第37話 失楽園


「まったく、とんでもねえ事件だったな」

 ビールジョッキをぐいと傾けてから、落合巡査部長が真っ先に口火を切る。

「ハムを含めて五部署による大がかりな逮捕劇とは……結局、被害者が三人、自殺者が一人、被疑者が五人ほか多数か。尤も、被害者と被疑者は一部被っているが」

 友枝雅樹殺害事件に端を発する連続殺人事件、通称〈ゾディアック事件〉の主犯として大村泰明が逮捕されてから二日後の五月二日、金曜日。落合、田端、内海、そして新宮の四人は西神名河にある〈居酒屋Q兵衛〉に集っていた。

「青龍会と〈株式会社賢者の石〉の面々をしょっ引いて、組対部はホクホクだろうな」

「二課も浮足立っていましたよ。二年越しに念願のホシ逮捕が叶ったんですから。しかも、現職議員秘書という大物でしたし」

 田端警部補の目の前には、モスコミュールをたっぷりと注いだ銅製のビアマグが置かれていた。薄切りしたライムがカップの縁に絶妙な角度で刺さっている。

「けどなあ、渦中の人物だったはずの堂珍仁は今回の件には無関係だった。これがどうにも納得がいかないんだよな。俺としては」

「実は堂珍が裏で糸を引いているのではないか、と考えているんですか」

 時也の問いに、パーマ刑事は「いや」と意外にもきっぱりと否定する。

「友枝、森野、そして葉桐刑事。この三人の殺しについてはおそらく無関係だ。俺が言いたいのはだな、十五年前の闇献金事件のことだよ」

「常磐会の一件ですか……堂珍も末永も、結局今回の捜査で任同はおろか話を聞くことさえできませんでしたね」

 美濃佐吉が残したノートの記述から堂珍仁と末永保彦が共謀した闇献金の一部始終が明らかになったものの、選挙違反は公安課の管轄外であるため捜査にタッチできない。東海林警部の判断により、闇献金事件は捜査二課に預けられることになったのだが。

「二課が捜査に本腰を上げる可能性は限りなく低いでしょうね。現存している物証が美濃佐吉のノートだけでは、二課長を動かすほどの証拠能力はありませんから」

 モスコミュールを一口啜り、眼鏡の警部補が呟く。落合が神妙な顔で頷きながら、

「それだけに、俺としちゃ不完全燃焼なんだよな。もちろん俺らのホンボシはとっ捕まえたが、その先により大きな獲物がいるのかもしれないのに、指をくわえて見ているだけなんて……そういや新宮は、二課の美人警部補と仲良かったよな。何か聞いてねえのかよ」

 捜査二課の市原英理子警部補のことだ。時也は肩を竦めながら、

「別に仲良いわけではありませんが……特に大きな動きがあるとは話していませんでしたね。今は古川夏生のことで二課もてんやわんやのようですし」

「それもそうか。ま、ヤマを地検にさえ渡さなきゃこっちのもんだ。二課の腰が重いなら俺が二課長に直談判してやる」

「そのときは定年直前に首を飛ばされる覚悟で臨むべきでしょうね」

 からかい口調の田端刑事に、落合は「無論だぜ」と笑い返す。その隣でカルーアミルクのグラスを手にしたままぼんやりとする内海巡査長に、時也はゆっくりと視線を移した。

「どうした内海。さっきからぼうっとして」

 はっと顔を上げた女刑事は、グラスをそっとテーブルに置くと初めて口を開いた。

「今回は〈ゾディアック団〉という新たな組織が判明したのみならず、五人のメンバーを逮捕しました。ですが、ボスの反応はいまひとつだったので気になって」

「そりゃそうだろ。ボスとしては、友枝と森野殺しの実行犯である二人がホシの最有力だろうからな」

 焼き鳥セットのぼんじりを手にしたパーマ刑事が、二人の会話に割り込む。

「主犯の大村は、あくまで殺人教唆の罪状に留まる。しかも実行犯である西冨士哉と赤髪の女が逃亡中となりゃ、そもそも教唆を立証すること自体が困難だからな」

「下手をすれば、殺人教唆で起訴できない可能性もありますね。その場合、大村の関与が明確なのは〈MERCURY〉と青龍会の売春斡旋のみです。賢者の石の狭間慎二は余罪が発覚しましたが、金ビルでの麻薬売買はあくまで計画の段階に留まっているから罪状はつかない。一色乙葉と宍戸悠も殺人幇助ですからね……刑事部とハムからすれば、やはり西冨士哉と赤髪の女を確実に仕留めたかったでしょう」

