第16話
九月が終わる頃になって季節がようやく秋らしくなってきた。
外を行き交う人の服装にも季節の移り変わりが感じられる。月鳴館においても、スタッフたちは半袖のポロシャツから長袖へと変わっており、鹿目さんも私を下着姿で出迎えることはなくなった。
最寄り駅から送迎バスへと行く道中で、汗を掻くことがほとんどなくなってありがたい。十月に入ったら上着を持って出かけないといけないだろう。
「そろそろかなって思うんです」
九月最後の日曜日。
野々井さんはスプーン片手に、そう言った。私もまたスプーンを持っていて、それはオムライスの鮮やかな黄色を今まさに突き破ろうとしていたのだけれど、彼女の言葉で動きを止めた。
「なにがでしょうか」
「八尾さん、最初の依頼を覚えていますよね……?」
「それはまぁ。鹿目さんから聞き出すんですよね、私が。野々井さんが知りたい真相について」
このおよそ二カ月間。足繁く月鳴館、というより鹿目さんのもとへと通った私だ。なるほど、野々井さんからしてみると、そろそろ当初の思惑通りに事を済ませてほしくなる気持ちもわからないではない。
「あの、食べ終わってからにしませんか。雰囲気から察するに、二人してオムライスを前にして話す内容ではなさそうですから」
「オムライスに罪はないですもんね」
そう言って、野々井さんは私より先にオムライスへとスプーンを突き立てるのだった。
例の如く野々井さんの勧めでやってきたレストランである。今回は郊外ではなく都市部の、高層ビルが立ち並ぶ区画でとあるビル内にある店。看板メニューというほどではないがオムライスが美味しいのだと口コミをどこかで見聞きしたそうだ。「八尾さんからしたら、子供っぽいかもしれませんが」と心当たりのない思い込みを前置きに誘ってきた野々井さんだったが、断りはしなかった。オムライスが子供っぽいってなんだ。
オムライスは日本生まれなんですよとか、デミグラスソースもいいですがケチャップソースもいいですねなどと当たり障りのない雑談に互いの個人的な話を織り交ぜつつ昼食を済ませた。
デミグラスソースの深い緋色が野々井さんの口許を染める。
この一カ月で私はこの人の唇を染める色を何種類ほど目にしたのかとふと考えて、でも鮮明に記憶してはいないと結論に至った。
それから私たちは同じ階にあるというカフェに移動して、食後のお茶にあずかることした。茶葉ではなくコーヒー豆だけれど。野々井さんは頼んだマキアートが(チェーン店で飲んだものと比べて)思ったより苦味が強かったらしく渋い顔をしていたが、それが話をするにはちょうどいいとでも考えたのか何も加えなかった。そんな彼女とは対照的に私はカフェラテではなくマキアートでもよかったなと、啜りながら思った。甘い。比率からして当然なのに、これではコーヒーを飲んでいる気になれなかった。
「えっと、まずは……認定試験、合格できそうですか」
甘さ控えめな声で野々井さんが訊いてくる。
「はい。そちらは当日の体調に問題でもなければ、合格はほぼ確実です。もとより、合格基準もそう高くないので。苦手だった英語も単語や文法事項をそれなりに覚えてくれて、癖のない長文なら普通に読めていますね」
「八尾さんの指導の賜物ですね」
「いえ。言ってしまえば、もとからできる子です。やらなかっただけで。この前は『暇で暇でしょうがないから、貸してもらった分厚い辞書で刺激的な単語を探すのが日課なの』とも話していました」
「刺激的な単語?」
「なんでもないです。……本題に入りましょう」
私の提案に「は、はい」と野々井さんは肯き、また一口啜った。渋い顔。
「八尾さんは二人の心中未遂事件についてご自分で調べましたか? えっと、ネットや何かで」
「いえ……気にはなりましたが。フェアでないかなと思って、まだ鹿目さんからそのあたり、その日の仔細は聞いていないんです」
「そうでしたか。私が知りたいのはまさにその当日の彼女の動きです」
まるで刑事のような口ぶりの野々井さんに、私もつい肩に力が入る気がした。鹿目さんはおおよそこの一か月間で彼女たち、すなわち鹿目祀梨と遠野笑実理という二人の少女がどんなふうに仲を深めていったのかを私に語り聞かせてくれた。それらを私の頭の中で時系列順に並べてもまだまだ空白は多いが、しかし全体の流れは掴めている。
鹿目さんは遠野さんに中学一年生の時に出会い、そして同じ年に彼女に恋をした。その想いを秘めたまま中学三年生となり、同じ高校を受験して揃って合格。鹿目さんの話しぶりでは、高校一年生の夏には恋人同士となっているが、その関係性を結んだ場面、いわゆる告白シーンは聞かせてもらっていない。
「わ、私は疑っているんです」
野々井さんはそう宣言して、深く息を吸い、そして吐いた。
「鹿目さんが生き残ったのは偶然ではないって」
「つまり――」
偶然でないのなら、必然?
