第3話 鈴と猫と魔法少女


 この町の治安は普通――というか平和そのものである。悲鳴なんてそうそう聞こえるものではない。まして今はもう夜遅いとスマホの時計は告げていた。

 静かな中で聞こえる女性の喚き声。妙な胸騒ぎ。僕はさっと窓の方に向かう。

 ここはアパートの二階。そして細い道路に面した角部屋。マンションほどではないが、目の前の道をある程度見渡せるほどには見晴らしはいい。

 開け放った窓。街灯は深い紺の世界に路上を映し出す。見渡す左右には何もなく――真下を見ると。


 サングラスをかけたチワワ――の首が付いた屈強な男が、帽子をかぶった女性を襲っていた。犬人間である。


 僕は目を見開き。

「鈴はどこだッ! 鈴の場所を言え!!」

 犬人間の恫喝の叫び声に、喉が詰まった。

 僕は知っている。襲われている女性が何も知らないことを。偶然巻き込まれて襲われてしまっているだけということを。

 何故なら、魔法の鈴はここに……目の前の小さな机の上にあるのだから。

 部屋の中心に置かれた机、というよりちゃぶ台。食べかけのカップラーメンが置かれたその真ん中に鎮座するちいさな鈴。

 この魔法の鈴は、再三だが「触れた相手の願いを可能な限り無尽蔵に叶える究極の願望器」――つまり、どんな願いもかなえられる。

 死者蘇生は自分の身を持って体験したし、それができたということは特定の相手の命を奪うことすら造作もないのだろう。願えば億万長者にだってなれるのだろうし、世界征服すら夢ではない。

 そりゃ誰でも欲しくなるはずだ。それがいま、僕の手元にあるということは。

 嫌でも状況を理解することになった。


 ――僕は狙われている。


 正確に言えば狙われているのは僕ではなく鈴なのだが。

[同じことだろう。私を手放せば君は死んでしまうのだから]

 この鈴が言うには、僕が形を保てているのは鈴のおかげらしい。

 うるかちゃんと僕の身体をこねくり回して一つの身体にして、ようやく僕の魂を受け入れているそうだが、そのつなぎの役目を果たしているのがこの鈴。速い話が接着剤。

 ならば、その接着剤が消えてなくなればどうなるか。当然くっついていたものは剥がれてしまう。

 僕の身体はバラバラに砕け散って、うるかちゃんは元通り。鈴は狙われ続ける。

 この鈴は「触れた相手の」願いをかなえる代物。つまり願いは触れていなければ発動しない。それが意味すること、それは――。

[タイムラグはあるが、私を手放せばお前は確実に死ぬ]

 魔法の鈴に改めて告げられ、僕は息を呑んだ。

 ささっと鈴を手元に握りしめる。

[近くにあるうちはまあ大丈夫だから安心するといい]

「それでも心臓に悪い……」

 バクバクと心拍数を上げた心臓を深呼吸して落ち着かせ、僕は思考する。

 ――いま僕には、二つの選択肢がある。

 逃げるか、立ち向かうか。

 二択に見えて、実質一択じゃないか。僕に戦う力なんてない。

 けど――。


 目の前の女性は、必死に叫ぶ。

 そんなもの知らない。理不尽だ、と。


 そう。理不尽。

 僕は理不尽が大嫌いだ。不条理が大嫌いだ。

 ――かつて、変えられないものが原因で……不条理に、理不尽に、痛い目にあったことがあるから。

 そして、いま目の前の見知らぬ女性に襲っている不条理の原因は、まさしく僕なのだ。

 僕のせいで、見知らぬ他人が理不尽に傷つけられる。

 これからもそれを続けて、自分だけはのうのうと逃げおうせる気か? ――冗談じゃない!

 そんなの絶対に耐え切れない。今でさえ、こうまで胸は苦しくなっているのだから。

 締め付けられる胸、喉。僕は掌の中の小さな鈴に願った。


「……僕に、立ち向かう力をください」


 できるんだろ。本当に、死者蘇生をも可能にする「究極の願望器」であるならば。

[その願い、聞き入れた]

 瞬間、掌の中――鈴が発光する。

 そして刹那、全身にひびが入ったような痛み。

「――っ」

[体を少し作り変える。我慢しろ!]