 落合と田端の言葉を受け、内海は難しい表情で頬杖をつく。

「西冨士哉と赤髪の女もですが、私は森野の逃亡を許してしまったことが今でも悔しいです。もっと厳重な監視体制を敷いていれば、彼の事件は阻止できたはずなのに」

 大村泰明の証言によれば、射手座の老人こと矢崎茂夫が香澄橋で自爆する数十分前、森野一裕の業務用携帯に『今すぐ家を出て〈repos〉へ向かえ』とメールを送ったのだという。森野の業務用携帯は、牡羊座の男こと西冨士哉と蟹座の女に回収させた。友枝の携帯電話を持ち去ったのも二人だと証言している。

「森野が〈ゾディアック団〉のメンバーだったことも意外だが、自爆した矢崎茂夫が小林誠和不動産の元社員ってのにも驚いたな。大村は、自分が勤める会社の奴らを次々と手にかけていたわけだろ。神経がどうかしてるぜ」

 大仰なため息を吐く落合に、時也は「ですが」と言葉を返す。

「彼にとって、組織のメンバーは駒にすぎなかったんですよ。理想郷をつくり上げるために動き回る駒たち。誰かがいなくなっても替えの効く存在だった」

「はっ、まるで働きアリだな。それじゃ、大村が女王アリってことか」

「大村はサブリーダーですから、正確にはリーダー――大村によれば〈スコーピオ〉が女王アリです」

 警察手帳に挟んだメモを、机上に置く。大村が供述した組織のメンバーをリスト化したものだ。三人がそろって頭を突き合わせ、メモを覗き込む。



牡羊座 «ハマル»   → 西冨士哉

牡牛座 « ? »   → ?

双子座 «カストル»  → 古川夏生

蟹座 « ? »    → 赤髪の女

獅子座 «レオ»    → 宍戸悠

乙女座 «スピカ»   → 一色乙葉

天秤座 «リブラ»   → 大村泰明

蠍座 «スコーピオ»  → ?(団長) 

射手座 «キロン»   → 矢崎茂夫

山羊座 «ゴート»   → 桜井芳郎

水瓶座 «アルタイル» → 森野一裕

魚座 « ? »    → ?



「この括弧の中がコードネームってわけか……大村は、赤髪のねえちゃんのコードネームを知らないのか」

 顎を撫でる落合に、時也は「そのようです」と返す。

「大村によれば、彼女のコードネームを把握しているのはスコーピオだけのようです。行動を共にしている西冨士哉さえも、彼女の名前は偽名である〈カレン〉しか知らされていないと」

「そのカレンがコードネームじゃねえのか。となると、この女がリーダーのお気に入りという可能性もあるな」

「あ、ちなみにスコーピオは組織内で〈団長〉と呼ばれているみたいです」

「団長か……んで、この中で面が割れていないのは〈団長〉のほかに牡牛座と魚座だけ……ちょっと待てよ」

 牡牛座と魚座の間を指で行き来しながら、落合は眉根を寄せる。

「となると、三好友希がこのどちらかってことになるんじゃねえのか。あいつも〈ゾディアック団〉の一員なんだろ」

「三好はつい最近入団したばかりの新参者で、彼がどの星座を宛がわれているのか大村も知らないようです。ただ」

 メモを睨む時也に、パーマ刑事が「ただ?」と聞き返す。

「もしかすると、三好は矢崎か森野と入れ替わった可能性もあります」

「二人が死亡したから、空いた枠に入ったってことか」

「ええ。そうなると、顔とコードネームがまだ一致していないのは四人。牡牛座、蠍座、水瓶座、魚座。三好は蠍座以外のどこかに入るということです」

「コードネームといえば、ひとつ腑に落ちない点があるのですが」

 リストを指で示したのは眼鏡の警部補だ。

「森野一裕のコードネームである〈アルタイル〉ですが、これはわし座の一等星ですよね。水瓶座を構成する星には入っていないのに、彼はなぜこれをコードネームにしたのでしょう」

