第30話 乙女の陥落


 県警公安部が友枝雅樹殺害事件の捜査に着手してから、十五日が経過した四月二十八日の月曜日。公安捜査員たちにとって忘れえ得ぬこの日、内海明日夏公安一課巡査長は立浜女子短期大学を訪れた。午前十時のことである。

 事務室で所定の手続きを済ませ、来客用のネックストラップを首から下げて一階の大講義室前へ向かう。一色乙葉のスケジュールは把握済みだ。午前の一コマだけ講義を受けた後は、午後の講義まで二時間と少しの空き時間がある。

 大講義室前の柱に寄りかかって待つこと、約ニ十分。チャイムと同時に、朝一の講義を受け終えた学生が講義室の扉から一斉に吐き出された。その最後尾に、ターゲットの姿を捉える。

「マル対発見、接触します」

 イヤホンに囁いてから、耳元を髪でさりげなく隠して足を踏み出す。

「すみません、ちょっといいですか。一色乙葉さんですね」

 見知らぬスーツ姿の女性に声をかけられ、刺青の乙女は警戒混じりの声で「そうですけど」と返す。

「お忙しいところ申し訳ありません。少しお訊きしたいことがありまして」

 ジャケットの内ポケットから警察手帳をのぞかせた瞬間、マル対は素早く身を引こうとした。だが、講義室から出る学生の群れがバリケードのように逃げ道を阻んでいる。そうなることを見越して、出席人数が多い講義の時間帯を狙ったのだ。

 マル対は観念したように「わかりました」と呟くと、内海とともに人の群れからやっとのことで抜け出す。二人の周囲には気配を完全に断った数名の公安捜査官が潜んでいて、一色乙葉が少しでも抵抗するようならいつでも助太刀できる態勢が整っていた。

「本棟の最上階に休憩スペースがあります。ドリンクサーバーもあるし、今なら人も少ないと思うので」

 そっけない口調での提案に、「ではぜひ案内してください」とにこやかな笑みで応じる。教授室や自習室が併設されている本棟のエレベーターで十階まで上がると、半月の形をした解放感溢れる空間が現れた。曲線を描いた部分は全面ガラス張りの窓になっていて、春の柔らかな陽光がラウンジ全体を明るく照らしている。窓に沿う形で二人掛けのテーブルセットやソファなどが並んでいるが、先客はいない。他聞をはばかる話には好都合だ。

 一色乙葉は勝手知ったると言わんばかりにつかつかとドリンクサーバーへ歩み寄り、紙コップにミルクティーを注ぐ。内海も習ってコーヒーを用意し、左端から三番目の席を二人で陣取った。窓外には雲一つない快晴の空、眼下には立浜市内のパノラマが広がっている。大学の真向かいにある小学校からは子どもたちの快活な叫び声が聞こえ、「これが対容疑者の事情聴取でなかったら」とつい想像してしまうほど穏やかな時間が流れていた。

「私、午後の講義で提出するレポートを仕上げないといけないんです。話は手短にお願いします」

 見た目とは裏腹なふてぶてしい態度で、女子大生は口火を切った。陶器のようにつるりとした顔と緩くウェーブした茶髪は舶来の人形を彷彿とさせ、その体に刺青を刻んでいるとはにわかに想像し難い。普段は何事にも動じない冷静沈着な新宮巡査部長が「意外だ」と口にしたのも頷けた。

 教会の鐘の音を模したチャイムが、午前最後の講義開始を知らせる。内海にとっては、容疑者との一騎打ちを告げるゴングだ。

「もちろんお手間は取らせませんよ。まず、これを見ていただきたいのですが」

 警察手帳の中から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置く。友枝殺しに始まる連続殺人事件、その第三の被害者である森野一裕の顔写真だ。

「こちらの男性に見覚えは?」

「さあ、残念ながら存じ上げません」

 ちらと一瞥しただけで即答する女子大生に、内海は「よく見てください」と写真を近づける。

「あなたはこの男性を知っています。少なくとも数回の接触があったはずですよ」

「私が知らないと言っているのに、どうしてあなたが知っているなんて断言できるんですか」

 嚙みつかんばかりの調子で言い返されるが、女刑事は動じることもなく相手の目をひたと見据える。

「あなたとこの男性が知り合いであると、複数の関係者から証言を得ているからです。あなたはこの写真の男性と、ある組織が主催する会合に参加していましたね。それも一度だけでない、数回は彼と顔を合わせているはずです」