 その言葉の通り、僕は一瞬バラバラに砕け散った。

 パズルのひとかけら、プラモデルのパーツごとに分けられた状態なのであろう。僕とうるかちゃんの小さすぎるひとかけらは、三秒と経たずにもう一度ひとつの身体へと再構成され始める。

 まずは骨。内臓、筋肉、神経。そして、皮膚や髪が造形されていく。

 神経が戻った瞬間、びりびりした痛みが全身を支配して、声にならない悲鳴を上げた。

 筋肉が慣れておらず動かない歯を食いしばって、どうにか耐えきり――「っ、はぁっ、はぁっ……ふぅ……」どうにか呼吸を再開した。

 手を見ると、網目状のミミズ腫れ。すぐに赤みが引いて、もとの白い肌に戻っていく。

 そして、ふと不可思議な感覚に襲われ、下を見た。まるで、何もはいていないかのような「物足りない」感じ。スースーするような。

 その妙な嫌な予感は、果たして当たっていた。

「……なんですか、この衣装」

 白いブラウスに、パニエでふんわりと広がった、カフェラテのような淡い茶色を基調とした可愛らしい膝丈のジャンパースカート。差し色の黒と白に、どこか三毛猫のような面影。白のフリルソックスに黒のメリージェーンはどこか幼さすら感じるような組み合わせで。

[鏡でも出してやろうか]

 何も言えずにポンと出された全身を映せる大型の鏡には、まるで美少女のような少年が映っていた。幸いなことに僕自身の見た目はほとんど変わっていないものの、女装させられた今となってはかえって心苦しい。

 すなわち、残念なことに、男でありながら幼い少女のような容姿の僕には、このフリフリのロリータ風衣装がひどく似合ってしまっていた。

 そして、頭についた猫の耳がその可愛さを引き立てるかのようにふるりと一瞬閉じた。

「なんなんですか、これ」

 改めて鈴に――首元のチョーカーにくっついていた魔法の鈴に問いかけると。

[服装は趣味さ。かわいいだろう]

「かわいいですけど!」

 趣味が悪いんだよ、と怒鳴ろうとしたところで。

[まあ理由はじきにわかる。ひとまず行ってこい]

 封殺された。

 行って来いって言われたって、恥ずかしすぎる。

 でも、動かなければ――僕のせいで理不尽に襲われる人間は、増えていくばかりだ。

 す、と息を吸って、ふぅっと吐いて。

 僕は開け放った窓から飛び降りた。

 体は圧倒的に軽く、まるで猫のようにしなやかに、とすっとアスファルトの地面に降り立った。


「鈴はここだ!」


 叫んだ僕に、振り向く犬人間。

 女性は解放され。

「逃げてください、今のうちに」

「は、はい!」

 逃げていく女性に犬人間は目もくれず、代わりに僕に詰め寄る。

「そうか。鈴はそこか」

 サングラス越しの鋭い眼光に射竦められ、しかし僕は負けじと睨み返し。

「そうだ。でもただで渡すものか!」

 しゃっと、近寄ってきた犬面に向かって跳躍。そして、その横っ面をぶん殴った。

 ――精神生命体。それは魂だけで構成された、文字通りの「精神」でできた「生命体」。魂のあり方によって、基本型をベースに自由自在に変貌する。

 だから、僕はうるかの「猫」の基本型をベースに、身体能力を鈴の力で高められたことで、戦う力を手に入れたらしい。

 なるほど。普通の服だと急速な筋肉の膨張や収縮に耐え切れなくてすぐに破れるかもしれない。だから、激しく動いても破れない「戦うための服」としてこの衣装があるわけだ。

 だからこそ、いまの僕はまるで猫のように、変幻自在に跳び、駆け、戦える!