「それは、弟のためです」

 答えたのは女刑事だった。時也以外の先輩二人が「弟?」と同時に首を傾げる。

「水瓶座は、森野一裕の弟である森野浩二の誕生星座だったそうです。水瓶座には、ガニメデという青年がゼウスによって誘拐された神話が伝えられていて、ガニメデが水瓶座、ゼウスが誘拐のために遣わした鳥がアルタイル――わし座なんです」

「なるほど。だから星座図を見たときにわし座と水瓶座が隣り合っているわけですね」

 納得したように頷く田端に対して、落合はいまひとつ納得がいかない風に首を捻ったままだ。

「けどよ、結局わし座は水瓶座じゃないわけだろ。それなら森野一裕は水瓶座じゃなくわし座を宛がわれるべきじゃないのか」

「森野一裕は、弟である浩二の死にずっと責任を感じていたんです。母親の話によれば、弟にパチンコ店のバイト先を斡旋したのが兄の一裕だったそうです。浩二は大学卒業後に努めた会社が倒産して以来、単発のバイトや派遣の仕事で食いつないで生活していたらしく、それを見かねた一裕が大学時代の同級生に相談したところ、その同級生が例のパチンコ店で働いていて仕事を紹介してくれたのだそうです」

「じゃあ、森野一裕が弟にそのパチンコ店を紹介していなけりゃ、弟は死ななかったかもしれないと。それで自責の念に駆られているわけだな」

 リストをぼんやりと眺めながら、内海は「おそらく」と返す。

「彼にとって、弟はガニメデだったんじゃないでしょうか。兄弟で写っている写真を母親に見せてもらいましたが、二人はとても仲が良かったそうです。弟の誕生日に一裕が星の図鑑を買ってあげたなんてエピソードもあるくらいで。森野一裕にとって、弟の存在は特に大きかったのだと思います。左翼組織に加わり、復讐に身をやつしてしまうほどに」

「森野兄弟のこと、よく調べていたんだな」

 時也の言葉に、内海はぱっと顔を上げる。真向かいで微笑む先輩刑事と視線が交錯すると、

「仕事ですから、当然です」

 ぷいとそっぽを向いてしまった。何となく気まずくなった空気を変えるため、女刑事の隣でにやにや笑いを浮かべる落合に話の矛先を向ける。

「そういえば、古川夏生のコードネームである〈カストル〉は、双子座を構成する星で二番目に明るい恒星ですよね。古川は、なぜ一番明るい恒星である〈ポルックス〉をコードネームに選ばなかったのでしょう」

「それはまあ、森野一裕と似たような理由だよ。一等星であるポルックスは、古川にとっては三輪佑美子だったのさ。自分はあくまでも、彼女の隣で彼女の光を受けて輝く星だった……ってな」

「そういえば、二人は片割れ同士だったと話していたそうですね」

「古川も三輪佑美子も、幼い頃に家族を亡くしてお互い施設の出だったそうだ。境遇が似ていることもあって二人は意気投合したわけだが、深い仲になって互いの身の上話をするうちに、誕生日が同じ六月だとか出身が同じ東北だったとか、色々と共通項が出てきたんだと」