 森野の顔写真を指で示しながら、

「この男性は森野一裕さんといって、先日とある廃病院で遺体となって発見されました。あなたにとっては、森野一裕よりものほうが馴染みのある名前でしょうか」

 華奢な肩が、一瞬だけぴくりと動く。その僅かな動きを、内海は見逃さなかった。

「アルタイルと参加した会合の中で、あなたは一色乙葉ではなくと呼ばれていたのではないですか? スピカは乙女座を構成する代表的な星。あなたの本名にもよく似合います」

「一体何を言い出すかと思えば……アルタイル? スピカ? 何それ笑えるんだけど」

 お嬢様然とした雰囲気と愛くるしい顔に似合わない、吐き捨てるような口調。透き通った茶色の瞳は、女刑事への敵意に満ちている。

「申し訳ないですけど、刑事さんのお話は何一つ身に覚えのないことです。もしかして、相手を勘違いなさっているのでは?」

「残念ですが、勘違いでも人違いでもありません。私たちはたしかに、捕まえに来たのですから」

 きっぱりと言い放ち、内海は次なる証拠品を机上に出した。

「一色さん。あなたは新立浜駅西口のプロムナード通りにある〈repos〉というカフェの常連ですね」

 二枚目の写真に対する女子大生の反応は、実にわかりやすかった。写真を一目見るなり顔をこわばらせ、それから内海をきっと睨みつける。

「これって……これは立派な盗撮よ。警察ってこんな犯罪まがいの捜査をするの?」

 椅子をガタンと鳴らし立ち上がる。明らかに動揺を浮かべた顔が女刑事を見下ろしていた。

「信じられない……これ以上、あなたにお話しすることはありません。忙しいので失礼します」

「お言葉を返すようですが、何の嫌疑もない一般人をこのように捜査することはありません。私が今日あなたを訪ねたのは、森野一裕殺人事件に関与した疑いのためです」

「馬鹿を言わないで。どうして私に人殺しの疑いがかけられるのよ」

 声を荒げるマル対に、内海は椅子を示しながら「どうぞお坐りください」と静かに告げる。丁寧ながらも有無を言わさぬ声音に、女子大生はしぶしぶといった様子でミルクティー入り紙コップの前に再度腰かけた。

「この写真に写っている男性スタッフ、見覚えありませんか。私たちはこの十日ほどあなたを常時監視していましたが、その間だけでも五回はあの店を訪れていますね――いえ、それを悪いとか言うのではありません。あなたが〈repos〉に来店したとき、この写真の男性スタッフがあなたに注文を取りに来て料理やドリンクをサーブしている。五回すべてです。果たして偶然でしょうか」

「そんなこと、私に訊かれても知るわけないじゃない。あの店はもともとスタッフの数がそんなに多くないみたいだし、その人がホール専任だったら毎回その人に当たったとしても不思議じゃないでしょ。そもそも、毎回同じスタッフに給仕されたからって、それが何だっていうの? 私のことが気になってお近づきになろうと、偶然を装っているかもしれないわよ」

 発言した直後に鼻で笑う。内海は「だったら良いのですが」と軽くあしらって、新たな証拠写真を机上に出す。

「多くの飲食店では、紙ナプキンがサービスとして客に配られたり予めテーブルに用意されたりしています。〈repos〉ではスタッフが料理やドリンクと一緒に持ってくる形式のようですね。この紙ナプキンが、あなたと男性スタッフとの唯一の連絡手段だったのではないですか」

 白エプロンを着けた男性が無人の席で下膳作業をする瞬間を撮ったものである。一色乙葉が利用したテーブルだ。右手にはティーカップを掴み、カップと一緒に紙ナプキンも回収している。

「この男性スタッフは実に優秀でした。捜査員が初めてあなたに注目し監視を行ったその日、彼は捜査員の存在に気付いていました。迂闊に話しかけたり接触したりすれば、あなたが確実にマークされてしまう。そう恐れた彼は紙ナプキンでの伝達方法を思いついたわけです。紙ナプキンの裏にでもメッセージを書き、給仕のときにあなたがさりげなくそれを受け取る。メッセージを確認したら、テーブルに置きそのまま退店する。紙ナプキンを持って帰ってしまうとどこかで身体検査をされるかもしれないから、証拠品ブツは男性スタッフが回収し処分していた。この段階ではあなたをマークこそすれ、スタッフまで注意を向けていませんでしたからね」

