花盗人~廃寺で、僕は桜の花が咲く日をずっと待っていた

 ようやく春の日差しを感じられるようになってきた。「そろそろ春が来るな」と思いながら境内の桜を見上げる。枝を見ては蕾がどのくらい膨らんでいるかを確認するのが、いまの僕にできる唯一のことだ。毎日見て、毎日待って、ようやく今日一輪咲いた。


(ごめんなさい)


 そう思いながら、一輪咲いた桜の枝に右手を掛ける。ゆっくり力を込めていくと、枝がぽきんと音を立てて折れた。

 桜には悪いことをしたけれど、僕は桜を愛でるために咲くのを待っていたんじゃない。一輪目の枝を折るために首を長くしてこの日を待っていたんだ。


 ざわ、ざわざわ、ざぁっ。


 突然の突風に目を瞑った。びゅうっと吹く風に持って行かれないように、枝を持つ右手に力を入れる。


「桜の枝を折ったのはおまえか?」


 花吹雪が舞うなかに人影が現れた。まだ一輪しか咲いていないはずなのに、なぜか桜の木の周りにはこれでもかと花びらが舞っている。僕は少し怯えながらも片目を瞑ったまま何とか口を開いた。


「はい。そうすれば、神様に会えると本に書いてありました」

「ほう。神が宿るくらと知っての行動か。しかし、会えるのが神だと決まっているわけではないぞ?」


 花吹雪が収まった桜の下に立っていたのは、額に二本の角を持つ赤眼の鬼だった。真っ白な着物に真っ赤な帯が目を引く。


「神様でも鬼でもかまいません。僕を攫ってくれるなら、どちらでもいいんです」


 そう口にすると、鬼の唇がニィと三日月型に変わる。


「神でも鬼でもかまわぬと申すか。神なら常世の国に連れて行ってもくれようが、鬼なら行き先は根の国かもしれぬ。おまえは根の国が怖くないのか?」


 根の国というのは黄泉の国のことだ。死者がいる暗い黄泉の国は大勢の人にとって恐ろしい場所に違いない。


(だけど、僕は怖くなんかない)


 だって、いまいるここだって怖いところだ。ここじゃないところなら、常世の国でも根の国でもどちらでもいい。


「ここも僕にとっては根の国みたいなものです。それなら根の国に行ったところで怖くなんかありません」


 僕の答えに、真っ赤な唇がますますニィと笑った。


(だって、本当にそう思っているんだ)


 十五年前、僕が生まれた日に母は死んだ。ちょうど桜が咲き始めた頃で、通夜と葬式が終わったときには満開になっていたと大きくなってから聞かされた。

 十年前、五つ年上の兄が死んだ。満開の桜の下、吐血してそのまま息を引き取った。兄は小さい頃に肺を患ったことがあり、そのせいかもしれないと医者が話していたのを覚えている。


(そして五年前、父さんが死んだ)


 桜が散る頃だった。母が亡くなり跡取りと期待していた兄まで失った父は、ずっと元気がなかった。そこに流行り病を得て呆気なく逝ってしまった。

 桜が咲く頃に生まれた僕は、桜が咲くのを見るたびに自分の誕生と家族の死を感じるようになった。周囲の人たちも桜を見るたびに悲しみ、僕を見ては視線を逸らした。


「あれは忌み子だ」

「桜に祟られた子だ」


 そんなふうに囁かれていることも知っている。気がつくと、僕は桜のことが嫌いになっていた。

 父の死後、親戚の家をたらい回しにされていた僕は半年前、ついに居場所を失った。最後に僕を引き取ってくれた伯父が亡くなったからだ。桜の咲く時期ではなかったけれど、伯父の死も僕を引き取ったからに違いないと噂が立った。


(もしかしたら本当にそうだったのかもしれない)


 僕は伯父の家を出てあちこちを転々とした。同じ村には居場所がなく、隣村からさらに隣の村へと渡り歩いた。そうしてたどり着いたこの村で、民家から少し離れたところに廃寺を見つけた。少し前から、ここで雨風を凌ぐ生活を送るようになった。

 寺の奥には昔話の本がいくつも残されていた。随分古い物のようで、手に取るとボロボロになって読めない物もあった。そんな中、桜の話が書かれた本だけは埃を被っている程度で読むことができた。


 ――桜は神が宿るくらだから、花が咲いた枝を折ってはならない。とくに一輪目が咲いた桜を手折ると天罰が下る。恐ろしい場所に連れて行かれて、この世に戻って来ることは二度と叶わないだろう。