「それで、互いを片割れ同士と表現したわけですね」

「ああ。聞いてるこっちはケツがむず痒いぜ」

 わざとらしく坐りなおす落合に、今度は田端警部補がにやりと笑う番だ。

「ですが、そんなことまで話すくらいに古川は完落ちしたわけですね」

「まあ、桜井芳郎の自白あっての結果だけどな。あれがなけりゃどこまで攻め入ることができたか」

 二本目のねぎま串に手を伸ばしかけていた内海が、「そういえば」とその手を宙で止める。

「桜井芳郎の聴取で使った例の音声……あれ、で作ったものだと聞き及びましたが」

 つくね串を味わってた田端が「そうですよ」と女刑事に頷き返す。

「ボスは最後まで了承を渋っていましたが、結果として上手く事が運んで心底ほっとしているでしょうね。あれで古川夏生が自供しなければ、証拠捏造でこちらが糾弾されるところでしたから」

「けどよ、証拠も何も。お前はただ、俺が音声合成アプリで作ったを流しただけだ。それが古川の自供だとは一言も告げていない」

「かなりグレーゾーンですね。非常に危険な作戦でした。私も内心冷や冷やしながら桜井の自供を引き出しましたから」

 半ば呆れ顔の田端に、内海が「でも」と控えめに発言する。

「それって、落合部長が田端係長を信じていたからこそ決行できた作戦ですよね――あ、というよりはお互いに信頼があったからこそ、ですね。落合部長は、田端係長が上手くやってくれるだろうと信じて音声データを係長に託した。係長は、落合部長の作戦で桜井芳郎を落とせるかもしれないと思ったからこそ、音声データを受け取った」

 眼鏡の警部補は肯定も否定もせず、無言でモスコミュールのグラスを傾ける。パーマ刑事は串の持ち手でこめかみを掻きながら、

「そりゃあ、まあ、そんなところかな……んなことより、お前は今回ハムに異動して初の手柄だろ。もっと喜べよ、今日は後輩二人の功績を称える会でもあるんだからな」

 空になったグラスを高々と持ち上げる落合。それを二杯目の要望と勘違いした店主が、すかさず並々に注がれた新しいビールジョッキを運んできた。

「ああ、こりゃどうも……森野殺しでほぼ唯一の物証を見つけたのは内海だろう。しかもそれが、紙ナプキンでの暗号のやり取りときたもんだ。お前もよく気付いたよな」

「一色乙葉と森野一裕の繋がりが見つかったことも大きいですね。まさか、二人の密会場所が〈repos〉だったとは思いもしませんでした」

 落合と田端の称賛も、東海林班の紅一点はクールにあしらう。

「あれは、新宮部長が一色乙葉をしっかりとマークしていたお陰です。森野一裕が殺される前日に彼女が〈repos〉を訪れていたのも、新宮部長の録画記録を見て判ったことですから」

 謙遜する女刑事に、時也はすかさず援護に回った。

「けど、そこから二人の繋がりを見つけ出したのは間違いなく内海の手柄だ。ボスから聞いたが、〈repos〉の録画記録を何度も見返していたんだろ? 紙ナプキンの受け渡しに気付いたのも内海だけだったと、ボスも賞賛していたよ。それに、あの不可解な暗号をあっさり解読したことにも驚いていた」

「それは……似たような暗号が使われていた小説を、偶然読んだことがあっただけです。その小説で使われていたのはいろは歌ではありませんでしたが。おそらく、彼らも同じものを読んだことがあったのでしょうね」

「推理小説も捨てたもんじゃないな。俺も後学のために何か読んでみようかな」

 ぽつりと呟く落合に、「ページを開いて集中力が五分も持たないと豪語していたのはどこのどなたでしたっけ」と田端が突っ込む。ファイル十冊分の膨大な捜査資料は無我夢中で読み漁るわりに、小説の類になると途端に飽きっぽくなるらしい。

「手柄といえば、私よりも新宮部長ですよ。なんといっても、主犯格の大村を落としたんですから」

 あくまでも先輩刑事を立てようとする内海に、時也はつい失笑する。

「けど、もう一人を取り逃がしたからな……不意の爆発に気を取られたとはいえ、不覚だった。速水警視からも『ワッパを掛けたところまでは良かったんだがな』と小言を食らったよ」