 一息に言い切った内海刑事は、ぬるくなったコーヒーで喉を潤す。一色乙葉は机上の写真に忌々しそうな視線を投げ、

「それは、あなたたち警察の想像でしょう。実際に店の中から証拠の紙ナプキンが出てきたの? 証拠もないのに仮説だけ立てて『あなたを逮捕します』なんて杜撰な捜査が許されるわけ――」

「ですから、昨日その証拠を入手してきました」

 可憐な女子大生は、反論するための言葉を飲み込むように口をきつく閉じる。内海は鞄から証拠品入りの袋を取り出すと、

「あなたは〈repos〉へ来店するとき、決まって天気が良い日を選んでいる。あなたがいつも座るテラスの席は監視カメラがありません。カメラが回っている店内でメッセージの受け渡しをする行為はリスクがあるから、伝達はテラス席でと最初に決められたのでしょう。あなたが最後に店を訪れたのは昨日、四限目の講義が終わった直後ですね。昨日の午後は例の男性スタッフが勤務していたので、うちの捜査員がこっそり紛れ込んで監視していたんです。そして、この紙ナプキンを所持した男性スタッフが店内のトイレから出てきたところを捜査員が確保しました」

 内海刑事が手にしている袋には、二つ折りにされた紙ナプキンが入っている。表の右端部分が不自然に三角折にされていて、誰かが意図的に折ったものと推察された。

「メッセージを受け取り〈了解〉の意味を残すときは、このように紙ナプキンの端を折る。非常に判りやすいサインですね。ちなみに、紙ナプキンの中にはこのメッセージがボールペンで書き残されていました」

 警察手帳のあるページを開き、アルファベットが羅列している箇所を指さす。



 COBICLCHGNGLAKGNDJLEO



「――これが何よ」

 手帳から内海刑事に視線を移し、一色乙葉は突き放すように言う。

「何のことか全く判らないわ。ただの無意味なアルファベットの並びじゃないの。それとも何? その紙ナプキンに私の指紋でも付いていたのかしら」

「指紋は微かに付着していましたが、付着面積が少なすぎて正確な鑑定ができませんでした。〈repos〉のスタッフは全員が白手袋を付けているため、もちろんスタッフの指紋も採取できていません……ですが、ボールペンの筆跡鑑定をしたところ、男性スタッフの筆跡だということは判明しています」

「じゃあ私は無関係よ。証拠品といっても、私に関するものは何も出てきていないのでしょ」

「このメッセージは間違いなくあなたに宛てたものです。男性スタッフもそれを認めています」

「それじゃ、あなたはその訳のわからない文字列を解読したとでもいうの?」

 華奢な顎を持ち上げて挑戦的に言い放つ。宣戦布告と受け取った内海は、唇の端を軽く持ち上げ手帳からペンを抜いた。

「もちろんです……これは、をベースに作られた暗号ですよ。規則さえ見つければ難しくありません」

 手帳を一ページめくり、空白に〈いろはにほへと〉と書き連ねる。

「いろは歌は、四十六文字のかなを使った和歌です。正確には〈色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず〉という七五調の歌をひらがなにしたもので、まずこれを縦書きで書きます。意味が通る最短のフレーズごとに列をわけると〈いろはにほへと〉〈ちりぬるを〉〈わかよたれそ〉〈つねならむ〉〈うゐのおくやま〉〈けふこえて〉〈あさきゆめみし〉〈ゑひもせす〉の八列になる。一列あたりの最多文字数は七文字です」

 教科書の見本のようなひらがなを手帳に記した内海は、

「そして、行と列にそれぞれアルファベットを当てはめるんです。縦の一行目から七行目まではA以降Gまで、横の列は一列目から八列目までH以降Oまでをそれぞれ当てはめる……これで暗号表の完成です」

