誘拐少女と探偵 - 18

 凍えるような寒さの中、俺はすっかり見慣れた探偵事務所のインターホンを押す。


 周辺のビルの電機は消え、月と街灯と避難誘導灯の微かな光だけが頼りだった。


 日中の喧騒が嘘のように静まりかえったこの町で、一人ドアの前で待っているのはひどく心細く、時間が何倍にも感じられた。ここにきて部屋の主が目を覚まさない可能性が脳裏によぎり、不安ばかりが募っていく。


「どちらさまですか?」


 四回目のインターネットでようやく応答があり、安堵のため息が漏れる。マイクの向こうから聞こえる声は、眠たさと面倒臭そうな様子を隠しもせず、しかしどこか警戒の色が滲んでいるようにも感じられた。


 帰ってきたこと伝えると、「あれ?」と不思議そうに呟いた後、すぐにロックが解除される。俺は飛び込むように部屋の中へと入りんだ。外よりはだいぶましだけれど、暖房のついていな室内も十分に寒かった。


 迎え入れてくれた紅坂さんはいつものパーカー付きの寝間着姿だった。


 連絡もなく帰ってきた俺を見て、さすがの紅坂さんも驚いているようだった。しかし俺の思考を読み取ったのだろう、すぐに得心がいった表情に変わると、お馴染みのソファーに座るよう促される。長い年月を過ごしたわけではないはずなのに、久々に座るソファーは俺に安心感を与えてくれた。


 紅坂さんは暖房を付けると、給湯室からコーヒーを二つ持って戻ってきた。冷えた手でカップを掴みゆっくりとコーヒーを流し込むと、冷えた体に染みわたっていくのがわかる。


 紅坂さんは正面に座り、自らもコーヒーを啜りながら、こちらが話始めるのを待っている。俺がこれから彼女に詰問しようとしていることはわかっているはずなのに、ずいぶんと落ち着いた様子だ。


「記憶が戻りました」


 紅坂さん相手に説明は不要だ。俺は端的に言った。


「よかったじゃん」

「いいことなんてありません。取り戻さなければ良かったと心の底から思います」


 だろうね、と彼女は笑った。


「それで? あたしに聞きたいことがあって、わざわざこんな時間に帰ってきたんでしょ?」


 俺はカップを置き、紅坂さんを見る。

 何もかも見通していそうなその瞳に怯みながらも、何とか言葉を振り絞る。


「俺が記憶を失う前にあのマンションで暮らしていたことを、いつから知っていたんですか?」

「あの女の子の記憶を読んだときだよ。彼女がすべてを知っていたわけじゃなかったけれど、断片的な情報や状況から真雪くんや君の父親のこと、そしてあそこで何があったかは大体わかった」


 『真雪』という名前に身体が反応する。奈々瀬さんが付けてくれた仮の名前。記憶を取り戻した今になると、自分の名前なのに自分の名前じゃないという何とも言い表せないもどかしさがある。


 思い返せば『真雪』だったときは楽しかった。紅坂さんの仕事の手伝いも少しずつ慣れてきて、ささやかなやりがいも感じていた。この先も『真雪』として生きていけたなら、それはそれで悪くない人生を送れたのかもしれない。


 しかし俺は記憶の蓋を開けてしまった。他でもない自分自身の手によって。


「もう俺は『真雪』じゃありません。知ってるとは思いますが、本当の名前は『赤峰月乃』と言います。どうして俺の名前を、あの子の名だと嘘をついてんですか?」

「部屋の中から『月乃』って名前が書かれた物が出てきたら、もしかしたら君の記憶が戻るかもしれないと思ったんだ。あの部屋が真雪くんの自宅だと気づかれると、あたしにとって不都合だったからね。彼女を月乃ちゃんだってことにすれば、『月乃』の名前を見ても不思議には思わないでしょ」

「不都合ってなんですか?」

「真雪くんから受けた『幸せになりたい』って依頼、それを完遂するためには君の記憶は邪魔だったんだよ」


 ズキンとこめかみに痛みが走る。その通りだと思った。あんな過去が待っているのなら、記憶など取り戻すべきじゃなかった。だから紅坂さんは隠したのだ。俺の過去は、俺を幸せから遠ざける要因でしかないとわかっていたから。


 紅坂さんに促され、俺はコーヒーを口にする。まだ暖かいコーヒーを飲んでいると、少しずつ落ち着きを取り戻せた。


「俺たちを監視していた、あの男の人は誰ですか?」

「あの子はマンションのカギを偽造してくれた情報屋だよ。近場に適任者がいなかったから、専門外だってごねてるところ無理やり連れてきたの。真雪くんが記憶を取り戻さないように監禁したり、君たちの世話をしてくれる役割がどうしても必要だったからね。今彼はどうしてる?」

「車で俺をここまで送った後、マンションに戻っていきました。道中いろいろと尋ねてみたんですけど、『探偵に聞いてくれ』の一点張りでした」

「無理言って巻き込んだとはいえ、常連客からのお願いなんだから、もう少しサービス精神があってもいいと思うんだけどな」


 それから姉に対する優しさが足りない、と紅坂さんは不満げに言った。


「ところで」俺は幼い少女の顔を思い出して聞いた。「あの子の本当の名前は何て言うんですか?」


「さあ? 本人が知らないことはあたしにも読めないよ。君の父親が生きていたなら、あるいはわかったのかもね」

「どうでしょうね。あの父親のことですから、名前も知らなかったんじゃないですかね」


 少女が連れてこられた日のことを俺は思い返す。

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