「無理もないだろ。それを見越して大村が爆破物を仕掛けていたのだとすれば、大したものだが」

 二杯目のビールに口をつける落合。田端警部補はつまみの枝豆を几帳面な手つきで剥きながら、

「新宮部長を襲った凶器のナイフですが、鑑定は終わっているのですか」

「ええ。ですが犯人に繋がる手がかりは残っていませんでした。指紋や皮膚片などは一切検出されず、ナイフ自体も刃渡り十センチのホールディングナイフで量販されているもの。購入ルートから割り出すのも困難……ですが、犯人の見当はついています」

「誰だよ」「誰ですか」

 落合、内海、田端が異口同音に訊ねる。時也はジョッキに半分ほど残ったビールを一気に飲み干すと、

「三好友希」

 真っ先に反応を示したのはパーマ刑事だった。眉を八の字に寄せ、テーブル越しにぐいと身を乗り出す。

「そういや、探偵事務所荒らしも三好の仕業らしいな。所轄の捜査はどうなってんだよ。たしか矢崎茂夫の自爆事件と同じ香賀町署だろ」

「進捗は芳しくないようですね。三好が住んでいたアパートからも、ノート以外に目ぼしいものは見つかっていませんし」

「三好が図書館に通っていたという話もありましたよね」

 内海の問いにも、小さなため息とともに首を横に振る。

「貸出カードに記載された図書館で確認を取ったが、利用者の貸出記録は該当図書を返却処理した時点でデータベースから自動削除されるらしい。三好が通っていた図書館だけじゃなく、全国でそのシステムが導入されているんだと。東海林警部が館長を説得して館内の防犯カメラ映像だけ提供してもらったが、予想通り三好友希が図書館利用者であることが判っただけで目新しい収穫は得られなかった」

「図書館ってそんなシステムになっているんですね。知りませんでした」

 意外そうに目を丸くする内海の隣から、パーマ刑事がぼんじりに手を伸ばす。

「三好を廃病院に呼び出したのは、やはり大村なのか」

「本人がそのように供述しているらしいです」

「大村といえば、お前はどうしてあの廃病院に大村を呼び出したんだよ。結果としてはワッパを掛けられたものの、確実に捕まえるならあいつの自宅や会社で話を聞くほうがよかったんじゃ」

「あれは、ある種の心理的な揺さぶりですよ。大村は、自分が美濃佐吉の息子であることに内心誇りを持っていた。彼は自分を捨てたはずの父親を、心の底では尊敬していたんです。だからこそ、美濃病院で四年もの間、薬剤師として勤務を続けた。大村と同時期に美濃病院で働いていた看護師の女性を訊ねたのですが、大村は四年間一日たりとも休まず勤め上げたようです。彼にとって、あの廃病院は父親との思い出の場所だった」

「なるほどな。だからあの廃墟を聴取の場に選ぶことで、心理的に追い詰めてボロを出させるって寸法か」

「追い詰めるは人聞きが悪いですよ。あくまでホシ確保のための作戦です」

「そういえば新宮部長。大村との待ち合わせに指定した、一階北棟の循環器科室。どうしてあそこに大村がノートを隠していたと判ったのですか」

 五日前に内海班の捜査員が美濃病院を捜索していた際、時也は「一階北棟の循環器科室に、大村が事件に関する物証を隠しているはずだ」と指示を出した。その言葉通り、循環器科室の診察用ベッドの下から、美濃佐吉が所有していたと思われる〈S.Mino〉の名前入りノートが発見されたのだ。

「美濃佐吉は心臓外科の名医だった。心臓に関わる病気を扱うのは、心臓外科のほかに循環器科もある。大村が美濃佐吉に並々ならぬ尊敬の念を抱いていたのなら、父親所縁の場所に隠すだろうと考えただけだ。

 俺が最初に美濃病院を訪れた日、大村はノートを回収する機会を失ったんだ。あのとき、俺は一階フロアを巡回していて大村は二階にいた。おそらく大村は、階下にいた俺の存在に気付いていただろう。あのとき俺は、まさか自分以外の人間が病院に潜んでいるとは思わなかったし、足音にも警戒していなかった。大村は侵入者を、肝試しに来たもの好きと考えたのかもしれないな。一刻も早く病院を立ち去らせるため、わざと空き缶を蹴って音を立てた。彼の予想通りに俺は病院を抜け出したわけだが、大村は大村で焦っていたのさ」