「クソ……このメスガキ!」

「僕は男だ!」

 そんな掛け合いと共に僕は鋭い爪を出して、犬人間に飛びかかる。

 犬人間は腕で防ぐ、が、その腕にはっきりと傷痕がついた。しかし、血は流れない。代わりに、微かな粒子状の光の粒が天に昇って消えた。

 この犬人間も精霊なのか。意味のない悟り。

「この野郎……女装野郎……! 一瞬興奮したのが悔しいぞ……!」

「うっへえ、気持ち悪い」

 犬人間とはいえ、男に興奮される日が来るとは思わなかった。背筋にさぶいぼが立つ。――女装野郎もそれはそれで気持ち悪いだろ、という心の中の反論は聞かなかったことにする。

 その犬人間はというと、舌打ちをして、懐をまさぐった。

 何をする気だ? まさか、拳銃を――と思考するが、結論は違った。もっとヤバい代物だった。

 ――懐から出てきたのは、絶対懐には入らない大きさのバルカン砲。しかも二門。

 あまりにも巨大な銃火器、否、重火器は、彼のちいさな顔面の横――妙に広く空いていた肩に、ぴったり、がっちりと装着されたのである。

 肩にバルカン。お前は巨大ロボットか。そんなツッコミをしている場合じゃない!

「ぶっ殺す!」

「……鈴はどうするんだ?」

 冷や汗だらだらで聞くと、犬人間はその無駄にキュートな顔面を人間味あふれる笑顔に歪めて答えた。

「残ったものから回収すればいいさ」

 ダダダダダッ! バルカン砲が火を吹く。

 にゃあっ!? と困惑した鳴き声。反射的に自分の喉から出たそれは、この状況があまりにも危機的なことを意味した。

 回転する銃口から無数に発射される大口径の弾丸、その一発一発が僕、というより人間の命を奪うには十分すぎる威力を持つことが、容易に想像できてしまう。

 故に、僕は反射的に願った。

“当たりたくない!”

[了解した]

 鈴は律儀にも聞き入れて。

 瞬間、僕は目を剥いた。

 ――弾が、すべてわずかに弾道を逸らした。まるで、自分から僕を避けたかのように。

 ほどなくして弾を撃ち尽くしたのか、銃声は鳴りやむ。

[運が良かったな。あとコンマ一秒遅かったらかすってたかもしれん]

 鈴がちりんと告げた声に、僕はぜぇはぁと息を荒くしながら胸を撫でおろす。

 ――鈴の能力は「可能な限り」にとどまる。物理的にできることしかできない。

 油断は禁物だ。まだ犬人間は目の前にいる。

 フーっと威嚇するように息を吐いて。

「……あれが鈴の力か。ますます献上したいものだ」

 犬人間はまたも口角をあげる。まずい、第二波が来る。

 今回当たらなかったからって、次も当たらない保証はない。ならば――先手必勝。

 すう、と息を整えて、僕は一気に駆けだした。

 狭い路地。犬人間の後ろに回り込むように走る僕。バルカンは追尾するように弾丸を放つが、追いきれない。重いものをここまで早く旋回できるわけがない。

 そして勢いを殺さないように方向転換して。

 たん、と僕の身体は宙を舞った。

 おおよそ、三メートルまでは上がっただろうか。僕の身長どころか、犬人間すら下に見て、僕は跳ぶ。バルカンも、空中までは追ってこれまい。

 数メートルまで離れた犬人間の身体との距離は、すぐに縮まる。

 体をひねる僕。空中で宙返りしながら、足を出して。

 ふふ、と一瞬笑った。そして叫ぶ。


「キャットサマーソルト!」


 必殺技の名前……なんて子供じみているけど、叫ばずにはいられなかった。男のロマンってやつだ。見た目は女の子だけど。

 黒光りするメリージェーンが街灯に反射して円弧の軌道を描く。

 僕の脛はバルカンを破壊し、犬人間の右の横面を射抜いた。

「ング……グワァァァァァ!!」

 確かな手ごたえ。割れるサングラス。ふっと僕は口端を上げ。

 その足を、振りぬいた。

 物理的に飛ぶ犬人間の首。慣性の赴くまま、僕はすぐそばの民家の側壁に着地し、路上に降り立った。

 そして。

「……犬将軍様に、報告しなくては――できないぞ! 身体はどこ行った! ……この身体はここまでか。チクショウ!」

 これが辞世の句だったようだ。

 犬人間は、爆発した。

 いや、爆発というか、形を保っていられずに身体が一気に光の粒子に変わってしまっただけらしいが、同じことだろう。

 サングラスでチワワの彼は、何の後も残すことなく消え去ったのだった。


 すう、息を吸って、僕は声を震わせた。

「……殺しちゃった」

 震える掌。はじめて人のような意志を持った存在を殺した。そのことが、僕の息を詰まらせ、足を、心を、全身を震わせていた。

 鈴はそれを察したからか、優し気な声音でちりんと告げる。

[大丈夫。精霊はよっぽどのことがなければ死なない。このくらいなら……記憶は失うが、ちゃんと自分の国で蘇る]

