この中に魔女がいる - 13

 暗闇の中であっても声の主が夜子だとわかったのは、緊張感のない気の抜けた声と、頭の上でフルフルと震えるちょんまげの影が見えたからだった。


 灰谷の関心が俺から彼女に移る。それに気づくと同時に、俺は駆け出した。このままここにいては勝機はない。逃げるなら今しかない。


 俺の動きに気づいた灰谷は、すぐに反応した。顔面に向かって、握った右手が飛んでくる。拳は俺の頬をかすめたが、俺は構わず彼の脇を通り過ぎった。


「逃げるぞ!」


 夜子に手を取って、は部屋を飛び出し右折した。


「無駄だ」


 背後から灰谷が追いかけてくる。女の子を連れて彼からの追及を逃れることはできない。館の外に出ることもできない状況だ。このままではすぐに追い詰められてしまう。


 そのとき、ある考えが俺の頭をよぎる。他にいい案もない。検討する暇もなく俺はそれに最後の望みを賭ける。


 俺は夜子の手を引いて、すぐ隣の客室へ逃げ込んだ。扉を閉めるとすぐに内側から鍵をかけようとサムターンへ手を伸ばす。しかしそれは失敗に終わる。俺が錠を下ろす前に灰谷が外から渾身の力で扉を押し入ってきたのだ。衝撃で俺たちは床に倒れこんでしまう。


「判断を誤ったな。たとえ施錠が間に合っていたとしても、俺には全客室の合鍵がある。管理人部屋から拝借したからな。逃げることは不可能ということだ」


 灰谷がゆっくりと詰め寄ってくる。一歩一歩進む度、死の恐怖が増していく。


 俺は起き上がると、夜子を引きずりながら部屋の奥へと後ずさる。しかし狭い部屋の中、逃げ場所なんてあるわけがない。すぐに窓際に配置されたベッドに突き当たった。


 天井を見上げる。高さは三メートル弱といったところか。ここからならギリギリ届いているはずだ。俺は大きく息を吸い込むと渾身の力を込めて叫んだ。


「五メートル以内に入ったぞ。助けてくれ!」


 灰谷が訝し気に眉をひそめた。俺の言動の意図を図ろうとしているのだろう。一瞬だけ動きが止まる。


 夜子も突然叫びだした俺を驚いた表情で見つめる。追いつめられて狂ったとでも思っているかもしれないが、説明している余裕はなかった。


 俺は二人を無視して、天を見上げてやつが来るのを待った。柄にもなく神に祈りたい気分だ。命の危機が迫る中での数秒は何倍にも長く感じられた。


 最初に動いたのは灰谷だった。素早い動きでまっすぐに駆け寄ってくる。

 もう間に合わない。俺は夜子に覆いかぶさると、歯を食いしばって灰谷の一撃に備えた。


 次の瞬間、丸めた背中の向こうで何かが弾ける音がした。拳銃でも放たれたような大きな音だった。予期していた灰谷の攻撃がなかなか来ず、俺は警戒しながらゆっくりと顔を上げる。


「本当に忌々しい。兄様の所有物である私の手を煩わせるということは、兄様の手を煩わせるということ。万死に値するわ」


 聞き覚えのある風鈴のように透き通る声。窓のふちに腰を掛け、組まれた細い足は夜の中でも白く目に映った。跪く姿勢となっていた俺を見下す形でそこにいたのはアリスだった。


「助かったよ。アリス」


 身体から力が抜けた。俺は脱力感に身を任せて床に尻もちをついた。


『五メートル以内にいれば命は保証する』鏡音は俺にそう言った。


 この部屋は鏡音たちの部屋の真下に位置する。鏡音が上階のベッドにいるとしたら、俺のいるこの場所は鏡音の五メートルの範囲内になっているはずだ。鏡音の言うことを信頼していいかは賭けだったが、当たりを引いたようだった。


「兄様以外の人間に、私の名を呼ぶことを許した覚えはないわ」


 灰谷以上の殺気を放ちながらアリスは感情の籠らない目で俺を睨みつける。助けに現れた味方とは思えない表情だ。


「依頼人なんだから、それくらい多めに見てくれ」

「人間には二種類しかいないの。兄様かそれ以外よ」


 突然の訪問者を警戒していたのだろう。それまで静観していた灰谷が会話に割り込んできた。


「お前は何者だ?」


 聞こえていないはずはないが、アリスは灰谷の質問を平然と無視をする。鏡音以外と会話する気はないらしい。俺とコミュニケーションが取ってくれているのは、鏡音に言われたからか、あるいは依頼人という立場を彼女なりに考慮してくれた結果なのかもしれない。


「まあいい。いずれにしてもこの東館にいる人間は全員――」


 灰谷は最後まで言い切ることなく、床に仰向けに倒れた。


 その首にはいつの間にか長い針のようなものが深々と刺さっている。目を見開き、口は先ほどの台詞の続きを言おうとして開いたままである。胸がわずかに上下しているのがかろうじて見て取れた。死んではいないみたいだ。今にも起き上がりそうな表情を浮かべたまま、灰谷は気を失っていた。


「早く兄様の元に戻らないと」


 絶句する俺と夜子を尻目に、アリスが頬に手を当てながら嬉しそうにほほ笑んだ。

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