 一色乙葉は手帳に視線を固定させたまま、静止画のごとく微動だにしない。

「行と列のアルファベットそれぞれ二つの組み合わせで、一つの平仮名を表します。たとえば最初の〈CO〉は、Cが三行目でOが八列目を示すのでいろは歌の表では〈も〉になる。同じように〈BI〉は〈り〉、〈CL〉が〈の〉と続けて解読すると」

 一呼吸置いて、内海はゆっくりと答えた。

「〈もりのはしまつした〉――あなたが事件に無関係なら、男性はどうしてこんなメッセージをあなたに伝える必要があったのでしょうね」

「知らない……知らないわよそんなの! 第一、あなた見落としていることがあるわよ。あなたさっき、この暗号は二つのアルファベットで一つの平仮名になるって言ったわよね。でもあなたの解読したメッセージなら、最後に〈LEO〉の三文字が余ってしまうじゃないの。それに〈LEO〉を平仮名にしようとしても、あなたが言ったルールじゃ平仮名が作れないじゃない」

 唾を飛ばさん勢いで捲し立てる女子大生に対し、内海は極めて冷静に応じる。

「仰る通りです。ですから、〈LEO〉はそもそも平仮名に変換する必要はありません。これは〈LEO〉のアルファベット三文字で、ちゃんと意味のある言葉になっているんです。〈LEO〉は十二星座の英語表記でライオン、つまり獅子座を示すサイン――このメッセージを書いた宍戸悠さんが、すべてを話してくれたんですよ。四月十九日、つまり森野一裕さんが殺害された日に彼が〈repos〉を訪れていたことも。そして、彼があなたから託されたメッセージ付きの紙ナプキンを森野一裕に渡したことも」

 瞠目する一色乙葉の前に、警察手帳のあるページを開いた状態で差し出す。



 AH GL BJ DK AN GH AI DH CN EM OI



「あなたが宍戸さんに渡した紙ナプキンには、このメッセージが書かれていたそうです。彼はしっかりと憶えていましたよ……先ほどのルールに従って解読すると〈今から跡地に来て〉という文言になります。跡地とは、あなた達〈ゾディアック〉がアジトにしている美濃総合病院の廃墟ですよね」

 コードネーム〈スピカ〉は、警察手帳を穴が開くほど凝視したまま沈黙している。女刑事はここぞとばかりに留めの一撃を加えた。

「このメッセージの最後にある〈OI〉とは、あなたの本名を示していた。とは、っしき……いろは歌の暗号表では、コードネームのスピカは表せなかったからですね。

 宍戸さんから話を伺いましたが、アルタイルこと森野一裕は、あなたに好意を寄せていたようですね。時々二人きりで話しているところを見ることがあったと、証言してくれました。あなたはその好意を利用して、森野をアジトに呼び出した。呼び出しの理由が森野の制裁であったことを、あなたが知っていたか否かは判りません。ですが、意図の有無に関わらずあなたも立派な加害者です」

 形の良い唇を真一文字に結んでいた女子大生は、やがてか細い吐息を漏らすと「だから?」と小さく呟いた。

「だから何なのよ。私はただ、から伝言を頼まれてそれを実行しただけよ。他人に伝言することが一体何の罪になるっていうのよ」

「上って誰のことですか。組織のリーダー?」

 テーブルからぐいと身を乗り出し、内海は問う。〈スピカ〉は女刑事を睨みつけたまま押し黙っていた。

「あなた達が行ったことは立派な犯罪よ。二人の人物を手にかけて、一人を自殺教唆で死に追いやった。しかも、うち二人はあなた達組織の仲間――」

 額に垂れた長い前髪の隙間から、内海は刺青の乙女を睨み返す。

「あなた、さっき言ったわね。『他人に伝言することが何の罪に問われるのか』って――刑法六十二条。〈正犯を幇助した者は、従犯とする〉。犯罪が成立するための何らかの手助けをした者も、罪に問われるのよ。犯罪のための武器を提供する、犯行現場まで送迎する、犯行現場を見張る。ほかにも、被害者を犯行現場まで呼び出すとかね」

 柱の陰に潜んでいた公安捜査員たちが、いつの間にか一色乙葉の背後にぴたりと張りついている。コードネーム〈スピカ〉は内海から不意に視線を逸らすと、背もたれに力なく身を預け、大きなため息を吐いた。

 アーチ型の掃き出し窓から降り注ぐ晩春の陽射しが、刺青の乙女を優しく包み込んでいた。

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