 この文章がなぜかとても気になった。同時に「これだ」と思った。桜の枝を折れば神様が現れる。どんな神様かはわからないけれど、この世じゃないどこかに連れて行ってくれる。


(どうかどうか、僕をそのどこかに連れていてほしい)


 僕は桜が花開くのをひたすら待った。嫌いになってから目に入れることすらなくなった桜の木を、毎日見上げて花が咲くのを待ち続けた。そうして一輪目が咲いた今日、ようやく手折ることができた。


「おもしろい小僧だ。我の姿を見ても怖がらず、根の国と聞いても恐れることがない」

「怖くなんてありません」


 それに、目の前にいる二本角の鬼には恐ろしいところなど一つもなかった。恐ろしいどころか、父が毎日祈っていた仏様のように美しい顔をしている。こんなに美しい鬼に連れて行かれるところなら、ここよりずっといい場所に違いない。

 じっと見ていた鬼の唇がニィと笑い、ゆっくりと口を開いた。


「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」


 鬼の美しい声が静かに響く。低く艶やかな声に、僕はうっとりと聞き惚れた。


(これは左近桜の和歌だ)


 宮中に咲く左近桜を、なぜ皇后に仕える者が手折ったのかと尋ねる後醍醐天皇の歌だとすぐにわかった。死んだ兄が好きだった和歌で、小さい頃に何度も聞かされたから覚えている。


(いつもこの和歌を口にしていた)


 それくらい兄は桜が好きだったのかもしれない。ふと、そんなことを思った。その証拠に、この和歌のほかにも桜に関する和歌ばかり読み聞かせてくれていたような気がする。


(もしかして返事を待っているのだろうか)


 じっと僕を見る鬼の姿にそう思った。ここで鬼が気に入る歌を返せば、きっとどこかに連れて行ってくれるのだ。


「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」


 この和歌も兄が教えてくれたものだった。宮中の春の桜のような愛するあなたに会いたくて手折らせた、というような意味だった気がする。意味はあやふやでもすっかり覚えていたからか、考える前に言葉がすらすらと口から出ていた。


「なるほど、中宮の返歌か」


 鬼の唇がニィと笑った。「我好みではあるな」と言いながらゆっくりと近づいて来る。


「そういえば、おまえによく似た者を知っている。あれも桜の和歌を嗜んでいた」


 鬼の手がぬっと伸びてきた。頬に触れた手が思っていたより温かいことに驚いた。てっきり水のように冷たいのだと思っていたけれど、鬼にも人肌というものがあるのかもしれない。

 その手が頬を撫で、指先で目元を撫で、さらに唇を撫でた。そんなところを他人に触れられたことがない僕は、思わず身震いしてしまった。


「初心な反応だ。それともやはり我が恐ろしくなったか?」

「いいえ、恐ろしくなんてありません」


 これほど近くにいるというのに、やはり恐ろしいとは思わなかった。むしろ、もっと触れてほしいとさえ思っている。

 僕の気持ちがわかるのか、顎を掴んだ鬼の親指が唇の隙間から押し入ってきた。口を少し開くと「愛い反応だ」と笑った鬼が舌を押す。クッと押し、舌の縁を確かめるように撫で、最後に舌の裏を擦るように撫でられた。


「っ」


 思わず震えた僕に鬼が笑った。引っ掻くように上顎を撫でてから、鬼の指が口からゆっくりと出ていく。


「いくつだ?」

「え?」

「年はいくつだと聞いている」

「もうすぐ十六になります」

「なるほど、あれを迎えに行ったときより五つ、いや六つ年上か」


 鬼の口から赤い舌がヌッと出てきた。そうして僕の舌をねぶっていた親指をひと舐めし、赤い眼をほんの少し細める。


「あれは我の気に耐えられなんだ。しかし、おまえは平気な顔をしている。おまえのほうが胆力が強く我とうまく交われるのかも知れぬな。やれ、珍しき人の子だ」


 鬼が桜の木を見上げた。桜の花は咲いていないから、もしかしたら空を見ているのかもしれない。しばらくそうしていた鬼が、再び僕に視線を向けた。


「乞われて攫うというのもよかろう。神の宿りし桜の下で姿を消せば、桜に魅入られて姿を隠したと噂も立つ。また一つ我が桜の話が増えるのも悪くない」


 鬼がニィィと笑うと、真っ赤な帯の辺りから真っ白な着物に赤色がじわりと広がり始めた。少しずつ広がる赤色は、白い着物と混じり合い薄桃色に変わっていく。それが花霞のようになり、まるで満開の桜を着ているように見えた。


「さて、ゆくか」


 鬼が右手を差し出した。僕はこくりと頷き、迷うことなく鬼の手を取った。

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