「何故ですか」

「侵入者が警察の人間かもしれないと、考え直したからだ。もし病院を抜け出して、外で警察が待ち構えていたら。そこで身体検査をされ、ノートの存在が露見することは大村にとって不都合だった。だから安易にノートを持ち出せなかったんだ。彼をあの場所に呼び出したのは、そうした焦りの気持ちを利用したというのもある」

「大村に関して、まだ残っている疑問があります」

 田端警部補はモスコミュールの残りを飲み干すと、

「二人が最初に小林誠和不動産を訪ねたとき、大村は西冨士哉の存在を匂わせていました。仲間の存在をわざわざ仄めかすとは、随分大胆といいますか、作戦にしては危ない綱渡りですよね」

 二人、とは時也と内海巡査のことだ。内海が「小林誠和を出入りする怪しい人物はいないか」と質したとき、大村は刺青〈Y〉の男について証言していた。刺青〈Y〉の男とは、言うまでもなく西冨士哉のことだ。

「あれは、西冨士哉が小林誠和を実際に出入りしていた事実があったからです。たとえ大村が西の存在を否定しても、ほかの社員が目撃している可能性がある。そうなれば、警察は自分に疑いの目を向けるかもしれないと危惧したようです」

「西冨士哉が小林誠和を訪ねていたとなると、蟹座の女も同行していたのでは?」

「それは大村が否定しています。小林誠和の玄関口に設置された防犯カメラにも、西らしき男は映っていましたが蟹座の女の姿はどこにもありませんでした」

 友枝の遺体遺棄現場と森野の殺害現場に残っていたブーツのゲソ痕も、西冨士哉のものである可能性が高いと捜査一課は結論付けている。また、森野の遺体を縛っていたコンストリクターノットの結び目について大村に問い詰めると、西が以前に道路工事現場で働いていたことが明らかになった。さらに「友枝と森野殺しを西に指示した」という大村の供述が決定打となり、一課は西冨士哉を殺人の被疑者として全国に指名手配した。

「しっかしまあ、左翼団体の数は減少傾向にあるとはいえ〈ゾディアック団〉のように俺らが把握できていない弱小団体は案外多いのかもしれないな。全部を虱潰しに調べるとなると、骨が折れるどころの労力じゃねえぜ」

 首を回しながら、気怠そうに肩を揉む落合。その向かいで、空になったグラスを黙って見つめていた田端警部補が不意に呟く。

「これから、〈ゾディアック団〉はどうなるのでしょうね」

「どうなるってお前……組織の過半数がパクられたんだ、壊滅も時間の問題じゃねえのか」

「そうとも限らないのではないですか」

「どういう意味だよ」

 空になったビールジョッキを脇によけ、落合はテーブルに肘をつく。

「先ほどの新宮部長の話を思い出してください。三好友希は、死亡して団員ではなくなった矢崎か森野の枠に入った可能性があると。つまり、団長以外の星座で空きが出たところには次の新参者が入る可能性がある、ということです」

「それはつまり……頭を潰さない限り、組織は動き続けるということか」

 二人の会話を耳に入れながら、時也は大村の供述調書を思い返す。

『俺たちは蜘蛛みたいなものだ。あいつらは足を切られても再生する。俺たち〈ゾディアック団〉も同じだ。言っただろ? 俺らは所詮組織の駒のひとつにすぎない。俺らの代わりはいくらでもいるのさ――〈スコーピオ〉を除いてな』

「奴らはまだ探し求めているはずです、新たな楽園を」

 口を開いた時也に、三人の視線が集まる。

「今回の事件で、奴らは組織の仲間であったはずの矢崎と森野をいとも簡単に切り捨てた。楽園を目指すためなら、例え仲間でさえ踏み台にすることを躊躇わない。けれど、彼らが理想とする楽園は、俺たちが思い描く場所とは違う。俺たちで奴らを追放しなくちゃならないんです――平和という名の楽園から」

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