祖父から貸与されている領地を売り払おうとしたことである。
管理はジョスランに任されているものの、所有者は祖父のままだったから、売買契約の契約書が祖父のもとに送られてきたのだ。
祖父には二人の息子がおり、次の侯爵には兄であるジョエルを指名していた。だから弟であるジョスランには、広大なドワーズ家の領地の一部と、王都のタウンハウスが与えられることになった。ドワーズ家の財産のほとんどを兄が継ぐために、弟のほうにも十分暮らしていけるだけのものを、祖父は与えていたのだ。
そして父亡きあと、祖父は何度もジョスランに生活態度を改めるよう求めては喧嘩になっていた。そのことはセシアも知っていたから、祖父は指名をしていないものの、ドワーズ家の後継者は叔父で決まりだとセシアは思っていたのだ。そして先月、領地の一部を売却しようとしていることが判明したため、この件についてジョスランと直接話し合うことにしたらしい。その際、「ジョスランと相続について話し合いをするから同席しなさい」と言われてしまえば、「王都の社交界は嫌い」とごねて領地に残ることもできない。
祖父も七十を超えた。セシアも二十二歳。だから祖父は自分が元気なうちに、孫娘の相手を定めようと決めたに違いない。
――どうやら誰かに打診しているようだし、結婚は避けられないかしらね……。
セシアは再び窓の外に目をやった。
窓の外は明るいが、セシアの心は憂鬱だった。
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