「……ほんと?」

[ああ。だから安心して誇るといいさ。……お前は、私を、一人の人を、そしてひいては世界をも守り切ったんだ」

 ぜえ、ぜえ、と息をついた僕。さっき逃げた女性が駆け寄ってきた。

「ありがとうございます!」

 感謝を告げる名も知らぬ――しかしどこかで見たことがある気がする彼女に、僕はなにも返すことはできず、しかしその女性は。

「よろしければ、お名前を聞かせてもらってもいいですか?」

 聞いてきた。名乗ろうとして、僕はわずかに黙り込む。

 ……本名は名乗れないよな。だとしたら偽名を名乗るしかないんだろうけど……全く思いつきやしない。咄嗟のアドリブ力は壊滅的だ。

 少しだけ悩んだ後、僕はかっこつけるように言った。

「……僕に名乗る名前はないよ」

「えっ……」

 困惑する女性。そりゃそうだよな。

 わずかに目を逸らして、すっと息を吸い、一言付け足した。

「強いて言うなら――通りすがりの、魔法少女……ってところかな」

 本当に何を言ってるんだろう僕は。

 照れくさくて恥ずかしくて、目を逸らし。

「じゃあ、夜道には気を付けて」

 と言って、僕は走って逃げたのだった。

 知らないひと相手とはいえ無駄にかっこつけちゃった……。めちゃくちゃ恥ずかしいし、そもそもこんな可愛い姿にあんなきざな台詞は似合わないし。

 というか冷静に考えたらいま僕、女装しながら夜道を全力疾走してるただの不審者じゃないか!

 ――帽子をかぶってて顔が見えなかったけど、そもそもあの人誰だったんだろう。知ってる人だったら嫌だなぁ……。

 走って、たまに民家の屋根を飛び越えて走って、たどり着いたのは人気のない近所の公園。

 周りを見て、誰もいないことを確認して、僕はほっと息を吐いた。

「えっと、この変身的なのって解除できないの?」

[ただ着替えるだけだから家でもできるだろう]

「着替えてるだけだったんだ……じゃなくて、家までこれは流石に恥ずかしいの!」

 鈴は[仕方ないな]と嘆息し。

 一瞬、視界が暗転して。

「これでどうだ?」

 街灯の下、僕は自分のいまの格好も知らずに、首を縦に振った。流石に今日はいろいろありすぎて眠くなってきたのだ。

 ぽてぽてと家に帰って、布団を敷いて、そのままの格好でバタンと横になった。


 翌朝。

「なんだこれは……」

 おはようよりも先、開口一番に鏡――前日に鈴が出したあの全身鏡である――を見て絶句した。

 地毛の、黒に近い焦げ茶色の髪は大きめの星型のついたヘアピンによって止められ、シュシュとヘアゴムでツインテールに括られ。

 セーラー服風のトップスはしかし随所にフリルのついた意匠、しかも肩が露出している。

 そして極めつけは太ももまでしか覆っていないプリーツミニスカート。ついでにルーズソックス。後から確認したが、玄関に置いてあった靴はフリルがたくさんついたローファーみたいなものだった。

 この格好を一言で表すとすれば。

「ギャルじゃん!」

[似合ってるぜ]

「似合ってるにゃ」

 鈴と、いつの間にかそこにいたうるかちゃんが口々に褒める。褒められてるけど不思議なことに全然嬉しくない。

「……これもあなたの趣味ですか、魔法の鈴さん」

[そうだが。かわいい娘にはかわいいおべべを着せたくなるものだろう]

「僕は男ですが!?」

 昨夜はこれで街中を出歩いたんだよね。正直、あのロリータ風の衣装のがましだった気がするのは気のせいだろうか。

 僕は頭を抱えた。これからもこんな受難が続くのかと思うと、少し空しさとかそういったものを覚えてしまう。

 でも、選んだのは僕だからな……。

「改めてよろしくお願いします」

 なんて、聞いてないか。

 不本意ながら始まった騒がしい生活。打ち破られた平穏。

 こんな生活も悪くはないのかもな。僕はそう微かに笑った。

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