【ショートショート】混沌量子生活

GMTM

美味ドッカーン誕生秘話

黒縁のスマートグラスをかけて楽しげに微笑んでいた。

彼が何を楽しんでいたかと言えば、答えは簡単で、世界中から嵐のように称賛され、高級レストランのシェフたちを破産に追い込んだ「美味ドッカーン(Flavor Heaven)」だ。

もちろん、これが開発された理由がイケてるフレンチシェフに彼女を奪われたラーメン好きのエンジニアが怒りに燃えて作ったと言うわけではない。


人類の真剣な問題が背後に潜んでいたのだ。


かつて、地球は深刻な食料危機に見舞われていた。

広大な農地は荒廃し、海は汚染され、数十億人の人々が飢えと向き合っていた。人類は農業ロボットの導入、遺伝子改良食品の開発、など様々な解決作を試したが、その中でも完全食の登場は画期的だった。


簡単に必要な栄養が取れる食事の普及で、一時的には食糧供給が安定し、餓死者は激減したのである。しかし、その味は悲惨なものだった。

「口に入れるだけで鬱になる」などと評される完全食は、食べた瞬間、人々に「今すぐ窓から飛び降りたい」という願望を抱かせるほどだった。高層階や崖の近くでの摂取は危険とされ、一部ではその使用を「極限のスリルスポーツ」として楽しむ変わり者も現れた。

精神疾患患者と高所からの落下事故は増加し、食料危機の解決と引き換えに、人々は新たな問題に直面した。完全食は確かに腹を満たすことができたが、その代わりに心の隙間に深い溝を刻み込んだのだ。


 そんな時、一人の男が立ち上がった。彼の名前は石川。彼は科学者であり、食品技術者であり、そしてなによりも、食べることが大好きな美食家だった。石川は新たなビジョンを描いた。「もし、私たちが食事の体験そのものをデジタル化できるなら、食糧危機は宇宙から消し飛ぶだろう!」 そう思った石川は、そのビジョンを実現すべく、一つのプロジェクトに取り組み始めた。その名もご存知「Flavor Heaven」

(注:日本では「味覚ドッカーン!」として知られる)


 石川は、美味しい食事を提供するだけではなく、あらゆる料理の、あらゆる味、テクスチャ、温度、香りを完全に再現するために、医学、神経科学、そしてAI技術等あらゆる領域の科学を巻き込んでいった。おいしいショコラムースが口の中でとろける感覚、熱々のピザが舌をちょっぴりやけどする感じ、パクチーの爽やかな風味が口いっぱいに広がる瞬間。これら全ての体験を再現するために、彼は無数の実験を行い、無数の失敗を重ね、そして何千時間もの時間を費やした。


 そしてついに、彼の努力は実を結んだ。Flavor Heavenは誕生したのだ。そして、まぁ何と言うか、ご想像の通り何かを生み出せば、新しい問題が生じるものだ。


 問題が起きたのは、仮想ホットチョコレートとソースがたっぷり入ったフレンチトーストのテストが何週間にもわたって続けられた時だった。予算取りの会議へのプレゼンテーションが控えており、彼は完璧な仮想フレンチトーストを作り上げるべく、徹夜を重ねていた。当然、開発リーダーである石川は極度のストレスと睡眠不足に見舞われていた。そんな日々が続いたある夜、助手の山田に緊急通信が入った「石川だ。山田さん、私、見ることができない...フレンチトーストが見えない...」とつぶやき通話がきれました。


 慌てて石川の元へ駆けつけた山田は、意外な光景に遭遇した。石川が食卓に座って目をつぶり、意識を失っていたのですが、その周りには仮想のフレンチトーストが無秩序に浮かんでいる。彼の顔には仮想チョコレートソースがわずかに付着しており、口元からは微かな満足そうな微笑みを漏らしていた。


 石川はすぐに病院に運ばれたが彼は目をさます事はなかった。検査の結果、彼は急激な糖尿病ケトアシドーシスを引き起こしたと診断された。つまり、彼の身体は仮想体験と現実の区別がつかなくなり、大量の仮想糖分を摂取した結果、実際に血糖値が危険なレベルまで上昇したということだ。開発チームはこの出来事に深い衝撃を受け、彼らの開発していた"Flavor Heaven"がもたらす危険性を初めて理解した。


 その後、この症状は仮想現実混同症候群(Virtual-Reality Confusion Syndrome, VRCS)と名付けられた。この発見は、開発者たちにとって新たな課題を突きつけるものとなったが、彼らは恐れることなく、むしろ楽しむかのように、独創的かつユーモラスな解決策を次々と打ち出した。


- 仮想食品に"仮想カロリー"の上限を設け、それを超えるとユーザーのヘッドセットが警報音を鳴らし、視界が真っ赤になりゲンナリさせる。

- "仮想食事"の後に現実を思い出すために"リアルウォーター"を飲むことが強く推奨され、飲料メーカーも協力して無数のマーケティング資料でアピールされた。

- 仮想食事の途中で食べ過ぎると、「もう十分でしょう?野菜を食べなさい!」と注意する母親AIが登場。さらには「ちゃんと噛んで食べなさい!」といったクラシックな一言も準備された。

- 仮想食品を食べると仮想ペットも一緒に食べる。仮想食品を食べすぎるとペットが太りすぎて動けなくなり、「ご主人様、もうおなかいっぱいです…」と悲しげな顔をする。


 ユーザーはこれらを半ば強制的に行うことで、現実と仮想の境界を体に理解するよう促され、食べ過ぎの制限をかけられる事になった。


 このような対策が取られ、ついに「Flavor Heaven」が発売された。結果は期待をはるかに超える大ヒット。味気ない完全食に飽きた人々にとって、これはまさに「味覚の楽園」へのパスポートとなったのである。新しい食生活のスタイルが誕生し、完全食で栄養を摂りながら、「Flavor Heaven」で楽しみを追求する日々が始まった。高所からの落下事故?それなんてもう昔の話。


ビジネスマンたちは新しい「仮想食品」の概念に、美味しい料理に飛びつくように群がり始めた。"FlavorTech 4.2"などの新語が飛び交い、多くの人々がこの新しい業界の仕組みや本質を理解せずに、ただ興奮と期待に駆られ、投資と関与を急いでいた。詐欺や危険なまがい物も流通する事態にまで発展したが、それはまた別の話。


とにかく、これで「仮想食品」の時代が幕を開けとなったのだ。


(注意文言)

「注意!3つの仮想バースデーケーキを平らげてもお腹は一杯になりません。しかし、仮想現実の罠には気を付けて!実際にインスリン注射を打ったり、仮想食材で現実の料理を作ろうとするなど、現実を忘れることは避けてくださいね。」

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