鹿目さんは死に損なったのではなく、もとから生き残るつもりだったとでも言うのだろうか。
「根拠があるんですよね? そう判断する材料、何か事実というのが」
私の予想に反して、野々井さんは頼りなく首を横に振った。しかしすぐに「い、いえ、勘ではないですよ? れっきとした証拠がないってだけで」と早口で弁解した。
「ええと、その、八尾さんはたぶん心中未遂と聞いて……二人が抱き合って身投げしたり、抱き合ったまま密室でガス自殺を図ったりを想像していますよね」
「まぁ、そうですね」
心中の作法なんてわからない。
自殺のバリエーションの知識は、すべて映画やドラマ、本、そういったフィクションの中か、それを除けばテレビのニュースでしか知らない。幸せなことに――そう信じていいはずだ――私は誰かの自殺現場に居合わせたり目撃したりしたことはこれまで一度もない。
ふと、鹿目さんの身体を思い起こす。最初に出会った時の彼女を。ネイビーの下着、それだけを身につけて肌を晒している少女。手首だけではなく全身に傷跡らしい傷跡がなかった。
「手段は薬ですか?」
人を殺めるに至ればそれは薬ではなく毒。しかしその結果を望んでいたのなら、やはり薬か。
そういえば……近頃の十代の間で市販薬の乱用が流行っているとネットニュースで見かけた。オーバードーズと言うのだったか。私自身は無縁で、都会の眠らない街を徘徊している煌びやかで中身は虚ろな少年少女のイメージを勝手にしていた。でも、いつの時代、どこの土地に住んでいようが、悩みを抱える子供も大人も存在する。
「そのとおりです。な、なんという薬を使ったかまでは公表されていませんが。えっと、それぞれで薬を飲んだことで自殺幇助や同意殺人罪には問われなかった……らしいです。お、おそらく。ほ、法的な部分について詳しくないんです、すみません」
「いえ、謝ることでは」
改めて鹿目さんの自主退学について考えてみた。
学校側は、自殺未遂をした生徒を下手に退学処分にできない、したくないはずだ。厄介な生徒だとしても、もし追放するような真似をすれば、自殺未遂の背景に学校側の不適切な対応、たとえばいじめ被害等のスキャンダラスな出来事に結び付けられるだろうから。あれ? そういう捜査はされなかったのかな。事件性の有無はどこがどう決めて、動くのだろう。
そこまで考えて、私は野々井さんに訊く。
「当時、マスコミに騒がれなかったんですか?」
「流れたんです」
「はい? ニュースとしてってことですか」
「あ、えっと、もちろんニュースに取り上げられもしたんです。ただ、ほぼ同時期に全国的ないし世界的な大事件や大事故があって、町の人たちすらもそっちに気をとられたといいますか」
「話題をそっちにもっていかれたんですね」
流されたってことだ。後から来た波に。
たしか去年の冬は……海外で日本人客を乗せた大型の航空旅客機の事故であったり、国内では有名芸能人の不祥事、猟奇的な殺人事件、そうした出来事があったりした覚えがある。
少女二人の心中未遂が報道されても、大々的に取り上げ続けられはしなかったのだろう。当事者の周りからするとそちらのほうが有難かったかもしれない。察するに、二人の少女で完結しているような事件だからだ。
一方で、真相を追い求める人にとってはどうだろう。
学校側が「遺族の意向」とでも説明して外部に情報を漏らさず、特に原因を突き詰めず、生徒たちには緘口令を敷いたのなら。鹿目さんたちの心中未遂はほどなくして遠い過去となり、今ではインクの染みのようにしか残っていないのかもしれない。
「話を戻すと、野々井さんが鹿目さんの生存は必然であると疑っている理由はなんですか。不審な点があったとでも?」
「――――ペアネックレスと遺書」
重要な秘密を明かすような口調だ。そして実際に、野々井さんからすればその二つの名詞は重大な意味を孕んでいるのだろう。
「それって……?」
「司法解剖の結果、笑実理ちゃんの体内から発見されたものがありました。合わせるとハート型になるペアネックレス、その片方です」
「片方?」
「はい、片方だけ」
野々井さんがコーヒーカップの位置をずらす。そして前のめりに、肘をテーブルにつき、話し始める。
「事情聴取によれば、鹿目さんの側のネックレスです。二人で心中を決めた日に、笑実理ちゃんにお願いされて渡したのだと供述したそうです。決行した日の数日前に」
「遠野さんの側のネックレスは鹿目さんが?」
「いいえ。鹿目さんは交換はしなかったと話したらしいです。彼女自身、笑実理ちゃんのネックレスがどこにいったのか知らないのだと」
「それ、嘘なんじゃないですか」
私の主張に野々井さんは体勢を戻した。まっすぐ私を見据えるその顔に、私は続きを促されているのだとわかった。
「鹿目さんもまた、相手のネックレスを飲み込んで死のうとした。でも死ねなかったから、そのネックレスは……消化されずにそのまま排泄される結果となった」
生者の腹を裂いて取り出すわけにもいかない。飲み込んだのなら、でるところからでるのを待つしかあるまい。それは小さければ上ではなく下からのはずだ。
「死ななかったと言っても薬物の使用で自殺を図ったのだから後遺症があったり、少なくとも一日二日は入院したりしたはずですよね? ようするに彼女の意識が朦朧としている間の排便でネックレスは失われた。でもそうだと認めるのは心苦しかったから、そうは話さなかったんじゃないかって」
野々井さんはマキアートを口に含んだときよりもずっと渋い表情となり、私からその目線を逸らした。
「たしかに……筋は通りますね。ええ、通ります。私だって……それを考えなかったと言えば嘘になります。ですが……」
「鹿目さんは飲み込まなかった、そう思っているんですか」
そしてそこに鹿目さんの生存が関係しているのだと。
私の問いかけに野々井さんは肯かない。口をもごもごとするだけだ。
「遺書というのは?」
私はネックレスについては情報は出尽くしたと感じ、野々井さんが提示したもう一つの「証拠」に言及するのだった。
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